第1話『呼子笛のレオナ①』
アタシはブラッドエンジェルズの総長、
中学でヤンチャしてた仲間と暴走族『ブラッドエンジェルズ』を結成し、気に入らない族共を片っ端からぶっとばしていたら、いつの間にか県内最強と恐れられるようになった。
それも今となっては過去の思い出。26歳になった今ではチームの仲間と集まる機会も少なくなってきた。仕事やら家の手伝いで皆忙しいからだ。たまに集まっても会食をしたり夜の街を静かに疾走する程度で、もはや暴走族とは呼べないだろう。
ヤンチャだったアタシらも大人になってすっかりいい子ちゃんになったってわけだ。
それを知ってか知らずか、アタシを舐めてかかって喧嘩仕掛けてくる奴は後を絶たない。
あの日もそうだった。夜、ブラッドエンジェルズの仲間たちとファミレスでひと騒ぎして一人で帰ろうとしたところを、突然あいつらが襲ってきた。
「その背中の黒い翼の天使のマーク。アンタだよな、ブラッドエンジェルズのセイラって」
駐輪場へ向かっているところに、特攻服の女たちが歩いて近づいてきてアタシを引き留めた。その日は久々に仲間と会う約束をしていたので箪笥の奥から昔着ていた特攻服を引っ張り出していたのだ。
「そうだけど、誰だおめぇら?」
「アタシらを知らないとは、耳ざといと言われたアンタの耳もずいぶんと老けたようだな」
「このマークを知らないとは言わせないぜ」
耳に大きなピアスをした女が後ろを向き、特攻服の背中のマークを見せた。
「なんだそれは。おめぇで飼ってるワンコの記念写真か」
「てめぇふざけてんのか!」
「アタシら『ダーク・シェパード』のマークをバカにすんじゃないよ!」
高身長の女がキレてアタシの特攻服の襟をつかんだ。
「バカにもするさ。相手の挑発に簡単に乗るような奴なんざ、レディースの器じゃないね。てめぇらはうちに帰って彼氏にでも慰めてもらいな」
襟をつかむ腕を払いのけ、アタシは自転車の鍵を解錠した。こういう奴らをいちいち相手してたらキリがないからな。
「レディースのくせにママチャリですかあ。健康的でよろしいですなあ」
「元、だ。褒めてくれるのか。それじゃあな」
「ちょっと、待ちなよ」
呼びかけには反応せず、自転車にまたがろうとした。
「かつて鉄拳のセイラと恐れられたあんたも、今やすっかり腑抜けになったみたいね」
「勝手に言ってろ。アタシはもうガキじゃないんだ。一方的に相手を殴っても何も楽しくありゃしない。拳に残るのはいつも同じ感触。そこに喜びも達成感も何もない。ま、お前らにもそのうち分かるさ。なにせアタシは引退してるからな、今ならお前らどサンピンでも天下取れるんじゃねえか」
「てめぇ、調子に乗るのもいい加減にしろよ!」
長髪の女がキレてアタシの自転車を蹴飛ばした。
アタシは何も言わず自転車を起こし、自転車に乗ろうとした。しかし蹴られた衝撃でフレームが歪み、タイヤがうまく回らなくなっていた。
「あーあ…アタシの愛車が、11年ずっと連れ添ってきた相棒が走れなくなっちまったよ。どう落とし前付けんだ、これ、なあ?」
「ひ、ひいっ」
自転車を蹴り飛ばした本人がアタシの威圧感に押されたのか後ずさりし、後方に身を隠した。
ピアスの女が薄ら笑いを浮かべてアタシのほうに近づいた。
「帰りなら心配いらないさ。あんたはちゃんと送ってやるよ、救急車に乗せて病院へ、な!」
ピアスが殴りかかってきた。それを合図に他の女たちもアタシに襲い掛かって来た。
「はー。やめとけって言ったのに。いや、言ってなかったか?」
アタシはピアスの拳を掴み、そのまま相手の身体を持ち上げ後ろに投げ飛ばした。
「最近記憶力が衰えてきててさぁ。さっきファミレスで何喰ったかも忘れちまったよ。お前ら確か犬の名前の族だったよな。『メルヘン・チワワ』だっけ?犬なら匂いでアタシが何喰ったか分かるよな。なあ、教えてくれよ」
「てめぇ、ふざけやがって!やっちまえ!」
仲間たちが次々に襲い掛かって来たが、アタシは攻撃をひらりと受け流し、一人一人確実に拳を叩き込んでいくと数秒後にはその場に立っているのは自分とあと一人だけになっていた。
その最後の一人、背の低い女が懐から武器を取り出した。辺りが暗いので分かりづらいが、黒い警棒だろうか。
「前言撤回するよ。てめぇらじゃ天下は取れないどころか、一生天下の笑いものだ。…ん、お前、その手に持ってるもの…武器だよな?他の奴らは素手だったぞ。舐めてんのか」
「あ、いやその、これは…お守りのようなものでして…だぜ。ひ、卑怯かもしれませんが、ち、近付くと、怪我しま、させますよ…」
相手の女はタジタジしている。暴走族にもたまに気の小さい奴はいるが、そういった輩は過剰に格好付けたり武装したりして自分の存在を強く見せようとする。こいつもそういう類の奴なのだろう。
ライオンに睨まれたシマウマの子どものように委縮した女の震えた声を無視し、女の懐に入った。チビの身長は140センチに届かないくらい、対してアタシは180センチ近くある。
圧倒的身長差の前にチビは抵抗する気力すら失ったのか、アタシは造作なく警棒を握る細い腕を掴めた。
「卑怯というのは違うな。てめぇみたいな腕の細いガキが普通の相手との喧嘩で勝つためにはむしろ必須アイテムだ。アタシが言いたいのは、どうして一番戦力にならなそうなてめぇだけがこいつを持ってるのかってことだ。
アタシの名前を聞いたうえで喧嘩吹っ掛けてきたってことは、アタシの強さも当然知ったうえで倒そうって腹積もりだろ。それなら全員が警棒でもなんでもいいから武器を持ち寄らないと勝てない、って分かってたはずだろ」
「武器を使うのはリーダーが禁止しています。あ、私はあまりに弱いので特別に…」
チビはアタシから目を逸らしつつ震える声で答えた。
「ふぅん。で、どうだ、そいつでアタシに勝てそうか」
「しょ、正直なところ、無理かなぁ…と思います」
「じゃあ喧嘩はここまでにしないか。このまま続けてもお互い良いこと無しだ。それでいいだろ?」
アタシの提案にチビは勢いよく何度も首を縦に振った。
「よし、それじゃお開きということで…って、アタシの自転車壊れたままだったな」
改めて自転車を間近でよく見ると、蹴られたとき当たり所がよっぽど悪かったのか、チェーンが切れていた。
「あーあ、これじゃ帰れないな。早く帰んないと母ちゃんにまた怒られちまうのに…」
「…母ちゃん?」
チビが怪訝そうな表情を浮かべた。
「ああ、なんでもない…ゴホン。…それよりお前、バイク貸してくんない?見ての通り帰れなくて困っててさ」
「すみません、私、副リーダーのバイクに乗せて貰っていましたので…」
「なんだよ。じゃあ、その副リーダーを叩き起こしてキーだけ借りるとするか。…いや、別にどいつから借りても同じか」
アタシは倒した女たちのポケットを順番に探った。しかしどこにしまったのか、中々見つからなかった。
まったく、こんなことなら意識を失わせないよう手加減してやるんだったな。
「なあ、ちょっと悪いんだけど、お前も鍵探すの手伝ってくんない?」
「あ、はい」
「探す必要はないわよ、ヒメ」
突然後ろで声がしたかと思うと、電柱の蔭から黒髪ロングの女が姿を現した。
「お前のその格好…さてはこいつらの仲間だな」
「そう。私は
副リーダー。そう言われると、コンクリートの上で伸びている奴らより風格があるように思える。
「てめぇは三下共と違って利口だな。アタシを見ても無策で突っかかってこない。勝てない喧嘩は仕掛けないって性分か。副リーダーってんなら、こいつらの躾くらいちゃんとしておきな」
「躾なら行き届いている。むしろ、私の指示であなたを襲わせた。彼女たちはよく働いた。それに引き換え…ヒメ!」
「ひ、ひいっ!」
チビが猛烈に怯えている。どうやらこいつはヒメと呼ばれているらしい。
「特別に武器を使っていいというリーダーの許しを得ておきながら、何たる有り様!あなた、そんなことではチームから追い出されても知らないわよ」
「す、すいませんでした!」
「まったく、そうやってすぐ頭を下げる癖、直しなさい。それでもチームの最年長なの?最年長らしく、どっしりと構えてられないのかしら」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
レオナの口から飛び出た言葉に仰天し、思わず口を挟んでしまった。
「最年長?ヒメが?」
「そうよ。敬語じゃないのがおかしいかしら。マッド・シェパードの上下関係はリーダーの下に副リーダーがいて、さらに下がその他一般隊員。特別部隊があるけど、そこはリーダーが認めた特別な人間だけが…って、こんなこと部外者のアナタにべらべら喋ってはダメね。とにかく組織での立場が第一。年齢は関係ないわ」
「いや、そうじゃなくて。…こう聞いたほうが早いな。ヒメ、って何歳?」
「27歳です…」
アタシは耳を疑った。なんだよ、ヒメの奴、アタシよりうんと年下かと思いきやアタシの一つ年上じゃねえかよ。アタシより年上で現役の暴走族なんて初めて見たぜ。
「そ、そうか、ですか。悪い、年下かと思ってた、ました」
「べ、別にいいですよタメで!そっちのほうが慣れてて安心しますから…」
「それなら、そうさせてもらうよ…。で、なんの話だっけ?」
「あなた、家に帰れなくて困ってるのよね」
レオナの言葉で思い出した。そうだった、チェーンが切れたからバイクを借りようとしてたんだった。
「っていうか、レオナ、てめぇがこいつらに指示して襲わせたんだから、その元凶はレオナ、てめぇだろ!どう落とし前付けてくれんだ。ちゃんと修理代払ってくれるんだろうな」
「修理代は払えない。私、貧乏だから。でも、修理はできる」
レオナは首から下げた金属製の小さいホイッスルを取り出したかと思うと、突然、ピィーッと笛の音を響かせた。その音を合図に倒れていた女たちが立ち上がり、レオナの前に整列した。
「遅い!私の笛の合図がしたら10秒以内に整列!いつもそう言ってるでしょ!」
「申し訳ありません、レオナさん!」
「謝罪の気持ちがあるなら行動で示しなさい!というわけで、あなたたちで協力して自転車を三角扉の家まで運びなさい」
「押忍!」
「それからヒメは残りなさい。大事な用事があるから」
「は、はい…またいつものでしょうか…」
「余計な詮索はしないの」
女たちはアタシの自転車を神輿のように担いでわっせわっせと走り去ってしまった。
「私たちの住処に運ばせたわ。修理するのに3日はかかると思うけど、いいかしら?もちろん修理代はいらないから」
「事後承諾かよ。…まあいいぜ。にしても、本当によく躾られているよな。笛の音一つで気絶してた奴らが起き上がって整列するなんて、並みの訓練じゃ得られない統率力だ。心なしか傷も癒えているように見えたが…それはさすがに気のせいか」
「気のせいよ。それより、まだアナタには用があるの」
「ん?なんだ、とっとと済ましてくれ。早く家に帰りたいんだ」
「残念だけど、時間は約束できない。これからアナタをリーダーのところに連れて行く」
「なんだと。てめぇがバイクを貸してくれるんじゃねぇのか」
「そんな約束はしていない」
レオナは確かに鍵を探す必要は無いと言ったが、セイラにバイクを貸すとも家まで送り届けるとも言ってはいない。
しかしセイラが発言をいちいち覚えているわけもなく、約束を違えられたと思いこみレオナの胸倉を掴んだ。
「そうか。なら大人のアタシがガキのお前に約束の大切さを教えてやろうじゃないか。約束を破ると痛い目にあうぞ」
「交わしていない約束で相手を縛ってあまつさえ力ずくで従わせようだなんて、アナタは実に汚い大人ね」
「汚いのはてめぇのほうだろ。部下に大勢で一人の人間を襲わせ、その癖てめぇの手だけは汚さない」
「自分の手は汚してないんだからむしろキレイよ。ほらよく見なさい、雑菌一つ付いてないわよ」
レオナはセイラの手を払いのけ、自分の掌を見せつけた。
「ほぉー、これまたたいそうキレイな手、傷跡一つついて無いな。ってことは今まで一度も喧嘩したこと無いのかなぁ。そんなんで副リーダー務まると思えねぇけどなぁ」
「私が副リーダーに推薦されたのは統率力を買われたからよ。問題のある子たちをまとめるのはチームに入る前からやっていたし、さっきの子たちも私の言うことを実によく聞いてくれてたでしょ」
「その結果アタシに勝ててないんじゃ、統率力とやらも未熟ってことだな」
「あ、あの…すいません」
二人の罵り合いを黙って見ていたヒメが口を開いた。
「なんだよ」「なによ」
二人は揃って同じタイミングでヒメに返事をした。
「えっと、このまま話していても埒が明かないですし、その…セイラさんも早く家に帰りたいそうですから、話し合いはここまでにして、ひとまず私たちの本拠地に向かいませんか」
「なんでそうなるんだよ」
「お、怒らないでください。…つまりですね、少しでも早くリーダーのところへ行って、用事を早く済ませてから帰ってもらえば、それほどお時間を取らせないのではないでしょうか…」
自信無さげに提案をするヒメの声が尻すぼみに小さくなっていった。
「なるほど、いい提案ねヒメ。あなたにしてはやるじゃない。ということだから、早速向かいましょう。あっちにバイクを停めてきたからセイラも付いて来て」
「なにがなるほどだ。結局てめぇらのやりたいようにしたいだけじゃねぇか。行かねぇからな、アタシは」
「まったく、ここまで強情な人だとは思ってなかったわ。
しょうがないわね、無理矢理にでも連れて行くことにするわ」
レオナが首から下げた金属製の笛を手に取った。
「ほお、部下が一人、それも貧弱そうなのしかいないってのに統率力とやらだけでアタシを倒せるだと。いや、その自信の持ちようからして、さっきの奴ら以外にも仲間が潜んでいるのか?言っておくが、操り人形が何人に増えようと、さっきみたいにアタシに秒殺されるだけだぜ」
「勘違いしないで。もう周囲に仲間は隠れていない。それに笛の音を聞かせたいのは、ヒメじゃなくてアナタよ、鉄拳のセイラ」
「なに、アタシだと?どういうことだ?」
アタシの質問には答えずレオナは笛を口元に運び、息を吸って肺を目一杯膨らませ、一気に空気を吐き出した。
ピィーーッと耳をつんざくような笛の音が辺りに響いた。あまりの五月蠅さにアタシは反射的に耳を塞いだが、指の隙間から洩れ入る音を防ぐことはできなかった。
笛を吹き終わったレオナがアタシのほうを見て不敵な笑みを浮かべた。
「耳を塞いだわね。これであなたは魔法にかかった。もはやアナタは私の命令に逆らうことができない身体になったわ。言うなれば、アナタは私の可愛い操り人形よ」
「くっ、何しやがる!急に大きい音出しやがって…驚いちまったじゃねぇか。というより何だ、魔法って。やっぱりメルヘンチックな奴じゃねえか」
「違うわ。メルヘンなんかじゃない。私は笛を吹くとき、心の中でこう念じたわ、『耳を塞げ』って。
実際、あなたは私の笛の音に耐えかねて、その手で両耳を覆った。つまり私が念じた通りの行動をしたのよ。私がした命令通りの行動を、ね」
何を自信満々に説明しているんだこいつは。
「なにが念じた通りだ。誰だって大きな音がすりゃあ、耳を塞ぐに決まっている。ガキでも分かる簡単な理屈だ。そんな当たり前のこと得意そうに説明してんじゃねぇよ」
「そうよ、当たり前のことよ。でも、だからこそ私は人を操れる。大事なのは、私の命令通りに事が運ぶことと、耳に笛の音が届くこと。この二つが揃えば、私の魔法は成功する」
「…なんだかよく分からないけど、要するにアレか、成功体験の積み重ねってやつ。心理学的な効果がなんとか、って。アタシはよく知らないけど」
「まだ理解していないようね。いいわ、その身をもって教えてあげる」
レオナは息を整えた後、再び笛を構えた。
「何をする気だ」
「まずは小手調べね。右手を高く挙げなさい」
そう言ってから笛をピッと短く吹いた。
「何言ってやがる。誰がてめぇの命令なんぞ聞いてやるか」
「そうかしら。右手は正直みたいよ」
「バカなこと言って…って、な、なんだ、これ…」
旗揚げゲームをやっている訳じゃないんだ。誰が右腕を挙げてやるもんかと思っていた。それなのに、ゆっくりと自分の右腕が挙がっていくのをこの目で確認せざるを得なかった。
「くそ!勝手に動くんじゃねぇ、アタシの右手!どうなってんだ、止まれぇ!」
「無駄よ。一度私の命令を聞いたからには、アナタの身体は私の命令には逆らえない。次は左手も挙げて貰おうかしら」
レオナはピッ、とまた笛を吹いた。その音を聞くやいなや、私の左手が煙突のように真上に伸びていった。
「ちくしょう、どうなってんだ!催眠術にでもかかっちまったのかアタシは!」
「催眠術なんかと一緒くたにしないで。魔法はインチキじゃない、歴とした世界の法則よ」
「なにが世界の法則だ。魔法なんてものがあってたまるか!」
「やれやれ、まだ理解していないのかしら。そうね、次はそのまま逆立ちでもしてもらおうかしら。スカートめくれちゃうけど、どうせアタシたちしか見てないんだから気にしなくていいわよ」
またピッと短く笛を吹いた。アタシの身体はもはやアタシのものでないかのように意思が通じず、勝手に逆立ちを始めた。
魔法だかなんだか知らないが超常的な何かが起こっていることは確かだった。魔法を信じたくはないが、こんな辱めを受けたのは生涯初めてのことだ。単純な力比べなら目の前の色白の女に負けるはずが無いが、身体が言うことを聞いてくれないんじゃどうしようもない。
このままアタシの人生はレオナに好き放題やらされて終わりなのだろうか。ああ、こんなあっさり負けたなんて仲間に知れたら笑い者にされるだろうな。
「ぐぇっ」
今のカエルがつぶれたような声はなんだ。アタシが自分の人生に悲観していることをカエルにすら侮辱されているのか。
「…アナタ、何してるの、ヒメ」
「す、すいません。私もついレオナさんの笛の音に驚いちゃって、耳を塞いじゃいました」
「まったく、私の笛は何度も聞いてるでしょ。少しは慣れなさい」
声の主はヒメだったようだ。首を少し曲げてヒメの姿を確認した。地面に倒れている様子からして、逆立ちに失敗したのだろう。あの貧弱な腕では体重を支え切れなかった、といったところか。
レオナは呆れた表情を浮かべつつ、倒れているヒメに近づいていって耳元で何かをささやいた。かと思うと、ヒメは自力で起き上がり、服のホコリを払った。
手の内を知った仲間でありながらあっさり魔法とやらにかかってしまうとは、なんておめでたい奴なんだ。アタシもあのくらい弱ければ気楽に生きられたかもな。なんてな。そう思うと一瞬気分が安らいだ。
心に余裕が生まれたことで、自分の置かれた状況を整理することができた。そして現状を打破する方法を模索した。
レオナの奴が説明していたこと、ヒメも操られていたことから察するに、最も警戒すべきはあの笛だ。あの笛さえ封じてしまえば魔法とやらを使うこともできないだろう。そうなれば勝てる。
ではどうやって笛を吹かせなくすればいいか。そのための妙案がふと浮かんだ。
「…わかったよ、降参する。諦めてお前らに付いていくから、魔法を解いてくれ」
「本当ね?嘘だったら今度はサルの鳴き真似でもしてもらうわよ」
「ああ、サルでも犬でもなんでもしてやるよ」
レオナは了承し、笛を短く吹いた。身体の自由が少し利いてきて、何とか逆立ちをやめることができた。
「こんなにあっさり降参するなんて、変身するまでも無かったわね。さ、バイクは向こうよ。少し距離があるから走るわよ。アナタもさっさと用事を済ませたいでしょ」
「いいや、待ってくれ。さっきまで逆立ちさせられて、その前は大勢と乱闘してたんだ。さすがに疲れてきたから、歩かせてくれ。アタシも歳なんだ。はぁ、はぁ…」
わざとらしく息を荒立ててみた。
「しょうがないわね。ヒメ、鍵渡すからバイク運んで来なさい。私たちは歩いて向かうから、途中で合流しましょ」
「あ、はい」
「それから警棒貸しなさい」
二人はバイクの鍵と警棒を交換した。鍵を受け取るや否やヒメは走り去ってしまった。
「武器は使わないんじゃなかったのか」
「アナタ自分で言ってたじゃない、武器でも使わないとアナタには勝てないって。暴れられると手に負えないから、念のために借りたのよ」
「そうだったな。そうだ、すまないけど、肩を貸してくれないか。どうにも足をすりむいてしまったらしくてさ、歩くと傷むんだ」
「まったく、しょうがないわね。ほら、行くわよ」
レオナに促され、肩に腕を回した。
その切那、腕をレオナの首周りに一周させヘッドロックを仕掛けようとした。
この瞬間を狙っていたのだ。疲れていると油断させたところでレオナに自然に接近し、笛を吹かれるより早く攻撃を仕掛ける。そうすれば笛の魔法など恐れるに足りないと。
しかし技は不発に終わった。
頭を締め上げようとする腕に力が入らないのだ。渾身の力を込めている積もりだったのに技は失敗し、レオナにいとも容易く腕をどかされてしまった。
「くそっ、何故だ、何故技が決まらない!」
「私がアナタにかけた魔法をそう簡単に解くと思った?アナタほどの人がそう簡単に他人に従うとは思わない。どうせ私に反撃する隙を伺うためだと思った。だからさっきの笛は魔法を解くためじゃなく、あなたに体の自由を許すために吹いた」
「魔法を解いてないのは何となく察していたさ。むしろアタシが知りたいのは、どうして笛を吹きもしないのにアタシの動きを制限できたかってことだ」
「そんなの決まってるじゃない。操り人形がご主人様に危害を加えていいわけないでしょ」
てことはつまり、魔法とやらを解かない限りレオナに攻撃することはできないってことか。そんなのズルいだろ。
「それよりあなた、やっぱり疲れているってのは嘘だったみたいね。約束どおりサルの真似をしてもらうわよ」
「いいや、猿の真似ならもうしてるさ」
「なんですって?」
アタシは半分強がり、半分自信を取り戻したことにより自然と笑みをこぼした。
「知ってるか。猿ってのは人間の動きをよく観察して、人間が道具を使う様子から道具の使い方を学ぶんだ。そして道具の便利さを知ると、道具を人から奪うことだってある。だから猿は手癖が悪いなんてことを言われるんだ」
「何を言っているの?」
「まだ気づかないようだな。これが何だか分かるか」
アタシは右手に握りしめたものを自信満々に高々と見せつけた。
「それは、私の笛!いつの間に…まさか、さっき技をかけたときに」
「ようやく理解したようだな。そうだ、さっきヘッドロックは失敗したが、こいつだけは頂いておいたのさ。原理はよく分からないが、この笛が無ければ魔法は使えないみたいだからな。さあ、これで形勢逆転だな。大人しく魔法を解いてもらおうか」
笛を奪ったというのに何故かレオナは一向に焦る様子を見せない。それどころか余裕そうな表情を浮かべている。
「…ふふふ、浅はかね。そんなことで私が負けを認めると?」
「虚勢を張るのはよしな。てめぇにはもう何もできない。警棒を使おうったって、どうせ自分で喧嘩したことのないお前には勝てっこないさ」
「そうじゃないわ。前提が間違っているわ」
「前提だと?」
「そうよ。笛が奪われたからもう私には魔法が使えない。そう思ってるんでしょ。違うのよね、もう一つあるのよ」
「なにっ!」
「笛を使う魔法なのよ。スペアを持ち歩かないわけないでしょ」
そう言ってレオナがポケットに手を突っ込んで取り出したのは、赤い笛だった。
「これは米軍も使用している特別な笛で、笛の音が届く範囲は800メートルとされているわ。普段こっちを使わないのは、あまりに笛の音が大きくて関係ない人にまで魔法をかけてしまう恐れがあるからよ。でもアナタを相手するのにそんなことは気にしてられないわ。さあ、その笛を私に返しなさい」
レオナが笛を吹くともの凄い轟音が辺りに響き渡った。
笛の音に驚いたのか猫の悲鳴が聞こえた。
また住民が起こされたのか暗く寝静まっていた住宅街に灯りが付いた。
私の右腕は勝手に動き、気づけばレオナに向かって笛を放り投げていた。
「くそっ!」
「これで振り出しに戻ったわね。いえ、違うかしら。さっきと違ってあなたの心にもう余裕は無くなっているはずよ」
「…ああ、そうだな。あたしの作戦は失敗した。正直心が折れそうだ」
「それは良かったわね。最強のアナタにとって初めての経験じゃないかしら」
レオナは完全に勝ち誇った顔をしている。
「…勘違いするな。失敗したのは一つ目の作戦だ。まだ二つ目が残っている」
「なんですって?」
「アタシは完璧主義なんだ。だから出来れば一つ目の作戦で勝負を付けたかった。そいつが失敗したのは、笛がもう一つある可能性を考慮してなかったからだ。けどな、もう一つの作戦は、お前が幾つ笛を隠し持っていようとも必ず成功する」
「強がりはよしなさい。そんな作戦があるのなら初めからやればいい。
でもそうしなかったのは、二つ目の作戦なんて無いからでしょ」
「さっきも言っただろ、アタシは完璧主義だって。一つ目の作戦がうまくいかないときのことを考えて、予備の作戦の一つや二つくらい用意するのは当たり前のことだ。
そして必ず勝てる作戦を後回しにしたのは、準備が必要だからだ」
「準備?」
「そうだ。お前にも手伝ってもらうぞ」
「準備をするのを待て、ということかしら。いいわ。どうせどんな作戦を立てようと、私には魔法がある。この力にただの人間が抗えるはずが無いわ」
「このアタシをただの人間呼ばわりするか。面白い。それなら、魔法はただの人間一人にすら勝てない貧弱な力だってことを教えてやる」
「御託はいいわ。それより早く準備とやらを始めなさい」
レオナは赤い笛を強く吹いた。表情と声には出さないが、少しイライラしているようだ。
「まあ、そう焦るな。準備には時間が必要だからな。驚いて腰抜かすんじゃねぇぞ、アタシの奇策に。まずはこいつを使う」
アタシはロングスカートの右ポケットに手を突っ込み、中に入れいていたものを取り出した。
「それは…ミカン?」
そう、アタシがポケットから取り出したものは、正真正銘ミカンだった。
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