歪んだ教育に救いは無い

りくそ

それが正しいことだって思ってる


お昼休み、何となしにぼくは友達の栄斗くんの顔を殴った。

どんな反応をするのかなって思ったから。右手を握りしめて、野球のボールを投げるように肩の上から勢いをつけて栄斗くんの左頬に向けてこぶしを放ったら、ゴツンと鈍い音を立てて、肌と肌が触れ合った。

泣くだろうなと想像して殴ったから、とても痛かったと思う。

でも、僕はびっくりした。よっぽど僕の手のほうが痛かった。


「うっ…」

声ともならないうめき声を上げて、栄斗くんはうずくまった。

周囲の音がぼんやりと遠く感じる。悪いことしたとは思っていない。


「先生!」

クラスメイトの誰かが先生を呼びに行ったようだ。

ざわざわと聴衆が、僕から少し離れたところでコソコソ話をしている。


「いきなり殴ったって…」

「栄斗くん可哀そう…」


えっ?とぼくは声のする方向を振り向いた。ぼくの視線の動きに合わせて、ぼくの周囲の人だかりは一歩後ろへ引く。

上履きがタイルに擦れる音が不快に響く。

「栄斗くん、掃除せずに遊んでいたよね」

誰に向けてと言うわけではなく、声を発してみた。

「掃除しなくちゃいけない時間に掃除をしていなかったよね。でも誰も注意もしてなかったからぼくが怒らなくちゃって思ったんだ」

「殴るのと怒るのは違うじゃん。ちゃんと掃除して、って言えば良かったのよ」

取り巻きを代表するのは委員長の女の子だった。コソコソ話の代弁をしたつもりなのかもしれないけれど、たぶん間違っている。

「ぼく、掃除の時間に注意したよ。お母さんもそうだし。ちゃんと最初に口で言って、わからない子には怒らないといけないんだ」

「何を言ってるのかわからないわよ。ただ、暴力はいけないって私は言いたいの」

「怒っただけだよ」

話がかみ合わない、と感じていた。この女の子は何を言っているのかわからない。

暴力はいけないことだけれど、悪いことをしている人を怒ってあげるのは愛だ。これもお母さんの受け売りだけれど、家にいるときにお母さんから言われたことを守らないと怒られる。だから、学校でもルールを破っちゃいけないってことを教えてあげないといけない。


「何があったんだ」

息を切らして一階の職員室から教室へ向かってきた先生は、取り巻きの中心にいるぼくを見ると、哀れみとも取れる悲しい目つきで「あぁ…」とため息を漏らした。


「とりあえず、栄斗のことは委員長と保健係で、保健室に連れて行ってやってくれ。次の時間は体育だけど」

「え、先生。体育無くなりますか」

「いや、自習にするから。ドッジボールかサッカーか、外で出来るものをみんなで決めてやってくれ。他の先生が見に行くと思うから、その先生の言うことはちゃんと守るんだぞ」


先生は、取り巻きに優しく声をかけると、そのままの口調でぼくにも話しかけた。

「残念だけど、体育はお休みして俺と一緒にさっきのこと話そうか」

ぼくは、体育に出られないのは残念だと思ったけれど、さっきの話の事情が説明できるならば逆に好機だと思った。訳のわからないことを言う委員長や、同調して栄斗くんを庇うだけの言葉を並べる取り巻きがいないほうが、都合が良い。ぼくの言葉で先生に説明したかった。



帰り道、ぼくは考え事をしながら小石を蹴る。右足で、左足でと交互に、つま先で道のりを石ころと帰る。

「ぼくは栄斗くんに掃除の時間には掃除をしなくちゃいけないって教えてあげたんだ」

ボソッと、数時間前に職員室でも口にした言葉を繰り返した。先生は、正しかったことと間違っていたことがあると教えてくれた。ぼくは間違ったことをしてしまったのに、先生はずっと優しい言葉遣いで話してくれた。

どうやら、先生も栄斗くんの行動には参っていたようで、ぼくの説明に腕を組みながらうんうんと頷いてくれた。でも、時たま眉間に皺を寄せながらだったけれど。

ただ、間違った教え方だったみたいだ。何が正しい方法で、どうして間違っていたのかを先生は教えてくれなかったけど、今度三者面談をするときに詳しく話してくれるそうだ。

道の突き当り、側溝めがけて小石を思いきり蹴飛ばすと、鋭い音を立てて壁に当たった後に側溝の中に消えていった。昨夜降った雨は、鬱憤を込めた小石を下方へ流していく。

気持ちはスカッとしたけれど、家に帰る足取りは重い。残念だけれど、ぼくが原因ではないとは言え、学校で騒ぎを起こしてしまったのだ。お母さんにまた怒られるかもしれない。

でも、先生と話して正しいことをしたってわかったから、お母さんにはきちんと説明してみようと思う。

もう家路もあと少し、というところで猫を見かけた。茶ぶちの、首輪をつけていない丸みを帯びた猫だ。近所のご老人にエサをもらっているところを見たことがあるが、飼われているわけではないようだ。

「君は、誰かに叩かれたりしたことはある?」

周囲をちらりと確認してからニンゲンの言葉で話しかけてみる。

「にゃ」と一言、猫は短く鳴いた。

「そっか、無いよね。猫には猫のルールがあるのかもしれないけど、ニンゲンにはそのルールがわからないから」

右手を、猫が驚かないようにゆっくりと頭の上に乗せて撫でようとした。エサをあげている人が同じようにしているところを見たことがある。

「ぼくも、いい子にしていれば頭を撫でてもらえるかもしれないね」と、右手をわしわしと動かして話しかけた。左手で、体に触れようとしたときに急に猫は首をぐるりと回してぼくの手を噛んだ。「痛っ」と反射で声が漏れ、そこまで強く噛まれたわけではなかったけれど、ぼくの左手の人差し指からはうっすら血が滲んでいた。

「ニンゲンのことも、同じ猫のことも、ケガをさせるようなことをしちゃいけないよ」

ぼくは、先ほどの先生の口調を真似て優しく諭して、もう一度左手を伸ばした。そして、ぎゅっと握りしめた手で、猫の柔らかいお腹を思いきり殴った。

「ギャア」とニンゲンの言葉とも取れる悲鳴を上げると、猫は走って草むらへ消えていった。

強くこぶしを握ったせいで、左手からはさっきよりもたくさんの血が出ていた。


 ぼくの家の玄関は引き戸だ。少し古ぼけているので、戸を引くたびにギギッと嫌な音がなる。「ただいま」と小声で言いながら戸を引くので、僕の声はその不快な音に重なって聞こえなくなる。三分の一ほど開けてそろりと中をのぞくと、靴は、あった。

「はぁ…」と息をついて、再度先ほどよりも大きな声で「ただいま」と廊下奥へ向けて声を放った。

「おかえりなさい」

胸が、ざわめく。呼吸が、荒くなる。でも、ぼくはそのまま靴を脱いで廊下を奥へと進んでいく。声色で分かるようになるまで、数年はかかったと思う。いつ頃から殴られる蹴られるといったことは行われていたか曖昧にしか覚えていないけれど、お母さんの一言目を聞いたときにぎゅっと内臓を握られた感覚になるときがあるのだ。


「学校から電話、あったわよ」

キッチンでトントンと、料理をする姿は理想的な母なる姿と言って間違いはないのだが、声色は母と言うに難い冷たい感情を含む。

「なんで先生から電話があったと思う?」

「ぼくが、教室で問題を起こしたから。でも、ぼくが悪いことをしたんじゃなくて、ぼくは友達に注意をしたんだ。掃除の時間に遊んじゃダメだって。先生にも説明したけれど、ちゃんとわかってくれた」早口で、まくし立てた。自分に負い目がないとき、お母さんもお父さんに向けてそうしていたから。

「ぼくは正しいことをしたんだ。間違っていたこともあったみたいだけど、それは今度三者面談で先生が───」

最後まで言い切る前に、ぼくの身体は宙に浮いていた。鈍い痛みが腹部に広がった。さっきまで、お母さんの声を聴いていたときの内臓の重さがそのまま痛みに代わったようだ。

 ぼくのお腹と触れ合った自分の足を、まるで被害者のような顔でさすっているお母さんは、大きな声で言った。

「正しいか正しくないかなんて関係ないのよ! 問題を起こしたら私まで学校に呼び出されたりするじゃない。めんどうくさい」ぼくの早口に負けじと対抗するかのように、まくし立てた。声の大きさは、ぼくの比じゃない。

「あんまり大きな声出すと、またお隣さんに心配されちゃうよ…」

「あんたが気にすることじゃないわよ。私は、『しつけ』しているだけなんだからご近所さんにはいつもそう説明しているわ」語尾に弱々しさが灯るように、声色は穏やかに、大きさは空気が抜けていく風船のように萎んでいく。

「ごめんなさい」とぼくは口に出した。反抗してもいいことがないことくらいこの数年で学んでいる。ぼくはまだ小学生だけど、勉強は真面目にやっているから物覚えはいいほうだ。

「いいのよ。わかってくれるならそれでいいの」スッと手を伸ばし、お母さんはぼくの頭に手を置いた。瞬間、ぼくはギュッと目をつむる。もう、反射なのだ。

 手は、右に、左にと動いてぼくの頭を撫でた。先ほどぼくが猫にそうしたように、優しくお母さんの大きな手がぼくの頭を撫でる。そのあとにお腹に向かって左こぶしが飛んでこないか急に不安になったけれど、杞憂に終わった。


 その日の夜、バンバンと家の戸が鳴った。ぼくの家のインターホンは壊れているので、『ノックしてください』と張り紙をしている。そのノックの音で、きっとよくない人が来たのだろうということは察せられる。

「夜分にすみませんが、学校でのこと聞きましたか⁉ いったいどういう教育なされてるんでしょうか」

「いえ、申し訳ございません。なんとお詫びすればよいか…」玄関のほうからは、お母さんと違う女の人の声が聞こえる。きっと栄斗くんのお母さんなのだろうと思った。お母さんは、外面だけはとても良いのだ。もっとも、外面だけで、家にいるときとの差にぼくはいつもげんなりとしてしまう。


「きちんと言い聞かせますので。本当に申し訳ございません」会話の節目だったのだろうか、栄斗くんのお母さんもそのあとに言葉を続けることはなく、ただでさえ壊れそうな家の戸を壊す勢いで閉めて帰っていった。

ぼくのお腹の中で、形容しがたい感情がぐるぐると渦巻いている。「お母さん、栄斗くんのお母さんはなんであんなに怒っていたの? ぼく、学校で栄斗くんに『掃除しなくちゃいけないよ』って教えてあげたんだよ」

「もう、いいの。いいから黙ってお風呂入ってきなさい」疲弊し切った顔で、お母さんはそう言うと静かに居間に消えていった。お父さんに『しつけ』された後のお母さんは、いつも同じ顔をしていたと思うけど、もうあんまり覚えていない。


 ところで、ぼくのお父さんは会社ではとても偉い人だったみたいだ。普段、お母さんは「お父さんはね、会社でいつも頑張ってくれているの。だから、私たちがごはんを食べられたり、おもちゃを買えたりするのよ」とぼくに言い聞かせていた。だからと言って、暴力を振るっていいことにはならないのにと、疑問に思っていた。

 「お友達を叩いたり、引っ張ったりしちゃダメだからね」と幼稚園での先生は前に立って言っていたと思う。「なんでダメなの?」些細な問いかけだが、難しい質問をおともだちの誰かが先生に投げかけると、先生は「先生は、みんなのこと怒るときに叩いたりする?」と返した。

「叩いたり、引っ張ったりすることを難しい言葉で『暴力』って言うんだけどね。暴力された人はとても痛いよね。注射みたいに、痛いことはみんな嫌いでしょ。自分が嫌だなって思うことは人にもしちゃいけないの」

今聞いたら月並みかもしれないけど、当時のぼくはすんなりと受け入れられた。今のぼくはどうだろうか。今、同じ言葉で諭されたとしてもそのまま納得することはできないだろう。だって、時と場合によっては暴力も必要な場面があるからだ。そうお父さんとお母さんは教えてくれた。


 「へぇ、息子さんですか。可愛らしいですね」と見知らぬおじさんが言う。学校の帰り道、まだ小学一年生の頃だったと思うけど、お父さんと会った。

 「出来の悪い息子だけどな。まぁ、アレと俺の子だから残念ながらアレに似ちまったんだろうな」

 「いやぁ、そんなことはないと思いますよ。成長したら頭角現すタイプですよきっと」

 「こんにちは」

 見知らぬもう一人のおじさんはぼくに向かって挨拶してくれた。特別、人見知りだってことはないけれど、自分から距離感を掴めないまま相手から距離を詰められてしまうとたじろいでしまうのは誰もが同じだと思う。ぼくも同じく、だれなのかわからないけど馴れ馴れしくグッと距離を詰めてくる人の言葉に咄嗟の返しができなかった。

 「おい」とギョロリと開いた目をお父さんはこちらに向けた。目が、キチンと挨拶しろと言っている。

 「こんにちは」

 「ほら、偉いじゃないですか。まだ、小学一年生でしたっけ? うちの娘なんか人見知りしちゃって、出先で知り合いにあっても僕の後ろに隠れちゃうんですよ」

 ぼくの言葉なんてそっちのけで、こんにちはと言ったっきりぼくのほうを見向きもしない。お父さんとそのおじさん二人は、特にぼくに声をかけることもなく家路とは逆の、駅のほうへ向かっていった。

 丁寧な話言葉で、おじさん二人はお父さんに話しかけていた。学校で、国語の時間に最近習った『ていねいにはなしましょう』という授業で「目上の人、年上の人にはていねいな言葉を使って話しましょうね」と習った。これが、ぼくがお父さんは会社できっと偉いんだろうなと思う根拠なのだ。

 でも、やっぱり、お父さんも外での様子と家の中での様子が凄く違っていて呆気に取られてしまう。

 

 その日の夜、お父さんは酔っぱらって帰ってきた。「おい!」と玄関から大きな声が響くと、ふわりとアルコールの香りが居間へまで漂ってくる。

 「おかえりなさい。夕飯、もう食べたのよね」

 「おい、お前。挨拶すらできないようなアイツのせいで今日部下たちの前で俺は恥をかいた」

 なんの脈絡もなく、帰宅して早々に怒鳴り散らした。ビリビリと空気が揺れて、居間のドアがガタガタと小さな音を立てて揺れる。

 すぐにぼくは今日の帰り道のことだってわかったけれど、お母さんは何も知らないはずだ。ソファから立ち上がって、そっと居間からドアの隙間を覗いた。

「どういう教育してんだ?」

「なんのことですか!? ちゃんと説明してください!」

「どうもこうもあるか!」

お父さんの右手は、勢いよくお母さんの肩を押した。お母さんは、少し華奢な体つきをしているので、きっと人よりも軽いのだろう。お母さんは、押されるがままに後ろへ勢いよく飛んだ。居間と廊下を仕切るドアに当たってそのままうずくまってしまった。

「うう…」と呻いて、後頭部を押さえている。

「大げさに痛がるんじゃねえよ。大した脳みそも無いくせに愚図が」

お父さんはそう吐き捨てると、自分の部屋に入ってドアを大きな音を立てて閉めた。ぼくはその一部始終をドアの隙間からずっと覗いていたけど、特に何も思うこともなかった。これは、日常なのだ。

不機嫌なお父さんと、何もできずに痛い思いをするお母さん、それとぼく。この三角は、どこから棒でつついたって崩れることはない関係なのだとぼくには理解できた。今回のように、お父さんの機嫌が悪い理由にぼくが関わっていると、あとでお母さんにぼくは怒られる。大きな声で反抗しても、泣いて謝っても自分の身に降りかかるコトは変わらないんだって、ぼくもお母さんも理解してしまっていた。


その日の夜遅く、お母さんはぼくの部屋に訪れた。目は赤く腫れ、肩で息をしながらぼくのベッドに腰かけると「もう、大丈夫だからね。しばらくあの人は、たぶん家には帰ってこないから」と絞り出すような声で言った。

「お父さん、お仕事?」そうではないと分かっていても、聞くべきなのかと思い、聞いた。

「…そう。そうなの。長期の出張でね、しばらく遠いところで暮らすみたいだから、長い間会えないかも」そう、お母さんは説明してくれた。

 嘘だと分かる。感情の起伏が激しいお母さんは、イライラしているとき以外に穏やかな声で話してくれるけど、本当に優しい気持ちで話すときと『作った』穏やかな声の違いが分かりやすい。たくさんの時間を一緒に過ごしたぼくだからこそ感じ取ることができる違いなのかもしれないけど、とにかく出張に行ったというのは嘘をついていると感じた。

「いつになったら会えるかな」

「まだわからないわね。お父さんに会いたいと思う?」

あの人とは言わず、ぼくに話す手前きちんとお父さんと言った。お父さんには、会いたいとは思う。機嫌の悪いお父さんには会いたくないけど、お父さんはお父さんだ。怒ってるお父さんは、災害みたいなものだと思っている。ちょうど、数日前に地震があった。自分が住んでいるところよりもずっと西のほうで、家屋が損壊したり、道路が地割れしたりした。そのとき、避難所に逃げた現地の人がインタビューで答えていたことをよく覚えている。

「地震は、天災ですからね。どこに怒りを向けていいのかわからないし、ただただ悲しい。自分たちができることは、備えることだけです」

 ハッとさせられた。まさにぼくが父へ向ける感情そのものだと思った。いつ訪れるかわからない、予想なんてできるわけない災害に、ぼくはただ備えるしかないのだ。ただ、悲しい。親を怨むわけにもいかず、親の皮を被った怒りの感情に、ただぼくは耐えて、耐えられるように備えるしかないのだ。

 

 「また、怒ってないときには会いたいなって思うよ」

 「そうね。優しいときのお父さんにまた会いたいね」

顔を背けて最後の言葉を残し、お母さんはぼくの部屋を去った。悲しいことに最後のお母さんの言葉は、チクッと胸に刺さって、心からの穏やかな声だったなと思いぼくは眠りについた。


 また、災害はぼくの知らぬ間にやってきた。自宅の戸を激しく叩く音で目が覚め、足音を立てないように自室から出ると、玄関のほうをこっそりと覗いた。警察の人だった。

「詳しくは、署でお話を聞かせていただければと」

「すみません、家に子供が一人なので朝までには帰ってこれますか」

「そうですね。お話の内容次第とはなりますが、お子さんに事情を説明する機会がないとまずいですからね。お近くに親戚の方などいませんか? 預けられるような」

「いえ、親族とはどことも疎遠になってまして…。祖父母もずいぶん前に亡くなっているので」

 口調は穏やかで、ぼくの学校の先生のような雰囲気だったけれど、目は鋭くお母さんを刺すようだ。

「時間も遅いですし、今すぐに来ていただけるのでしたら、お子さんも寝ているでしょうし朝までに帰れるように計らいますよ」

「そうですか…。わかりました」と、お母さんは言うとこちらを振り返ろうとしたのでぼくは急いでドアの陰に隠れた。お母さんの顔はそのとき見えなかったけど、ぼくのことを心配して振り返ってくれたのであれば寂しいような、悲しいような表情をしてくれていたらなと願った。ドアの陰にいると、ひゅるりと隙間風が吹いて、そのあとすぐに玄関の引き戸が閉まる音が鳴った。しんとした真っ暗な空間に取り残されて、急に不安に襲われた。「お母さん、帰ってこれるのかな」と口をついて出たのはお母さんを心配する言葉だったことに驚いた。ぼくはお母さんを心配しているのか、それとも、お母さんもお父さんも居なくなってしまう自分の未来が怖くて出た言葉だったのか、考えた。考えたけれど、考えること自体が無駄なんだと気づいた。お父さんは、たぶんもう居ないし、お母さんはきっとしばらくは会えないのだろうと謎の確信があった。


 明朝、日が昇る前に目覚ましをセットしておいたのでパチッと目が覚めた。夜遅くに起きていたけど、見たもの感じたものが大きくて脳が覚醒してしまっていたのかあまり眠れなかったのだ。

 そういえば、猫は元気にしているのだろうか。まだ、治りきっておらずかさぶたになった左手の傷を見る。人を噛んだら痛い目を見るということをぼくは教えてあげられたわけだけど、きちんとわかってくれたのだろうか。猫は、人とは違うから理解できたのか確認はできないけど、わかってくれていたらいいなと思った。

 軽い足取りで、自分の部屋から出ると家中に届く声で「おはよう」と言った。もちろん、反応はなかった。お母さんはまだ帰ってきていない。警察に連れていかれたお母さんは、何か悪いことをしてしまったのだと推察できた。小学生のぼくでも、警察は悪い人を捕まえたりしてぼくたちのことを守ってくれるお仕事だってことは知っている。そして、お母さんが警察に捕まったのは、お父さん絡みのことだろうとぼくは考えた。深読みかもしれないけど、お父さんが家にいなくなったときにお母さんは嬉しそうでも悲しそうでもなかった。普段から暴力を振るわれていたお母さんは、痛い思いをしなくなったなら嬉しいはずだ。家族がいなくなってしまったら、悲しいはずだ。でも、お母さんは「優しいお父さんにまた会いたいね」とだけ言って、お父さんの話はそれ以降全くしていない。

 自室を出て階段を降りると、そのままキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。戸棚からコップを取り出して、牛乳を注いでグビグビと飲み干す。喉が、音を立てて冷たい液体を胃へ運んでいく。

 戸棚の右端に閉まってある、包丁を手に持つ。玄関までゆっくり歩いていくと、外で猫の鳴き声が聞こえる。「あぁ、よかった元気そう」と独り言を漏らす。果たしてぼくが躾けた猫なのかどうかは定かではないけど、ぼくはその猫だったと思い込むことにした。

 体育座りで、玄関前に座るとぼくはお母さんのことを待った。「正しい行いだけど、正しいやり方を通さなくちゃ正しくないことになるんだ」という先生の言葉を思い出した。どこかの本に載っているのか、だれかが言った格言なのか、借りてきた言葉のように感じられたけど、ぼくはそのとき納得した。

「正しいやり方ってなんですか」と聞いたけれど、次の機会にしようかと先生は言って話は終わった。


 お母さんは悪いことをした。ぼくは、ぼくなりの正しいやり方でお母さんを叱ってあげなくちゃいけない。警察も、先生も、たぶん正しいやり方なんて知らないのだ。

 ぼくがお父さんとお母さんに教えてもらった正しいやり方で、悪いことは繰り返してはならないとお母さんに教えてあげなくてはいけない。

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歪んだ教育に救いは無い りくそ @Rks_Sy

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