アヒルと少女

ウゾガムゾル

アヒルと少女

いつの間にかわたしは、ある奇妙な池の前に立っていた。

背後は森になっていて、帰るのは難しそうだ。足元には砂利の道があって、池の前で突然途切れている。気をつけないと落ちてしまいそうだ。

池をよく見ると、とてもきれいに透き通っていた。飲めそうなくらいだと思ったが、よく知らない場所だったので、一応やめておいた。


どうすることもできないまましばらく途方に暮れていると、どこからともなく「ガーッ、ガーッ」という声が聞こえてきた。それから少しして、わたしの目の前に一匹のアヒルが泳いできた。

「あ、アヒルさん」

わたしは声をかけた。すると、返ってくる声があった。

「ぼくは、アヒルじゃないよ」

……アヒルが、しゃべった?

「あなた、しゃべれるの?」

訊くと、アヒルはまた返事をした。

「そうともさ」

「しゃべるアヒルなんて、いるはずがないわ」

私はそう返した。

「だからアヒルじゃないって。ぼくは本当はニワトリなんだ」

えっ……? しゃべるうえに、アヒルじゃなくてニワトリ?

「うそよ。ニワトリがガーガー鳴くはずがない。ニワトリは泳がないし……それに、あなたはアヒルにしか見えないわ」

そう言うと、アヒルは少し悲しんだように顔をうつむかせてから、言った。

「……まあ、無理もないよ。ぼくは本当はニワトリ。でもアヒルみたいに鳴くし、アヒルみたいに泳ぐし、アヒルみたいに見える。みんなはぼくをアヒルだと思ってる。それならもう、ぼくはアヒルに違いないんだ」

それを聞くと、わたしの中にも少し情がわいてきた。と同時に、見方が変わったような感じがした。たしかに、本当はニワトリだったとしても、アヒルにしか見えなかったら、アヒルだと思ってしまうのは当たり前だ。でも実はアヒルじゃない……なんてことも、あるかもしれない。

「わたし、あなたがニワトリかもしれないって思えてきた」

だが、アヒル……いやニワトリの返事は案外そっけないものだった。

「そうか」


その声色に、なんとなくほうっておけない気がして、尋ねる。

「あなたは、ほんとうはどっちになりたいの? アヒル? それともニワトリ?」

ニワトリは少し周囲を泳いだ。その動きはアヒルそのものだった。

「ほんとうはニワトリでいたかった」

ニワトリは続ける。

「でも、ぼくはアヒルでしかいられないみたいなんだ、残念なことにね」

「『アヒルでしかいられない』って、どういうこと?」

「もちろん、その気になればこの池から出て、ニワトリのように地を駆け、ニワトリのように朝にコケコッコーと鳴くこともできる。でも……ぼくはアヒルにしか見えないだろ? ぼくはアヒルのようにしか見られない。鳴き声はガーガーとアヒルようにしか聞こえない。泳ぎ方もアヒルそのものだ。だから……アヒルらしく生きるほかに、ぼくに道はないのさ」

わたしはニワトリがかわいそうになってきて、言った。

「そんなことない。みんなに自分がニワトリだって言えばきっと、わかってくれるわ」

「そううまくはいかないよ。言葉は通じないんだ」

言葉が通じない?

「でも今、私と話している」

「君が初めてなんだ。だれかと話すのは。ずっとアヒルとも、ニワトリとも、人間とも話したことはない。動物が話せるはずがないんだ」

それは確かにそうだ。今がおかしいだけだ。

「ぼくが自分がほんとうはニワトリだってことを伝える手段は、言葉しかない。その言葉は通じないんだ。だったら、どうやってニワトリだってわかってもらうっていうのさ。ぼくがニワトリだってことを知ってるのは、君しかいない。それを知りうるのも、君しかいない」

そういえば、なんでわたしはここにいるんだっけ……?


「正しいと言われ、正しいように見えて、正しいようにふるまえば、それは正しいんだ。いくら間違っていようとね」

その言葉を聞いた瞬間、記憶の隅で、なにかがふと戻ってきたような感覚を覚えた。

「……それでもきっと、何か方法があるはずだわ」

ニワトリは私に背を向けて言った。

「ありがとう。気晴らしになったよ」

「気晴らしだけ?」

「そうさ……」

そうとだけ言って、アヒルはさーっと池の奥のほうへ泳いで行ってしまった。



そのとき、私は急にめまいのようなものを覚えて、その場に倒れこんだ。

きっと目が覚めたら私は……。

いや、やめておこう。

きっと目の前には見たくもない光景が広がり、私はそこでずっと過ごさなきゃいけないことを嘆くことになるだけだろうから。

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アヒルと少女 ウゾガムゾル @icchy1128Novelman

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