羊ヶ丘

城谷望月

羊ヶ丘

「私は、これまでにたったの一度だけ、人を殺めました」

 静かで、少しでも風が吹けば東の空へ飛んでいってしまうような声で、男は足下に目をやった。そこに自分にとって大切な秘密が埋められているかのように。

「聞き及んでおります」

 僕はゆっくりとうなずいた。まずは話し手を否定しないこと。それが僕の仕事の流儀だ。

 男は、七十代半ばだった。東京の下町であの《混乱の時代》に生まれ育ったと情報手帳には書かれている。

 頭は総白髪で口元のたるみが目立つ。だが目には妖しいほどに生命力が宿っている。

 二週間前、「仲介人」を通してこの男――タケハラ・ジンと名乗る――にアポイントメントを取った。彼は人をたった一度、殺めたという。しかし彼は逮捕されることも裁判に掛けられることも投獄されることも世間に後ろ指を指されることもなかった。

 世間は彼が殺人を犯したことなど知りもしないのだ。

 だがタケハラは、自身を殺人犯だと主張して止まない。

「私が殺しを犯したのは、たった一度きりです」

 その呟きは彼自身に対する確認のようだった。

 そして無意識なのか、演技なのか、左手と右手の指同士をこすり合わせる。私は《この手で》人を殺したのだ――と強調するように。

「そのお相手の名前を伺っても?」

 僕はおずおずと切り出した。ボールペンを持つ右手がわずかにだが震えた。

 これが今回の取材で最も重要な質問だ、と取材前に依頼人から告げられていた。

 タケハラ・ジンはいったい誰を殺したのか?

 彼はゆっくりと、しかし力強く首を横に振った。

「それは、私にも分かりません」

「分からない?」

 自分の声が裏返ったことを恥ずかしく思う余裕もなかった。

 たった一度だけ殺しをしたその相手の名前が分からないとはどういうことなのか。

 これは奇妙だ。よほど殺したかった相手ならば名前も顔も明確に覚えているはずである。

 夢の中に何度も表れては、殺した側を震え上がらせるほどに。

「私が話す内容は、あまりにもトリッキーなものです。もしかするとあなたには信じてもらえないものかもしれません。」

 再び左手と右手の指同士をこすり合わせながら、彼は静かに語り始めた。きっとこの所作は、彼なりの思考整理術なのだろう。窓の外の空に浮かぶ羊雲をちらりと見上げて、タケハラ・ジンは悟りきったかのような顔つきで口を開いた。

「あれはまさしくパノプティコンの時代でした――」

 二十代半ばの私の目には、東京で生きる誰も彼もが互いを監視し合っているようにしか見えませんでした。

 群衆は誰かが自由を手にすることはもちろん、自分自身に対してさえ、本当には自由を手にすることを許していないように見えました。だって、誰かが自由を手にするくらいなら、自分のそれを放棄してでも、誰かの自由を阻害したいのですから。

 都市には疫病が蔓延していましたし、そもそも自由は大幅に制限されていました。そんな中でも自由を謳歌しようとする人間は少なからず現れます。そんなとき、群衆は一斉にそんな輩を叩きのめしました。お前たちのせいで、このパンデミックは収まらないのだと。こんな風に、群衆は他人を監視することに長けていました。したがって、自分自身を監視することも得意だったのです。政治家の思うつぼです。政治家が何一つ働かなくとも、群衆が看守になってくれるのですから。

 私はそんな都市の中を身分もあやふやな非正規雇用者として毎日放浪していました。私は看守にも囚人にもなりえませんでした。本当の自由というものは、心の内側に灯るものであって、誰かに見えるように外面化・可視化すべきものではないのです。

 時代は明らかに退行の兆しを見せていました。群衆は批判することで誰かよりも優位に立てると思い込んでいるし、批判できないものは能なしと見なされました。時代は叫んでいました。平等であれ、調和せよ、友好路線を支持する――しかしそれは結局のところ、互いを互いに監視するための合い言葉でしかありません。

 群衆はよく羊に喩えられますが、まさしくその通りでした。犬の声に従って、群れであっちこっちと草原を歩き、そこから外れることがないように、互いに牽制し合っている。どれもこれも似たような外見で区別が付かないし、遠くから見たらただの白い塊。

 感染が拡大する中で私は職を失い、家を失いました。ひもじい生活の中、徐々に心のバランスが崩れ出しました。このままでは自分の顔や名前も失うのではないかという恐怖に、毎晩震えました。

 ある朝、ふと駅前の人の流れを見た時にあれ、という違和感を覚えました。街を歩く群衆たちの頭から、見事に顔が剥がれ落ちているのです。みんな真っ白なつるつるの顔を前に向けて、駅の方へと歩いて行くのです。

 これが群衆の本質なのか、と腑に落ちました。

 観察していると、彼らの輪郭がぐにゃぐにゃと揺らぎ始めているのが分かりました。揺らぎ始めるとますます、彼らの自由を望まないその本音が私の耳に届いてきました。

 いえ、そもそも彼らは個体として生きることさえ望んでいないのです。ただ惰性でこれまでの日常をつなぐことしかできないのです。だから疫病にも負けてしまうのだと、私は気がつきました。

 私はジャケットの内側から使い古したナイフを取り出しました。職や家を失っても、これだけはこの過酷な時代に必要だと思い、取っておいたものです。

 素早く群衆の流れに近づき、もはや「個」だか「群」だか分からなくなりつつある一つのシルエットに、勢いよくナイフを突き刺しました。輪郭がぐにゃりと裂けました。しかし血は吹き出ませんでした。そのままナイフを突き刺された誰かは、風船のように萎んで消えてしまっただけでした。

 自分は人を殺したんだな、と認識しているのに、他の人々は誰もそんなことには気づいていませんでした。衆人環視など、この程度のものなのでしょう。

 タケハラ・ジンは最後にもう一度、右手と左手の指同士をこすり合わせて、窓の外を見上げた。さっきまでの羊雲はずいぶん形が不明確になっていた。

「これが私のたった一度の殺人の全容です」

「――それは、もしや」

 言いかけた言葉を、彼は寂しそうに遮った。

「そのことばは、言われ慣れておりますので」

「……失礼しました」

 彼の経験を妄想だと断定することはあまりにもたやすすぎた。そういう安易な道に逃げないこと。それが仲介人と決めたルールだ。

「それではこの辺でよろしいでしょうか? これから孫の迎えがありますから」

「お孫さんまでおられるんですね」

 僕のコメントに、タケハラ・ジンは黙って微笑む。

「気をつけてくださいね。今でも国が羊ばかりになることを願う大人は多いものですから」

 彼が立ち去ったあとの部屋には、非現実的な空気が充満していた。

 気づけば僕も、両手の指同士をこすり合わせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

羊ヶ丘 城谷望月 @468mochi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ