第一章 絶対に出会ってはいけなかった出会い
時は天文16年。西暦で言えば1547年の、桜舞う頃の事だった。
尾張は濃尾平野の、その片隅。
織田家の、当時の居城であった小牧山城に程近い農村に、今年で二十歳となる明智十兵衛光秀は赴いていた。
細身ながらも涼しげな目元が魅力的な、美丈夫の若武者である。
彼はその涼しげな瞳を、しかし今は忌々しげに細めて空を睨みつけている。見上げた鉛色の空からは、まるで滝の様に激しい雨が打ち付けられていた。
「ええい。先程までは晴れていたというに、話が違うではないか」
おおよそ建物らしい建物も無く、ただ田畑が広がるのみの平野。その真っただ中で急な豪雨に見舞われた十兵衛は不運を呪いつつ小走りに駆け、やがてどうにか身を潜める事のできそうなあばら家を見つけた。おそらくは近隣の農民が、農具を仕舞う為に立てた小屋なのだろう。粗末な造りではあるが、この雨を凌げるならばそれで充分。
そう思い至った十兵衛、「御免」と律儀に一言を発し引き戸を開ける。
すると、そこには既に自分と同様であろう先客がひとり、腰を降ろしていた。
扉の先に居たのは、まだ幼さの残る若者だった。
とはいえ、若いながらに身なりは整っている。背筋も正しく腰を降ろしているその少年は、十兵衛の顔を見上げると小さく会釈をした。その所作の端々にも、育ちの良さが垣間見える。
――織田家の若衆か。
当時、十兵衛の仕える斎藤家と織田家は、幾度も小競り合いを重ねてきた言わば敵同士。そしてここは織田家のお膝元である小牧山。当然、織田家中に連なる者が居てもおかしくは無い。むしろ、敵地に単身赴いている十兵衛の方がおかしいのである。
が、さしもの十兵衛もまだ幼さの残る少年にそこまで警戒はしなかった。
「明智十兵衛と申す。この通りの雨じゃ。済まぬがしばしの間、わしも雨宿りさせて頂く」
「前田……犬千代と申します」
礼儀に則り名乗った十兵衛に、少年は折り目正しく名乗りを返す。まだ勝気さの残るその顔は、しかし少年特有の躍動感を持ちつつも、どこか少女の様に可憐な表情も覗かせる。端的に言って美少年、それも十兵衛の好みの正鵠。すなわち、どストライクであった。
「じゃ、邪魔をする」
何となくドキドキしながら、十兵衛は犬千代の隣に腰を降ろす。
横目に犬千代を覗き見ると、彼もこっそりと十兵衛に視線を送っていたが、慌てて目を逸らした。気のせいか、彼の耳は熟れた柿の如く色づいている様に見えた。
実になんとも言い様の無い、気まずさとも取れる空気が漂う。
外から屋根板を乱打する様な、豪雨の音が聞こえるばかりのこの部屋。まるでこの世に彼等二人のみが取り残されたかの様な、一種異様な空間にも十兵衛には思えた。
「ああ……犬千代、と言ったか……お互い、災難であったな」
この空間に、最初に音を上げた十兵衛が語り掛ける。
「はい」
犬千代は、小さいながらもはっきりとした声で応えた。
――可憐だ。
十兵衛は胸のときめきを覚えた。
この時代の多分に漏れず、十兵衛も衆道を嗜む。いや、嗜むどころの騒ぎでは無い。彼は衆道が大好きである。いっそ女なぞ要らぬと考えてすらいる。
そんな彼の、しかも好みの美少年が隣に、一寸手を動かせば触れる事のできる距離にいるのだ。
そして一方の犬千代も、なにやら熱の入った眼差しを十兵衛に送っている様に思える。
――これは、よもや類稀なる好機なのでは。
十兵衛がそう考えるのも、無理もない話であった。
しかし、彼もひとかどの侍である。
いかに好みの若衆が居たとはいえ、見境無く襲っていてはそこらの雑兵、いやいっそ畜生にも劣る所業。
もっと侍らしく、今風に言えばスマートなアプローチをせねばと思い悩んでいた所……
「む? そなた、震えておるな」
見れば、犬千代は濡れた衣服を着たまま、両の手で身体を抱いて小刻みに震えているではないか。
春先と言えど、雨に打たれれば身体も冷える。しかもこの日は花散らしの雨とも言うべき、やたらと冷たい雨が降っていた。
「斯様に濡れた着物をつけていれば、身体も冷えようというものだ」
十兵衛はそう言うと、自らも着ている物を脱ぎ、褌一丁の姿となる。
「さ、犬千代も脱ぐが良い」
「は……はい」
犬千代は素直に脱いで、再び腰を降ろす。もちろん、先程と変わらず十兵衛のすぐ隣に。
――こ、この様な事が、本当に起きようとは。
まるで物語の様に出来過ぎたシチュエーションに、いっそ恐れすら抱きながら、しかし十兵衛は動いた。その瞳はあたかも戦場に臨む武士の如く、爛々と輝いている。
「こうして身を寄せ合えば寒くも無かろう」
思い切って腕を伸ばし、犬千代の肩を抱く。
そしていかにもといった風に嘯くと、犬千代は今や耳どころか顔全てを真っ赤に染めたまま、彼にしな垂れ掛かって来た。
「まだ、寒いか?」
「いいえ……温かいです」
問いかける十兵衛に、犬千代はうっとりとした瞳で答える。
男同士、雨宿りの中、裸で抱き合い。何も起きない筈がなく……
豪雨に晒されるあばら家。激しい雨音の中、微かに犬千代の
「アッーーー!!!」
という嬌声が聞こえたとか、聞こえなかったとか。
★
それから幾許の刻が過ぎたろう。気が付くと雨は止み、空は何事も無かったかの如く晴れ渡っていた。
「ふむ……厄介な通り雨であったな」
腕に抱いた犬千代にそう囁きかけると、彼は俯きつつ「はい」と小声で答える。
その可憐な振る舞いに、色々と元気にさせられた十兵衛。雰囲気と勢いにまかせ、今まさに第二ラウンド突入するべしと思った、しかしその矢先。
犬千代――
犬千代はいずこ――
遠くから、やたらと響く高い声が耳を襲った。
「!? 若様!」
犬千代は、その声を耳にするや飛び跳ねる様に十兵衛の元を離れ、いそいそと身支度を整える。
そして一通りの支度を終えると、勢い良く引き戸を開け、
「若様! 犬千代はこれにござります!」
弾ける様に外に出た。
「おお、犬千代。やはりここであったか。先刻の雨は災難であったな」
そこに現れたるは、犬千代より少しばかり年上の少年。しかし、そのいでたちは奇妙なものだった。
総髪を紅色と萌葱色の糸で茶筅の如く縛り上げ、衣服は浴衣を片肌に着流している。
腰に巻いた荒縄には瓢箪や火打袋を幾つも下げて、履いているのは虎皮と豹皮で拵えられた半袴。腰に挿した刀の鞘は、目にも鮮やかな朱色に塗られていた。
これぞ、まごう事無き傾奇者。現代風に言えばヤンキー。それも、最近よく見る夜中にドンキホーテの駐車場にたむろしている様な凡百のマイルドヤンキーでは無い。昭和の時代に週刊少年チャンピオンで連載されていた不良漫画から抜き出した様な、重度のヤンキー野郎であった。
その傾奇者は、さも当然といった風に犬千代の肩を抱くと、耳元に囁く。
「大事ないか」
途端に、犬千代は先程よりも更に可愛らしく頬を染め、乙女の様に呟いた。
「はい……そちらの方が、色々と良くしてくださいました……」
「ふむ?」
傾奇者は、そこで初めて十兵衛の存在に気付く。
一瞬、殺気にも似た鋭い視線を十兵衛に送った彼は、それでも次の瞬間には真顔に戻り、向き合った。
刹那、十兵衛の顔が緊張に引き攣る。
「明智十兵衛――光秀と申します。犬千代殿とは、共に雨宿りをしておりました」
傾奇者の視線に、十兵衛は頭を下げ、慇懃に答えた。その背中には冷たい汗が走っている。
「そうか。わしは織田吉法師じゃ」
――や、やはり……この者、織田の大うつけではないか!
何たる迂闊! 選りにも選って、わしはあの大うつけの小姓に手を付けてしまったと言うのか!?
「犬千代が『世話になった』ようじゃな」
下から、ねめつける様な瞳で見上げて来る吉法師。
無論、彼は自分の男が寝取られていた事を察知しているだろう。
――これはよもや、只事では済むまい。
ここに至り、十兵衛は覚悟を決めた。
吉法師。すなわち織田家の跡取りと目されているこの小僧、巷ではとんでもないワルガキ、当時の言葉で言う『大うつけ』と評判の男である。
そして、先程一瞬放った殺気から察するに、この者はおそらく腕も立つ。まがりなりにも大名の子だ。それに相応しいだけの鍛錬をしている事は、その体つきを見ただけでも容易に想像ができるというもの。
そんなうつけ者の男に手を出してしまったのだ。刃傷沙汰となっても不思議では無い。
――しかし、もしも斎藤の家臣であるこのわしが、織田の嫡子と刃を合わせた事が公となったら……
当然、御家の一大事となる。幾多の小競り合いをしてはいるものの、ここ最近大きな戦の無かった両家。それを再び戦火の海に叩き込み兼ねない事態に陥っている事に、十兵衛は恐怖した。
――致し方無し。わし一人の行いにて戦となるは、何としても避けねばならぬ。この上は大人しく斬られるより他はあるまい。
一瞬、吉法師の殺気に呼応して発した自らの気を、十兵衛は抜いて頭を垂れる。
「ほう……潔く斬られるか」
そんな彼に、吉法師はいっそ楽しげに瞳を細めた。そして一歩あゆみ寄ると、鼻が触れそうな程に顔を寄せて。
「そう言えば。美濃の蝮に切れ者の懐刀有り……その名を、明智なにがしと風の噂に聞いた覚えがある様な、無い様な」
ニヤリと笑みを浮かべると、いつの間にか手にしていた扇子で十兵衛の首をトンと軽く打つ。
「もし、それがしが蝮の懐刀であるならば……尚の事、斬るべきとは考えませぬか」
せめてもの思いで目を合わせ、問いかける十兵衛。
「フッ……面白い奴よ」
吉法師はそう小さく笑うと、舌を出してぺろりと重兵衛の唇を一舐め。そうしてから素と離れ、再び犬千代の肩を抱き背を向けて。
「わしもいたずらに戦など起こしとう無い。今日の所はその首、預け置いてやろう」
言い残すと飄々と去って行った。
――噂など、当てにならぬものよ。織田吉法師、あの者は大うつけなどでは無い。あれはきっと国を持つ者ぞ!
歩み去る二人を目で送りつつ、十兵衛は内心叫びたい気持ちに襲われた。
尾張の大うつけと呼ばれていた、織田吉法師。後に家督を継いで織田上総介信長となる人物との、これが決して出会ってはいけない、運命の出会いであった。
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