悪魔に捧ぐ、三つの願い
‐1‐
ある日、一つの王家が一夜にして滅亡した。
目が。耳が。口が。皮膚が。鼻が。挙句その魂までが。
病に侵され腐り果て、集う蝿に犯され、産声を上げた蛆に貪られ、その死骸をただただ晒した。
男がいた。女がいた。老人がいた。赤子がいた。
王がいた。騎士がいた。使用人がいた。
多く、ひたすら多くの命があった。
その悉くが──一夜で死に果てた。
だから、それを呆然と見渡すたった一人の生存者は──
‐2‐
こんこん。
鶏が朝を知らせるより早く、重く響くノックの音に少年はゆっくりとした動作で起きあがった。
その気配を察してか、扉越しに凛とした声が放られる。
「王子、朝食のお時間です」
「……あぁ、いつもごめんね?」
「いえ、これが私の務めですので。では、失礼致します」
扉越しだと見えるわけはないのだが、使用人が律義にもひらりと一礼して去っていく気配が完全に消え去るのを待ち、それでもなお少年はそろそろとまるで怯えるような慎重さで鉄製の扉を開いた。
見下ろす視線の先、そこには銀のトレイに乗せられたパンとミルクが鎮座している。
ここに来て、もはや見慣れた光景に何を思うでもなく少年はそれを手に取るとベッドへと踵を返──
「まったく。毎日毎日。飽きないもんだねぇ。半年も
──そうとして、どこからかせせら笑うような、憐れむような声が聞こえてきて足が止まった。ゆっくりと、その声の主を見逃すまいと部屋に視線を巡らすが、声の主は見当たらなかった。
幻聴、だろうか? とか思ってんなら間違いだぜ。ほれ、ここだ、ここ」
「っ!」
ぶわっ!と部屋の一角で闇が膨れ上がった。かと思うとそれは人のようなシルエットとなり手を振ってきた。
「どーも、王子様。お邪魔してるぜ?」
「……はぁ」
なぜか親しげに話しかけてくる黒いもやに特に怯えた様子もなく少年は小さく頷いた。頷いて、何事もなかったかのように椅子に腰かけパンを手に取る。
そんな少年の様子にむしろ黒いもやの方が驚いたのか、「はぁ!?」と声を荒げて立ち上がったのがなんともコミカルだった。
「おい、おいおいおいおい! なんだそのリアクションは! もっとなんかあるだろ! ドアは一つしかないのにどっから入ってきたんだとか塔のてっぺんなんだぞとか窓一つねぇーんだぞとか!」
決してこの剣幕が外まで響いたわけではないだろうが、外で鶏が喧しく鳴きだすのを遠く聴きながら当の少年はどこか胡乱げに黒いもやを見返す。
「僕を迎えにきたの?」
「あぁ? 迎え? なんだよそれ」
「え? 違うの?」
黒いもやの返答が予想と違ったのか、少年はパンを頬張ろうとしていた口を止めて黒いもやへと視線を戻した。
「そろそろかと思ってたんだけどな」
そう言ってどこか自嘲気味に笑う少年に黒いもやは目を眇めるかのように顎に手をやりながらふむふむと頷き、
「あー。こりゃ随分と喰われてやがんな。……ははーん、なるほどなるほど。だからこんな扱いに甘んじてるわけか」
何やら合点がいったと言わんばかりに笑う黒いもやに今度は少年がむっとした様子で問いを投げかける。
「迎えじゃないなら、一体何者なの?」
その問いに黒いもやはパチンッと指を鳴らすと「待ってました!」とばかりに胸を張った。
「よくぞ聞いてくれました! 俺は悪魔! それ以上でも以下でもねぇ」
「悪魔?」
その名乗りを復唱しながら少年はますます訳が分からなくなる。
「悪魔がこんな僕に何の用なの? こんな」
「疫病に侵された人間に、か?」
「っ!」
「ひっひっひっ。いいねぇ、分かりやすくていい。実にいいよ、お前」
まるでこちらの心を読んだかのような悪魔の言葉に息を飲みながら少年はゆっくりとその言葉を首肯する。
──ある日、一つの王家が一夜にして滅亡した。
目が。耳が。口が。皮膚が。鼻が。挙句その魂までが。
病に侵され腐り果て、集う蝿に犯され、産声を上げた蛆に貪られ、その死骸をただただ晒した。
男がいた。女がいた。老人がいた。赤子がいた。
王がいた。騎士がいた。使用人がいた。
多く、ひたすら多くの命があった。
その悉くが──一夜で死に果てた。
だから、それを呆然と見渡すことしか出来なかった王子は──少年はこんなところで病に侵されながら残り短い人生を送っているのだ。
疫病に侵されたこの身であれど、王族の血筋。無碍に扱うこともできず父王と親交のあった貴族の元に引き取られたものの、彼らだって一夜で王家を滅ぼした疫病は怖い。
引き取られるや別邸にある塔に隔離され、先ほどのような食事の運搬だけが外とのやり取りである生活が半年も続いている。
だが、それは仕方ないことだと分かっている。
「だからと言って何もかもをも諦めるには若いし、早すぎると思うがね。そこで俺の出番ってわけよ」
「悪魔の?」
「そっ。俺の」
そういってひっひっひっと笑う悪魔をもう少年は無碍に扱わなかった。パンの乗ったトレイを脇に退け、悪魔の方へと居住まいを正した。
そんな少年の変わりようが心地よかったのか、悪魔は上機嫌に鼻歌なんぞをそらんじながら言葉を続けた。
「三つだ。三つだけお前の願いを叶えてやる」
「三つ?」
「そう、三つだ。誰よりも強い男になりたいとか、どんな女も振り向かせる魅力を手にしたい、金持ちになりたい……なんでもござれさ。あぁ、ただそれは無理だな」
そういって悪魔が少年を指さしてくる。それに少年は驚くでもなく、「そっか……」と嘆息した。わざわざ確認するまでもない、この身を侵す病はどうにもできないらしい。
「他にも願い事を更に増やせ、とか永遠の命を寄越せ、なんてものもダメだぜ?」
「永遠の命も?」
前者はまだしも、後者がいまいち納得出来なかった。悪魔からしてみればたかが一人の人間がすぐに死のうが死ななかろうが関係ないんじゃないだろうか。
そんな心中も読んでいたのか、悪魔は「無関係じゃないさ」と含み笑う。
「俺は悪魔だぜ? 願いを叶えて「はいっ、おしまい!」なわけないだろ? もし、お前の願いが三つ叶った暁にゃお前さんの死後の魂を貰い受ける。いわば契約さ」
「魂を……貰い受ける?」
「そっ。だから永遠の命をくれてやるのは無理なのさ。──で、どうよ?」
「どうって……なにが?」
「いや、なにがってお前! 今の話聞いてたろ!? 三つ! 願い! 叶えてやるって! お前の死んだあとの魂と引き換えにな!」
少年の反応に面食らったのか悪魔がぎゃあぎゃあとまくし立てるのを少年はどこか不思議そうに眺めていたが、不意に小さく噴き出すのに悪魔が身動きを止める。
「じゃあ、一つだけいい?」
「いいもなにも、叶えてやるって言ってるだろ」
やれやれとばかりに肩を竦める悪魔に少年はどこかおずおずと機嫌を伺うように言った。
「じゃあ、僕の友達になって」
「……は?」
それが、悪魔が最初に叶えることになった少年の願いだった。
‐3‐
「それで、その男の人はどうなったの?」
「あぁ? 国を手に入れて、絶世の美女をお妃にして、お妃さんを巡る戦争で勝利したあと? 死んだよ、呆気なく。王座を狙った弟に毒を盛られてな」
「そうなんだ……ちなみにその弟は?」
「そいつもすぐ死んだよ。これまた玉座を狙ってた家臣に逆賊として晒し首にされてな。まっ、その国自体王座を狙うあいつやこいつの争いで勝手に滅んでったけどな」
「そういう国もあるんだね」
「ま、お前さんのとこに比べりゃつまんねーわな。いや、つかよ? 楽しいか、こんな話?」
〝友達になって欲しい〟という願いを悪魔が聞き届けて早三日。悪魔はそんな問いをベッドに横たわる少年へと投げかけた。対して少年はと言うと全く退屈していないようで、どころか初めて出会った時よりも随分と活発そうな笑顔すら浮かべてみせた。
「うん、楽しいよ。あ、でも人が争ってどうのってことが好きってことじゃないよ?」
「さっきの話を聞いてそんな答え返されて納得すると思うか?」
「実際そうなんだけど……ほら、僕は外に出ることなんてできないから。……今も昔も」
「あぁん? 今はまぁ、ともかく、昔もってことはねーだろ」
そういって訝しむ悪魔に少年はふっと寂しげに微笑みながら
「これでも王家の血筋だったから。城の外なんて何一つとして知らないんだ。大人になったら外の世界を見る機会なんてたくさんあるってずっと我慢してたから苦しくはなかったんだけどね」
──今は、こんな体だから。
言外にそう言い含める少年の微笑に悪魔はけっとつまらなそうに愚痴を零す。
「だったら願えばいいだろ。『外に出させて』ってよ。そうすりゃそこのドアなんざちょちょいのちょいだぜ?」
「それは……みんなに迷惑をかけたくないから」
「けっ、殊勝なこって」
それでテメェだけが苦しんでるなんざくだらない。少年に倣って言外にそうとだけ含めながら悪魔は部屋の隅へと歩いていく。
「もう帰るの?」
「あぁ、〝友達〟ってのはいつまでも居座ってるもんじゃねーからな。また明日な」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとする悪魔だったが、あの『最初の願い』からいつもなら続いてかけられる「じゃあ、また明日」という言葉がかかってこないことが不可解になっておもわず少年を振り返ってしまった。
振り返った先、ベッドの上では少年が「えっと、その」とか「いや、でも」とか何か歯切れ悪く言い淀む姿が。それをじれったく思い、振ったまま上げていた手でがしがしと頭を掻きながら悪魔はベッド脇へと戻っていった。
「んだよ、なにか言いたいことがあるなら言え。二つ目の願いならなおさらだ」
そう詰め寄られて少年も意を決したのか、ぐっと拳を握りしめると悪魔をキッと見据えて言った。
「と、泊まっていきなよっ!」
「…………はぁ?」
「えっと、泊まっていきなよ。って言ったんだけど」
「いや、それは聞こえてたっての。いや、でもよぉ……泊まっていけだって?」
自分の提案が聞き取れなかったと思ったのか、二回も同じことを言った少年に悪魔はぽりぽりと頬をかきながら言及していく。
「なんでだ?」
「えっ。いや、なんでって言われても」
「安心しろ。別にそのままおさらばなんてしねーよ。お前の願いを三つ叶えて魂を貰うまではお前が付き纏うなっていっても付き纏ってやる。まぁ、付き纏うなって言うのが願いになりゃその限りじゃねーけどな」
ひっひっひっと意地悪く笑う悪魔に少年は「そういうことじゃなくて」と告げる。
「友達ならお泊りして、夜更かししながらお喋りしたりするんだって、昔うちの使用人に聞いたことがあったから……」
「あー……」
そういうことか。と悪魔は合点がいったように吐息を零した。そしてやれやれと言った風に肩を竦めると部屋に備え付けてある椅子にどっかと腰かけた。
「わーったよ。そういうことならいてやるよ。それで満足か?」
「うん。ありがと。それで、なんだけど」
「あー、はいはい。どうせ俺が今まで見てきた国とか人間の話をしろ、だろ? じゃあ次は──」
そう言って悪魔の話に少年は時に目を見開いて驚き、時に口元を引きつらせて怖がってみせ、時に目元に涙を湛えて笑うのだった。
そして、草木が眠る頃には
「──。────」
「へっ、ガキだねぇ」
少年もぐっすり夢の中、だった。悪魔がわざわざ話してやっているのに眠っちまうなんて信じられん。……まぁ。
「……まぁ、寝ちまったのに気付かずに喋り倒してる俺も大概か」
んー、と軽く伸びをしながら悪魔はゆっくりと起き上がる。一瞬椅子がガタついて少年が目を覚ますんじゃないか、そしたらまた延々話をせにゃならんのではないかと身構えたが、どうも少年が目覚める気配はない。
「さて。それじゃ俺もそろそろ休むとするかねぇ」
悪魔とてさすがにガキの相手をしてりゃ疲れるってもんだ。どこであろうと身を休めるのに不便はないが、ガキの近くでそんな無防備な姿を晒す気は毛頭ない。
「……で」
「あん?」
ベッドに背を向けた矢先、少年が何事かを呟いたのに気付いて振り返る。目覚めている様子はない。となると寝言か。
「ったく、紛らわしい」
「ない、で」
「……」
また聞こえてきた寝言にどんな夢を見ていやがるんだと顔を覗き込んで、悪魔はその判断を後悔して舌を打った。
「おいて、いか、ないで……」
少年の目元には涙が浮かんでいた。そんでもって「置いていかないで」ときた。
これが愉快であるわけがない。何に対しての「置いていかないで」なのかが理解出来てしまう分、そう言わしめている元凶に嫉妬にも近い感情が沸き上がってくる。
「こいつは俺の獲物だ。他のやつにくれてやるもんか」
たとえそれが自分と同じ悪魔だろうが。自分の力が及びもしない程の力を持った存在であろうが。これの魂は自分が貰う。
そう苛立たしげにベッド脇、さっきまで自分が腰かけていた椅子に座り込んだ。
「っ!」
するとその気配に目を覚ましたのか、少年が目に涙を湛えたまま起き上がってきた。
突然のことに目を瞬かせ驚く悪魔には目もくれず、少年は何かを──誰かを探すように視線を彷徨わせ、ぎゅっと手を握りしめた。
そんな姿にさすがの悪魔も問い詰める気にもなれず、代わりに別の言葉を放ってやった。
「二つ目。それでいいのか?」
「──え?」
声をかけられてようやく少年は悪魔の存在に気付いたようで、ハッと表情を強張らせるとぐしぐしと目元を拭いだした。
そんな少年の下手な誤魔化しを無視して悪魔はさらに言葉を放る。
「『おいていかないで』。それが二つ目の願いか?」
それは夢の中で少年が『誰か』に向かって言った言葉だ。『誰か』に縋った言葉だ。──そして一人生き残ってしまった『自分』を呪った言葉だ。
そんな言葉を真っすぐに突き付けながら悪魔はじっと少年の眼を見据えた。
涙を湛えていた目はその奥にいまだに隠しきれない寂寥感を、恐怖を宿していた。
だからこそ、その口から紡がれる言葉は決まっている。
「叶えて、くれるの?」
「それがお前の願いならな」
「で、でも……」
おずおずと、どこか遠慮がちに言い淀む少年に悪魔は「あのなー」と肩を竦める。
「最初にも言ったとおり、俺はお前の魂を貰う代わりに三つの願いを叶えてやるわけ。その二つ目を叶える機会をわざわざ手放すわけねーし見逃すわけもねーっての」
「そ、それじゃ……本当に、置いていったりしない?」
「あぁ、勿論。たとえテメェーが嫌だつっても付き纏ってやるさ」
だから、今は。
他の悪魔の影に怯えるんじゃねぇ。
とはさすがの悪魔も口には出来ず、ただただ底意地の悪い笑みを浮かべるのだった。
‐4‐
あの夜から更に月日は流れ、屋敷の外には青々とした草花が咲き誇り、真っ青な空には幾羽もの鳥達が自由気ままに空を舞っていた。
──が、そんなことは彼らには関係のないことだ。
「──で、その商人は最後にはなんって?」
「誰にも財産を渡しはしない、とかわめき散らして全部燃やしちまったよ。死んだとこで魂は俺のもんになるんだから、金なんざどこにも持ち込めやしないのにな」
「もし『死んでもお金と一緒にさせてくれ』ってお願いしたら叶えてた?」
「そりゃ勿論。まぁそうしたところでその金を使い込む先がねーけどな」
「あー、なるほど……」
もはや代わり映えのしない部屋、代わり映えのない風景の中にもされど留めることの出来ない変化はあった。
今もこうして笑いあいながら話している少年と悪魔であったが、当の少年は三日程前からベッドからろくに起き上がることも出来ず、その肉体も悪魔と出会った頃に比べればいくらばかりかやせ細っていた。
食事も満足に採ることが出来ず、今じゃ水で煮たてた穀物を啜る日々だ。
それでも来る日も来る日も飽くなく自分の話に耳を傾けるのだから人間とは本当に生きるということに関しては意地汚いほど貪欲なものだ。
「さて。んじゃ商人の話はここまでだな。次はそうだな……絶世の美女になりたがってた女の話とかどうだ?」
「それって最後には顔や体がチグハグで化け物みたいになっちゃった人の話? だったら先週話してくれたよ?」
「ん? そうだったか? いやぁ、こうも人間相手に喋ることなんざなかったからいよいよ話のネタも尽きてきそうだな」
「そうなんだ。長生きしてそうだからまだまだ思い出せてないだけでいっぱいあるんじゃないの?」
「さぁ? そうなのかもしれねーが……まぁ、思い出せねーってことはその程度だったってことだろーよ。」
「そう。……そう、だよね」
いちいち大昔の記憶を掘り起こすのも面倒でついぶっきらぼうな言い方をしてしまったことに悪魔は少年の落胆した声音に肩を竦めながら
「まぁ、なんかの拍子にパッと思い出すだろうぜ。それで──」
「じゃあ、僕の話を聞いてもらおうかな」
「──へぇ? 珍しいじゃねーか。どういう風の吹き回しだ?」
「うん、ちょっとね。嫌だった?」
「ハッ、まさか。いい加減自分だけくっちゃべってるのに飽きてきたとこだ、丁度いいぜ」
こちらの顔色を伺うような問いかけに悪魔は手をしっしっと振りながら答える。実際、悪魔自身も少年の話には興味があったのもある。
「ありがと。君はほんと、優しいよね」
「よせよせ。俺は悪魔だぜ? そんなんとは程遠い生き物だっての」
「それでも僕にとっては充分すぎるよ。っとごめん、話が逸れちゃうとこだったね。えっと、それじゃまずはね──」
そうやって少年は物心がついた頃からのことを話し出した。
まだ身分の違いなんて理解が出来なかった頃、よく使用人を困らせていたことや庭園で見つけた珍しい虫を母に見せたらかなり驚かせてしまったこと。母の悲鳴を聞きつけた衛兵達が何事かと駆け付けたり、後にその顛末を聞いた父が家臣の前では決して崩すことのない表情をくしゃくしゃにして大笑いしたこと。
七つになる頃には多くの教師がついて色々なことを学んだこと。
その分遊ぶ時間は減って、窓の外から見える同年代の子供達の姿がとても眩しかったこと。
勉強をサボって遊ぼうとしたところを衛兵長に見つかりお小言を受けたことや。
それを見ていた料理長が勉強をしたご褒美にと毎日美味しいデザートを作ってくれるようになったこと。
デザートを食べ続けたことで歯を痛めてしまい悪魔よりも恐ろしい医者にかかったこと。
(
そうやって少年は思い出せる限りの身の上話を聞かせ続け──気付けば日が沈みだしているのか、部屋には夜の訪れを知らせる独特の寒さが忍び込んでいた。
その寒さにか、少年はほんの少しだけ身を震わせると長々と息を吐き、微笑んだ。
「んっ。これくらいかな。なんだか思った以上に短い話だったなー」
「けっ、昼の間ずっと喋っといてよく言うぜ。聞いてるこっちが寝ちまうとこだったぜ」
「って言いながらも真摯に話を聞いてくれるんだから、ほんと君が悪魔だってことを忘れそうになるよ」
「ハッ、そりゃお前、俺は悪魔で、お前の友達だからな。だろ?」
「うん。最高の友達を持てて僕は幸せだよ」
「だろ? もっと誇ってもい──」
「だから、どうか僕のことは『忘れないで欲しい』」
悪魔の言葉を遮って告げられた『願い』に悪魔が開けた口をそのままに固まった。
なぜ? どういうことだ? この唐突さはなんだ。
胸中に過る不穏な気配に突き動かされ、悪魔は少年の方へ改まった。
ベッドの上に横たわる少年の顔は相変わらず笑顔に彩られている。
何かを達観したような。
何かを悟ったような。
まるで。
まるで。
──自分の人生に見切りをつけたような、そんな。
「おい。なんのつもりだ?」
その笑顔が気に喰わず、悪魔は思わず詰め寄った。少年の肩をひっつかみ、その笑顔を恐怖で塗りつぶさんとばかりにねめつける。
それでも少年の表情が変わることはない。ただ笑顔があるだけだった。
「思ったんだ。忘れられるのは悲しいし、怖いことだって」
「だから『忘れるな』だと?」
少年の言葉に悪魔がギリギリと歯を軋らせる。軋らせ、乱雑に少年を突き飛ばすとその鼻先にビッと指を突き付けながら吠えた。
それはまるで獣のように。
あるいは誰かを想って憤る、心からの友のように。
「ふざけるな! テメェ、この俺を見くびってやがんのか! 何が『忘れるな』だ! そんなことを願わなきゃ俺がテメェみてーなクソガキのことを忘れるとでも思ってやがんのか!」
「でも思い出せないことだってあるんだよね? さっき言ってたよ。それも忘れちゃった?」
「っ!」
悲しげに問う少年に悪魔は彼に出会って初めて息が詰まった。詰まってしまった。
『さぁ? そうなのかもしれねーが……まぁ、思い出せねーってことはその程度だったってことだろーよ。』
あれか。
さっき俺があんなことを言ったからか。
突然自分の話をしだした少年のことといい、『忘れないで欲しい』という最後の願いといい、それは全部自分の何気ない言葉のせいか──ッ!
思い至り、己の奔放さに憤りながら悪魔は「そんなこと」と少年の言葉を一蹴する。
「だったら覚えといてやるッ! だがそれは三つ目の願いだからじゃねぇ! テメェの『
たまらず少年の胸倉を掴みながら悪魔は思いの丈をぶつける。
「──『生きたい』と言え! 『死にたくない』と願え! お前が……お前がそう願うなら、俺は──」
ふと言葉が止まる。胸倉を掴む腕から力が抜ける。カッと見開いた瞳を更に大きく見開いて悪魔は……小さく、それこそ死に際の虫を思わせるほど小さな声で
「──なに、勝手に死んでやがんだ、テメェはよ」
掴んだ腕の中、『忘れないで欲しい』と願った少年は笑顔を浮かべたまま息絶えていた。
そこに微塵の恐怖も、後悔も、悔恨もなく。
ただただ幸せに満ち足りているかのような笑顔で。
息絶えていた。
その亡骸を力なく横たえながら悪魔はその死に顔にそっと触れていく。
まるで親が子を慈しむように。
あるいは壊れやすい宝物を扱うように。
「悪魔を相手に笑いやがって。バカが」
そう愚痴を零す悪魔の声音には先ほどまでのような憤りも底冷えするような虚無感もなかった。
ただただ泣いているような、笑っているような表情を浮かべて少年だったものを見下ろす。見下ろして、誰に聞かせるでもなく言う。
「いいぜ。だったら叶えてやるよ。テメェみたいなやつ、誰が忘れてやるものか。だから約束は果たして貰うぜ」
三つの願いが叶った暁には、その魂を貰い受ける。
そういう契約で、そういう約束である。
『友達になって欲しい』。ここまで付き合ったんだ、充分だろう。
『置いていかないで』。そのくせ勝手に逝きやがって。満足したか?
『忘れないで欲しい』。未来永劫覚えといてやる。お前みたいなバカを。
かざした掌の先、少年の魂がその肉体から抜け出していく淡い輝きに照らされながら悪魔は思う。思わずにはいられなかった。
人間なんてものは、実に愚かだ。
たかだか三つの願いで何もかもをも手に入れたつもりでいるのだから──
「俺は──」
その先の言葉を聞くものは、もうどこにもいない。
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