「……はあー……」

 太古の森の中にある水底が見通せるほど澄んだ池のほとりで、ミコは重苦しいため息をつく。

『家へ帰る、絶対に』を合言葉に、ミコはこれまで気持ちを保っていた。母直伝のおまじないで勇気を奮い起こしてきたのだ。

 けれど、自分の中で顔を出してはやりすごしてきた不安を、頭は忘れずにちくせきしていて。

 ―― 昨日の黒竜のばくだん発言がとどめだ。

 森へ来るなり、昨日と同じ川の場所へ行ってみると、麻袋はすべてこつぜんと消えていた。

 念のために岸を下ってもみたけれど、どこにも不法とうされたものは見当たらなかったのだ。黒竜は有言実行とばかりに、能力で本当に根こそぎ片づけてしまったのだろう。

(……わたしのこの一週間は、なんだったの)

 黒竜の手のひらで転がされただけ。少しは打ち解けたかもと思っていたのにあんまりだ。

 職務をほうするわけにいかないので太古の森に来るには来たが、精神的にへばったミコはやるべきことが消えたからと黒竜を捜す気にはなれなかった。

 ゆえにこうして、川からほど近い綺麗な池の前でぽつんと膝をかかえているのだ。

「……大丈夫、余裕だから……」

 ミコはおまじないをつぶやくも、その声にはなかった。

 顔も笑顔には程遠く、うれいの色が強い。

(……お母さんとお兄ちゃん、どうしてるかな……)


 きっといまごろは、かみかくしにでもったように消えたミコを心配しているに違いない。

 スマホもさいも入ったままの通学鞄がベンチの上に置きっぱなしだったはずだから、間違いなくそうさく願は出されているだろう。

「……みんなに、会いたい」

 郷里へのこいしさが募ったミコの瞳がなみだうるむ。それをミコは手で乱暴にこすった。

 今泣いてしまったら、きっと立ち上がれなくなる。そんな気がして。

(このまま暗くなっちゃだめだ!)

「よし! 今日はもう色々考えずに、元気と英気をチャージしよう!」

 決まり、とミコは脇に置いてあった鞄をごそごそあさった。ミコが取り出した包みには、小さめのホールアップルパイが入っている。

 ―― 「無理しないで、疲れたら甘いものでも補給してね」

 出がけにモニカがそう言って、持たせてくれたのだ。

 タディアスもモニカもお役目の内容についてせんさくしない。それでいていつも、見守るようなあたたかい目でミコに接してくれる。

 押しつけがましくない気配りと優しさは、ミコにとってとても心休まるもので。

 大げさかもしれないが二人はミコにとって、この世界での祖父母のようなものだ。

(ありがとうございます。タディアスさん、モニカさん)


 胸の中で感謝して、けいこうしていたナイフでアップルパイを食べやすく四等分する。

「いただきますっ!」

 ぱんっと手を合わせたミコは誰も見ていないからと、づかみした一切れにかぶりついた。

 外側のパイ生地はこうばしくサクサクで、中のとろっとしたりんごの甘さはへばった心にみ渡るようだ。

 と、ミコがアップルパイを存分にたんのうしていたときである。

『―― くそ! 放せえっ!』

(この声は)

 聞こえたのは耳に覚えのある声だったが、どこかせっまっているような気がした。

 声が流れてきたと思われる方角にミコは小走りで向かう。

(こっちかな。そんなに遠くないと思うんだけど……)

 ミコが天を突くような樹々の間に生える茂みをかき分けて、その先に飛び出すと―― カーバンクルたち小さな幻獣が、縄のようなものでがんじがらめにされた状態で樹の幹にくくりつけられていた。

「みんな、どうしたの!?」

『ミコ!!』

 つかまっていたのは昨日出逢ったカーバンクルとその仲間が数匹に、同じく昨日あの場にいた子牛ほどの子グリフォンだった。

 相当きつくしばっているのか、縄が躰に食い込んで痛々しい。

(なんてひどいことを!)

「待っててね、すぐに逃がしてあげるから……」

「―― なんだこのガキ!?」

 振り返った視線の先にいたのは、使い込まれた武器をたずさえた立派な体格の男が四人。しょう髭を生やしたいかつい風貌で、見るからにかたではないぶっそうな雰囲気だ。

 ―― 縛られた幻獣ではなく、ミコに驚いた強面こわもてのごつい男たちが密猟者なのは明白。

 とっにミコは幻獣たちを後ろにかばい、ポケットにしまっていたナイフをかざす。人にものを向けてはいけないと教わって育ったが、今はかまっていられなかった。

「この子たちは渡しませんっ!」

「いきなり現れて、何ふざけたことぬかしてんだてめえ?」

(っ!)

 平然と人を手にかけていてもおかしくない殺伐とした視線を向けられたミコは、悲鳴をどうにか押し殺して一歩後ずさった。

 が、ミコを睨みつけた密猟者のうちの一人にあっという間に距離をつめられる。

 男はミコのナイフを握ったままの腕をなんなく摑んだ。


「痛っ……!」

「―― 捨てられたのか肉づきはちとひんそうだが、はだや髪のつやはいい。よし、大漁ついでにこのガキも売っちまえ。金持ちには少女しゅのド変態はくさるほどいるからな」

(!?)

 腕を摑む男が、買い物ついでみたいな調子で恐ろしいことを口走った。

「な、―― っ!」

 手にしていたナイフを落とされ、後ろから手で口をふさがれてしまって声が出せない。

「おとなしくしてりゃ、何もしねぇよ」

 全力でもがいてみるが、くっきょうな男の腕はびくともせず。こうなったらなりふりかまっていられない。ミコは男の指に思いきり噛みついた。

 いてぇ! と叫んだ男が腕のこうそくをゆるめたすきに逃げ出すも、足がすくんですぐに転んでしまう。

「おとなしくしろっつっただろ! 傷がついたら商品価値が下がるんだからよ!」

(恐い、誰か……!)

 声にならない願いとは裏腹に、男の手が迫ってくる。

 元の世界に帰ることもできないばかりか、このまま幻獣たちと一緒に売り飛ばされてしまうかもしれない。

 ―― そんなのってない!

 絶望のふちに沈んだミコが、ぎゅっと目をつぶったそのときだった。

『《かみなり魔法》雷撃矢トゥルエノ・フレチャ

 人のものではない、恐ろしくも低い声が響いた。

 瞬間、天を割るようにして生じたごうぜんたる音が大地をつんざき、心臓と骨をきしませる。

 びりびりと空気をく雷は、見る間に火花をまとう光矢となってひらめき、身動きするひまあたえぬすさまじい速さでミコと男たちの間を裂くように降り注いできたのだ。

『…… ものどもが』

 風に吹かれて揺れ動く樹の間から、ゆらりと現れたのは―― 人に畏怖の念をいだかせずにはおかない、しき黒竜であった。

「りゅ、竜!? ま、まさか、守り主……っ!?」

 男たちからは顔色がしゅんせる。

 先ほどまでのせいが噓のように、がたがたと震えてしりもちをついた。完全に、黒竜にされてしまっている。

 けれどそれはミコも同じだ。少しは見慣れたと思っていたが、幻獣の王者がき出しに

した圧倒的な迫力のあまりの恐ろしさに、息を吸うこともできない。

『俺の縄張りでおろかなをして、ただですむとは思っていないだろうな?』

 吐きてるなり、黒竜はむちのようにしならせた長いを男たちへとようしゃなく打ちつけた。

 男たちは全員真横に吹っ飛んで地に沈む。まともに喰らった物理こうげきが相当効いているようで、ろくに呻くことすらできずにもんぜつしている。

『またこの森に踏み入ってみろ―― 命はないぞ』

 男たちには黒竜の恫喝が理解できずとも、その背筋のこおる殺気は十分すぎるきょうだ。

 せんりつのあまり青ざめた男たちはおぼつかない足取りで、我先にと茂みへ逃げ去っていった。

(た、助かった……?)

 へなへなとだつりょくしたミコは、ようやく息を吐き出した。

 黒竜はといえば、げんそうにまゆをひそめて座り込むミコを見下ろしている。

『お前……』

(そうだ、みんな!)

 黒竜の低めた声で正気づいたミコは、落ちたナイフを手に拘束されたカーバンクルたちに駆け寄った。

「みんな大丈夫!? すぐに縄を切るから、ちょっと待ってね」

 ミコは幻獣たちを傷つけないよう、ナイフを慎重に動かしてぶちぶちと縄を切っていく。

 最後の縄を切り落とすと、解放された幻獣たちは地面にしゃがむミコの足元にはべる。さっきとは逆の庇われるような形勢になり、ミコはまばたきをり返した。

 一同を代表して、カーバンクルが成り行きを見守る黒竜に言い募る。

『黒竜さま、ミコはさっきの人間どもに捕まっていたオイラたちを助けてくれようとしたんだ』

『………………』

 黙ったままの黒竜に、カーバンクルは訴え続けた。

『ミコは人間だけど、あいつらと違って悪い奴じゃないよ』

『……わかっている。……ところでお前たちに怪我はないのか?』

 無事だとカーバンクルが返事をすると、黒竜は『……ならいい』と話をたたんだ。

『……もう行け。利己的で強欲な人間は他にも大勢いる。今後はさらに用心しろ』

『わかった! ありがとう黒竜さま。ミコも、助けてくれてありがとな!』

 ていねいにお礼を告げて、カーバンクルたちは森の奥へと駆けていく。

 姿が見えなくなると、黒竜はおもむろにミコの方へ歩み寄ってきた。そのままミコと視線を合わせるように、長い首をかがめる。

 ―― こんな間近で黒竜を見るのは、初めてかもしれない。

 ふかむらさきの瞳は、かつてないほどまっすぐにミコをとらえている。

 だからなのか不思議と恐くはないが、つぶさに観察されているような気がして、ミコは落ち着かない気持ちになった。

『……なぜ、人間のお前が幻獣を助けた』

 黒竜の表情から内面は少しも読み取れない。けれども、その語感はこれまでにないほどに冷たさがひそめられているように感じた。

「カ、カーバンクルくんたちが捕まっているのを見て、助けなきゃと思ったので……」

『自分は自衛のすべを持たないのにか』

「……なんというか、体が先に動いてしまった感じで。顔見知りの子たちだし、放っておけなくて……」

『我が身をかえりみず幻獣を救うとは……本当に変な奴だな、お前は』

 黒竜は呆れたように言う。たんりょだと咎められるかと思ったミコはつい身構えた。

『……《へん》』

 しかし、黒竜の口をついて出たのは短い言霊だ。

 時を移さず、黒く巨大な姿が白いけむりのようなものに包まれる。

 はくえんしに見えるシルエットが、するすると小さくなっていき――

「っっっ!?」

 ミコはぎょっとした。

 数秒前まで黒竜の姿だったのに、煙が切れるようにして晴れた場所にたたずむのはどう見ても人間の青年ではないか!

(し、信じられない!)

 としころは二十四、五歳くらいだろうか。毛先が首筋に落ちている紫を帯びたくろかみに、こちらをじっと見ている瞳孔が縦長の瞳は深紫色と、しきさいは竜のそれと似ていた。

 感情が読めない無表情だがしかし、その顔立ちはかんぺきな造形と言えるほどにたんせいだ。

 口元からわずかに覗く尖った犬歯がこれまたりょく的で、長身にまとう黒を基調としたすそ長の軍服めいたしょうが見事にはまっている。

「……黒、竜さま? その姿は……?」

『これは別形態だ』

 竜のそれとは違う、低くてどこか甘い美声だった。

 人に近い姿となったことであつ感は格段におさえられているけれど、異様なまでのあたりをはらうような風格はさすがほんしょうが竜だけある。

『カーバンクルたち小さな幻獣は力が弱く、人間どもに狙われやすい。……同胞を助けてくれたこと、感謝する』

(………………えっ?)

 ミコは言葉を失った。

 なぜなら、黒竜がお礼を言ったばかりでなく、手を差し伸べてきたからだ。

『……感謝するとき、人間は手を握るんだろう?』

 まさか、そのためにわざわざ人形になってくれたのだろうか?

 ミコはめずらしいものを見る目で、黒竜の手をじっと見つめる。

 ―― 指が長い。綺麗だけど、筋張った手は大きい。

 竜だと知っているのに、人に近い姿になったせいか変に緊張してしまう。

 でも、いつまでも手を出させたままにしておくのは失礼だ。ミコはおずおずと自分の手を黒竜のそれに重ねた。

 黒竜は握った手を引いて、ミコを立ち上がらせてくれる。

『改めて礼を言う、ありがとう』

 ありがとう!?

 予想だにしないあたたかな言葉にミコは激しくどうようして、声が裏返った。

「い、いえ! 結局、あの密猟者たちを退散させたのは黒竜さまですし……!」

『お前が助けず見過ごしていれば、あのカーバンクルたちは今頃奴らの手に落ちていた』

 黒竜から紡がれる声には、安心したかのような穏やかな響きがあった。

(……黒竜さまって……)

 たぶん、この太古の森に棲む生き物たちを、とても大切に思っているのだろう。

 だから不作法に森をらし、生き物たちに害を成す人間が嫌いなのだ。それでも、敵視していたはずのミコにこうして感謝の気持ちを伝えてくれる。

 ただばくぜんと人間嫌いというわけではないように感じた。

『お前、……いや、名前はミコだったな』

 ふいに名前で呼ばれて、ミコの心臓ががる。

 なんでもないことなのに、なぜかどうがうるさい。せわしなく脈を刻む心臓はなかなか|落ち着いてくれなかった。

 かまっても懐かなかったいぬが、初めて手からえさを食べてくれたときの喜びに近いものに自分はひたっているのだろうか、とミコは真面目に思案する。

(って、わたしまだお礼を伝えてなかった!)

「あの、こちらこそ危ないところを助けてもらってありがとうございました、黒竜さま」

『……ジルだ』

「え?」

『俺の名前だ。……言っていなかったからな』

 ミコへと向けられた黒竜―― ジルの深紫の瞳にはいつものれいてつさはなく、どこか優しげな光をたたえている。

「どうして、急に名前を……」

『……ミコになら教えてもいいと思った』

 それだけだ。短く吐き出したジルがほんの一瞬、口端を上げたのをミコは目撃した。

 ただ、すぐさまジルは元の無表情に戻ってしまう。

 それでもどこか穏やかだった表情は、ミコの瞳にしっかりと焼きついている。

(……少しは心を開いてくれた……のかな?)

 ジルの気持ちの動きは摑めないが、もしかしたらお役目の進展につながるかもしれない。

 それも大事なことだけれど―― これまでの行動とやりとりから、ミコに歩み寄ってもいいかもしれないとジルの心に変化をきざすものがあったのだとしたら、嬉しい。

(なんだろう……もっと、ジルさまのことが知りたい)

 かんがひたひたと満ちる胸にふと抱いたのは、純粋な好奇心。

 今までミコはやらなければという義務感から、黒竜と対峙するだけだった。

 ―― でも、ジルさまがこうしてかべを取り払い始めてくれたから。

 自分もジルのことを知りたいと思った。

 それはミコにとっても、ささいなようで大きな気持ちの変化であった。


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