ショート・ショート・ショート

真波のの

三本目の火が消えて

   

 僕は、どちらかと言えば喫煙者を馬鹿にしている。

 だから今、僕の人差し指と中指の間に挟まれているキャスターの一ミリは、たとえ火が付いていたとしても、決して煙草が吸いたいからここにある訳じゃない。

 それは、ただの意味付けのようなものだった。

 僕は三階建てのアパートの三階に住んでいる。そして毎晩、僕はこのアパートのベランダでぼんやりと考え事をしていた。

 アパートの前には、子猫三匹が並んだらいっぱいになってしまうくらいの細い道があって、時折人が通り過ぎる。僕はとても気持ちの悪い顔をしていたので、もしも誰かがベランダにいる僕を見たら、覗きや不審者と勘違いしてしまうかもしれなかった。

 だから僕は火のついた煙草を持っている。人が通り過ぎるたびに煙草に口を付け、「僕がベランダにいるのは煙草を吸うためであって、決して変態や不審人物などではないですよ」ということをアピールしている。口をつけると言っても、もちろん吸い込むことなどはしない。ちなみに、今まで誰かと目線が合ったことなどは一度もない。

 強風でも吹かないかぎり、吸わない煙草はゆっくりと灰になってくれる。いつも三本ほど灰皿にもみ消してから、部屋のなかに戻ることにしていた。

 今日も僕はいつものように、数件の民家と、その屋根を眺めていた。この時間、電気が付いている家はたいがい決まっていて、そんなことを覚えてしまっている自分が少し嫌になる。

 右斜め向かいにある二階建ての家は、いつも電気が付けっ放しになっている。屋根はたしか茶色に近い赤い色をしていたはずだけれど、今は闇に馴染んでいて黒色にしか見えない。真っ黒になりきれていない東京の夜でも、景色の輪郭を曖昧にさせてくれる程度の役割は果たしてくれる。

 通りを挟んだ向こう側には、建ったばかりの大きなマンションがあった。そいつは昼間、とてつもない威圧感を持って僕を見下す。コンクリートの塊に『屑』だとか『カス』だとか言われているような気がして、僕は陽が出ているうちはそのマンションを直視することができない。

 東京の郊外にあるこの町は、年寄りと金のない学生が多く住んでいる。築二十三年の僕のアパートは大地震がきたら真っ先に潰れてしまいそうなほどおんぼろだが、この町のなかでは何の違和感もない。十数階建てのマンションのほうが確実に浮いている。しかしそれも夜になるとぴたりと景色にはまってしまうから不思議だ。

 夜は平等だ。だから嫌いじゃない。最近の僕は、陽が沈むころに目覚めて、陽が昇るころに眠りにつくという生活を繰り返していた。

 

 細長い雲がゆっくりと流れていた。星なんてほとんど見えないが、それは雲のない日も同じだった。ふと、東京にきたばかりのころに「空気が不味い」と思っていたことを思い出す。

 地元を離れてから、それほど長い時間は経っていないはずなのに、今では「おいしい空気」がどんな味なのか忘れてしまっていた。一瞬、「東京に染まったのだろうか」なんて考えてしまって、そんな自分自身を僕は笑った。

 僕の人生はいつから間違えたのだろうか。

 小学生や中学生のときに、勉強ばかりしないで友達を作っておけば良かったと思う。スポーツに興味を持って、部活に入っておけば良かったと思う。

 地元で有名な公立高校の特別クラスは、今思えば最低な雰囲気だった。まわりがすべて敵だった。せめて普通科に入れば良かったと思う。そして、もっと音楽やおしゃれに興味を持てば良かったんだ。

 大学受験の日に、僕はどうして風邪なんて引いたのだろう。僕なら今の私立大学より、もっとレベルの高い大学に入れたはずなのに。気付けば友達もいなかった。同年代の奴らの会話にもついていけなかった。大学に行くのが馬鹿らしくなった。

 僕の価値ってなんだ? こんな低レベルの大学で、女と付き合ったこともないださい僕が、生きている意味なんてあるのか。その大学でさえ半年も行っていないのだ。今さら、どんな顔をして通えばいいのか分からない。そんなこと言ったって、いつまでも仕送りで生きていける訳じゃない。

 分かってはいるんだ。それでも何もする気が起きない。ただの良い訳か。僕は甘えているのか。分からない。

 もう何もかも分からなかった。


 僕は、今日最後の煙草に火をつけた。この煙草が燃え切ったら、陽が昇る前に飯を買いに行こうと思った。昨日は近所のファミリーマートに行ったから、今日は駅前のセブンイレブンにしよう。

 煙草は火をつけるときに少し吸い込まなくてはいけないということを、僕は最近知った。いつも手で持ったまま火をつけていたのだが、なかなか火がつかないので何かがおかしいのだと思い、ネットで検索して間違いに気付いた。

 そんなことを教えてくれる友人でさえ、僕にはいないのだと思うと悲しかった。

 向いのマンションの一室に電気が灯ったことを確認して、僕は身を乗り出した。その部屋の住人は、いつもこのくらいの時間に帰宅する。彼女の存在を知ったのは、三週間ほど前だった。存在と言っても、僕は彼女のことをほとんど何も知らない。ただ、彼女の部屋はいつも薄いレースのカーテンがかかっているだけなので、電気をつけるとなかの様子が丸見えになるのだ。丸見えと言っても、彼女の顔を認識できるほど視力は良くなかったが、長い黒髪にパーマがかかっていることは僕でも分かった。結ばれた髪をほどく仕草は、とても色っぽい。

 僕が彼女を見かけたのは、本当に偶然だった。覗くつもりなんてこれっぽっちもなかった。今だって僕がベランダにいるのは、決して彼女を待っていた訳ではない。

 確かにカーテンを閉められていたりする日や、彼女が帰宅しない日はがっかりする。それに彼女の今日の下着の色を考えたりもするけれど、僕は覗きをしている訳じゃない。僕は彼女を見かける前からずっと、毎日このベランダでぼんやりしていた。

 僕の景色に勝手に入り込んできたのは彼女のほうだ。悪いのは僕じゃない。

 今日の彼女の下着の色は赤だった。白いワンピースに袖を通す。もしかしたら、ネグリジェかもしれない。僕が着ているユニクロの黒いスウェットは、三日は洗っていなかった。高級マンションの住人は寝間着も高級らしい。

 彼女は突然、椅子を部屋の真ん中まで運んできた。そして、その椅子の上に立った。何かを持ち、天井に手を伸ばしている。手を下ろすと、白い紐がぶらりと垂れ下がった。紐の先端は、輪っかになっている。

 僕の鼓動が速くなった。

 彼女は輪っかに首を通す。「まさか……」と思った瞬間、立っていた椅子が倒れ、彼女の身体が宙に浮いた。柔らかそうな白い木地が、ふわりと揺れる。

「熱っ」

 煙草の灰が、僕の膝の上に落ちていた。視線を落とした僕は、アパートの前の通りに人がいることにそのとき気が付いた。スーツを着た三十代くらいの男と視線が合う。

 僕は慌てて、火種の落ちた煙草を口に運んだ。

 



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