キスの日

羽間慧

前半

 初めてグロスを買った。


 ベリーの香りと自然なツヤを纏った唇は、彼氏に食べられること間違いなし。謳い文句を読み上げた華恋の頬は熱くなる。ツツジが咲き乱れる季節は欲求不満になりやすいのか。


「高校生がこんなものを買っちゃうなんて」

「青春してるわね」


 お代わりのミントティーを注いでくれた母の言葉にうろたえる。いつの間にグロスの箱を見たのだろう。


「変なものカゴに入れてたら分かるわよ。それに、珍しくドラッグストアに付き添ってくれたし」

「柔軟剤を安く買うための頭数ぐらい引き受けるから!」


 変なグロスじゃないよ。赤面しながら心の中でツッコんだ。

 代金は帰宅した後で出している。所有権は娘に移行したはずだ。


「ふふっ。華恋が大人になっていて嬉しいなぁ」


 にやけた頬を抑える母の姿を見て、親孝行ができた気がした。


 大人になっている自覚はないが、七ヶ月前に頼斗と交際を始めたことが要因だと思う。


 入学時から片思いだった反動か、話すだけでは物足りなくなっていた。


 二年に進級した今も、一緒の空間が苦しく感じる。視界に頼斗を入れなければ落ち着かない。見つめられれば頭が真っ白になる。


 だから、教室ではスキンシップをしないように頼んだ。少しでも恋人と同級生の切り替えができるように。


「華恋。目を閉じてくれる?」と休み時間に言われて、照れない彼女はいない。クラスメイトの視線も気にならなかった。


 華恋は素直に応じた。だが、感触があったのは、唇ではなく目元だった。


「まつげ取れてる」


 優しい声に落胆よりも己の浅ましさを感じた。


 回想した娘が天井を見上げたのに対し、母は上機嫌に焼き菓子の詰め合わせを開ける。


「初々しいわぁ。母さんはときめきを定期的に補給できないから」

「父さんと仲睦まじく過ごしているじゃない」

「毎朝起こしても、ご飯を作っても、お礼一つ言いやしない」


 フロランタンの咀嚼音が重く響く。

 沈黙に耐えきれなくなり、華恋はマグカップを両手で包み込んだ。


「華恋が心配するほど仲は悪くないから安心して。ただ、今日はあまりにも悔しくて、後ろ髪に寝癖をつけたまま出勤させたけど」


 ほっこりする反撃だ。

 油断していた華恋の耳に「明日はどこに行くの? 日曜だからデート? 晩ご飯は作らなくていい?」とはしゃいだ声が届く。


「ちゃんと五時までには帰って来ます」


 夕食を確保するためにデートコースを説明する。


「映画館デート? 二人して飽きないのねぇ。先月の半年記念も映画館じゃなかった? 今回は遊園地とか食べ歩きとかにしたらどうなの」

「人見知り同士、のんびり過ごしていければいいんです」


 思いがけない行動を取られるものの、頼斗も大人しい性格だ。動き回るより、同じ作品を共有する喜びを好む。


 いつものデートにウインドーショッピングを加えることもあるが、静かに映画や絵を見る時間の幸せには叶わない。カフェで語るときにどんなことを話すか、わくわくしながら鑑賞していた。


 肘が触れ合う度、互いに笑う瞬間は学校ではできない。だが、もっと恋人らしいスキンシップがしたい。


 私だけ意識して、学校でもドキドキするのは不公平だ。明日はファーストキスと同じように、思い出に残るキスをしたかった。

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