ビオトープ!
宇極メロ@思ってたより動くメロンパン
ビオトープ!(上)
prologue
prologue 空想が消えた日
行かないで。
別れを予感した言葉が心の中に浮かんだことに動揺した。
強く抱きしめる手のひらをフータの赤い舌が優しく舐める。舐められた部分が温かく、そして痺れた感覚を覚えた。溢れだす感情に耐えきれず、視界が歪み始める。
既にわたしは、これがどうしようもないほどに別れの儀式であることを理解してしまっていた。でもそんなの認められない。こんな突然の別れなんて受け入れられない。だって、あなたがいなくなってしまったらわたしは――。
背中から風船を生やしたヘンテコな犬が、いつもより軽く感じられた。
そこでわたしは、ようやく自身の身体が少しだけ宙に浮かんでいる事実に気がつく。
「えっ」という間抜けな声が漏れる。
ほんの五センチくらい。でも地に足がついていない感覚を知るには十分すぎる距離だった。フータの背中から生えた風船がいつもより膨らんでいるのだ。それは現在進行で膨張し続けている。まるで中に詰まっている物質が外に出ようと頑張っているかのように。
そして風船がフータを空へと連れていく。重力に負けてわたしは地面に足をつけた。瞬間、「置いていかれる」という思考がこみ上げ、ものすごい勢いで心を支配していく。
「フータ、いやだ、行かないで!!」
わたしはわがままを叫んでしまった。
どうか、お願い、行かないで。
フータの気持ちなんて考えもせずに。
痺れが乾いてしまう前にわたしは必死に手を伸ばした。
ぱんっ、という音は聞こえなかったと思う。
フータの背中から生えた風船が燃えるように割れていく。
様々な事柄がスローモーションに見える。
わたしはその風船の内側に、広大な海を視た。
それは半径五十センチメートルに凝縮した生命の塊。波のように流動する光の集合体は、まるで銀河のように入り組んで見えた。
そして長い一瞬が訪れる。その中で、わたしはいまこの瞬間までここにはなかった世界を、割れた風船の内側に幻視した。
空を泳ぐえらの付いた白鳥の群を。
自身の色を日々変化させる植物のゆらめきを。
他者に擬態して生きる透明な魚を。
自らの肉体の限界を探求するネズミの姿を。
そして、背中から風船を生やしたヘンテコな犬たちの隊列飛行を。
その風景はフータの存在が確かなものであった証拠として、わたしの記憶の中に留まり続けている。
あの出会いはけして空想などではなかった。
一緒に食べたコッペパンの味も。
転校したての町とそこで楽しそうに遊ぶ子どもたちを遠くの方から眺めたことも。
寂しさを紛らわしてくれた暖かな毛並みの手触りも。
全部、あの景色とともに心に焼き付いている。
これがわたしと世界犬の別れのすべて。
ほんの一週間ばかりの未知との遭遇の終わり。
わたしの空想が消えた日の出来事。
吐いた息がふわふわと白く色づくのが視界の片隅に見えた。
――あれから十数年。
二十三歳になったわたしは、小学校の教師になった。フータと出会ったあの裏山が見える小学校の理科の教師に。随分と時間が経過したのに思い出は少しも風化していない。
そして未だにわたしは「行かないで」と口にしてしまったことを後悔している。
変化を選んだ《世界》に向かって、無責任にも変わらないことを願ってしまったのだ。
明日変わるかもしれない世界の中で、わたしはどうすればいいのか。
答えはまだ見つけられていない。
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