第2話 戦う理由

 控室に戻った俺はロッカーを開けた。

 扉についていた鏡が先ほどまで死闘を繰り広げていた俺の姿を映し出す。

 スキンヘッドの頂点には少々残った髪が鶏のトサカのように逆立っている。

 血まみれ角ばった無骨な顔。


 そう言えば笑ったのはいつ以来のことだろうか。

 先ほど裂かれた顎の傷をなでながら俺は思った。


 いや、そもそも俺は生まれてからこのかた笑ったことがあるのだろうか。

 滑稽なことだ。

 笑ったことが無いという事実に気づいたことが、おわらいでしかない。


 俺はタオルを頭に掛けると、部屋の真ん中に置いてあるベンチにドスンと腰掛けた。

 フーっと息を吐く。

 体中の毛穴から汗が蒸気のように立ち上っていた。


 俺にはセコンドなどいない。

 奴隷の俺は常に一人なのだ。

 だが、それでいい。

 他人など煩わしいだけ。

 頼れるのは己が一人。

 いまさら何を考えているんだ。


 俺は一体、何がしたいんだ……


 空っぽの自分。

 何もない自分、戦う事しかとりえのない自分。

 リングの上しか居場所のない自分。


 孤独。


 俺は、孤独。


 だれも周りに居やしない。


 俺が死んでも悲しむものなどいやしない。


 もしかして、俺は寂しいのか……


 寂しいから、リングで闘っているのか、だから、敵を求めているのか。

 それが俺の存在理由だからなのか……

 

 俺の目からはいつしか涙がこぼれていた。


 控室のドアがガチャリと音を立てた。

 軽快な足音が、うつむく俺に近づいてくる。

 頭からかけられたタオルによって狭められた俺の視界に、赤いチャイナドレスの裾が映った。

 そのスリットから見えるほっそりとした白い足には、さらに赤いヒールが履かれ、そこから音が響いてくる。


 だが俺は顔を上げない。

 この足を見間違みまちがえることはない。

 今まで何百回と見てきた嫌な足だ。


 チャリーン!


 乾いた金属音とともに、俺の足元に一枚の金貨が投げ捨てられた。

「今日の取り分だよ!」

 赤いチャイナドレスから上機嫌な声が発せられた。

 少々低いが透き通るような声。

 まるでテノール歌手のような美声である。

 こいつは、この地下闘技場のオーナーだ。

 名前など知らん。


「今日の引退試合は儲けがでかくてね!」

 先ほどの試合、よほど観客の反応が良かったのだろう。

 いつもに増してご機嫌な様子だ。

 ここで、いつものような不機嫌な声でも発していたら、次の試合では二人組の魔人などと戦うことになっていたかもしれない。

 というのも、俺が勝ちすぎているために賭けが成立しないらしいのだ。

 そのため、事あるごとに対戦相手の質をどんどんと強くしてきやがった。

 最初の対戦相手は俺と同じ人間の奴隷だった。

 その奴隷兵が猛獣に変わる。

 そして、猛獣が魔物に変わり、ついには魔人へと変わった。


「ゴンカレエ! 本当に、これで終わるつもりじゃないだろうね!」

 俺はオーナーの声には答えず、床の金貨を見つめ続けていた。


 俺の命は金貨一枚か……


 だが奴隷にしては決して安くはない。

 この金貨一枚で普通の4人家族の食費が1か月分が賄える。

 結構、大金といえば大金なのだ。

 この聖人国で、奴隷の命など価値がないに等しい。

 最下層の奴隷などは銅貨5枚の価値しかない。

 銅貨5枚は子供のお菓子すら変えない金額なのだ。

 にもかかわらず、奴隷が自由になるためには、その所有者である神民という身分の人間に大金を払わないといけないのである。


「フン! いつものだんまりかい……」

 何も答えず、金貨を拾おうともしない俺に対してオーナーはいらだった。

 いや、これはいつもの事。

 おそらく、いっこうに懐こうとしない飼い犬にいら立ちが募っているのだろう。

 だが俺は、こんな奴に媚を売るつもりは全くない。


「まぁいいさ。アンタは、戦うこと以外に能がないんだ。遅かれ早かれ、それに気づくことになるよ」

 それだけ言い残すとヒールの音は向きを変えた。

 オーナーはタバコの匂いだけを残して部屋から出ていった。


 俺は今までに大金貨99枚を所有者である神民に納めてきた。

 今ここに転がっている金貨を納めれば大金貨100枚となり、はれて自由の身になれる。

 そして、ここともおさらばだ。

 俺は自由になるのだ。


 だが、自由をつかんだ後はどうするんだ。

 俺には何が残っているんだ。

 何ができるというのだ。

 俺にはこれしかない。

 俺は、握ったこぶしを見つめ続けていた。


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