5-3

「今年の卒業生は僕と君だけになったんだよ」


 淡々ととんでもないことを語る和久に綾子はついていくことができなかった。彼女よりも人望があり、憧れの存在であった彼からそんな事実が何の躊躇いもなしに口から出てくる事に、綾子は衝撃を覚えた。


「それよりも、今日は司書の仕事は大丈夫? 有給は取らなくていいの」


 和久がそう声をかけた時、彼女のスマホが鳴り出した。発信者は「ナナオ市田島中学校事務室」とある。田島中学校は知っているが、そこの事務室の電話番号など登録した覚えがない。

 応答してみると電話の相手は、まだ出勤していませんが、今どこにいるか、と尋ねてきた。私はそこに勤めていないですけど、と丁寧に言うと、電話の相手の女性は拍子抜けたように喋り出した。


「だって、あなたは町田郁奈さんを三十人殺してますよね。そのせいで、全国の町田郁奈さんの条件に合う人が彼女を含めて三十人消えたのです。この社会を維持するために、あなたは彼女の代わりに全国の学校の図書室司書を三十個掛け持ちしているんですよ。忘れてしまいましたか」


 さらに頭が真っ白になった。図書館の司書を私が? 資格も持ってないのに、図書室の業務だってやった事ないのに、しかも三十個も掛け持ちしてるなんて、どう考えたって不可能だ。しかし、その旨を伝えると、相手は何を言ってるんだ、とでも言いたげにこう返した。


「だって、殺したのはあなたでしょ。その人の人生にあなたは全ての責任を負わなければならないんですよ」


 鼓動が大きく鳴った。底知れぬ沼に体が沈んでいく感覚。彼女は硬直したまま言葉を発することができなくなってしまった。電話の相手が今日は有給をとるということでよろしいですか、と聞いてきたので、かろうじてハイと答えて電話を切った。


 嫌な予感がした。脳裏によぎるのは郁奈の言葉と、あの歌声。一体いつまで続いているのかしら。人を殺すという事は、その人が持つ無限大の可能性を潰したも同義であると。


 下らない、下らないわ、と綾子は一蹴した。その人が持つ無限の可能性を潰したからって何になるって言うの? 私は澁谷綾子よ。誰よりも優秀で、なんでもできるの。

 たかが百四十八人殺したからって何? 地球の人口に比べたら一パーセントにも満たないじゃない。これくらい、軽くこなして見せるわ。そして、あの幽霊にケチをつけてやるのよ。約束と違うってね。


 そんな強気な思いとは裏腹に滅亡のカウントダウンは始まっていた。綾子はその針の音を僅かに感じながら、百十七人分の卒業証書を受け取る練習をした。




 五年目。


 朝、起きたくない朝、夢に逃げたい朝。けれども、あの日以来夢は一度も見ていない。もしかしたら、ここが夢の中だからかもしれない。

 だって、そう思わないとやってられない。一人に百四十八人分の仕事を押し付けるなんて論外にもほどがあるもの。百四十八人分の宿題、受験勉強、仕事、部活、恋愛、趣味。! 

 一日がどれだけあっても足りない。それでも、紛い物の日は昇り、容赦無く、皆等しく平等に沈んでいく。


 玄関のインターホンを押す音が聞こえる。中学を卒業してから一人暮らしをしているから、誰も出ずにインターホンは鳴り続ける。


 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。


「澁谷先生、k出版のscdです。森島先生の分の依頼した原稿を受け取りに来ました」


 インターホンが鳴りながら三十一人の声が同時に聞こえてくる。その固有名詞はどれもバラバラで、うまく聞き取ることができない。そして、そのリズムが脳裏でなり続ける歌と上手く相まって、リミックスを奏でる。誰がこんな趣味の悪いリミックスを聞くのよ。


 やがて、玄関の方で喧騒な声がした。どうやら玄関前で小競り合いが起きているようだ。数回のラリーが続いたのち、今度はインターホンを介さずにドンドンドンドンと扉を激しく叩く音がした。それがまた、あの歌のリズムと相まって、別の雰囲気の楽曲を作り出す。I've been working on the railroad All the livelong day!


「おい澁谷ぁ、いるんだろう。稗島の分の借金が今月で数千万行くんだわ。しかも二十九人分。そろそろ返してくれなきゃ、うちも奥の手を使わないと行けなくなっちまうぜ」


 電話が鳴る。プルルル、プルルル。これもあの歌のリズムと合う。ちょっとエレクトロちっくでチルアウトのようだ。布団を被って出ないでいると、電話はやがて留守番モードになり、悠里が行くはずだった会社の上司が話し出す。


「澁谷さん、今月に入ってから、まだ来てないけど大丈夫ですか? もし、人を殺した事以外で悩み事があればぜひ聞くので、連絡してください」


 これがその後二十七回続いた。ポストに郵便が三十通投下される。どれも違う大学の理工系学部からの留年通知だ。専攻も研究分野も違った気がする。そんな事、一々覚えていられない。


 玄関が再び騒がしくなる。しかし、先ほどのように一触即発の状態ではないらしい、みんな和気藹々と会話している気がする。やがて鍵が開けられてザワザワと家の中に入ってくる音が聞こえた。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。また来た。綾子あたしは望んでいないのに、郁奈あいつが望んでいることが。


「綾子、帰ったぞ。偶然、他の夫にも出会ったから連れてきちゃったぜ。まあ、いいよな。本来俺が結婚するはずだった女を殺したんだから」


 三十人の男たちは寝ているフリをしている綾子の周りにくると、酒を飲んだり、菓子をつまんだりして、大いに盛り上がり始めた。綾子は必死に身を固くする。私は無機物、私は人間じゃない、私は、私は……


 やがて一人の男が布団を無理やりはがして綾子のことを抱きしめた。汗まみれの臭いが彼女の目から涙を滴らせる。ああ、始まってしまう、また始まってしまう。郁奈あいつが望んでいることが始まってしまう。


 男はキスしようと彼女の顔に唇を近づけた。綾子の必死な心の抵抗も他所に、彼女自身は顔を上げて、男の唇を受け止める。途端に彼女は残り二十九人の男と口づけをした。口づけして、そこからは……覚えていない。朦朧とする意識と、疲労と、吐き気が終始続いて、気づいた頃には朝になり、あたりは■■の臭いで満ち溢れていた。


 恋をするのであれば、本当はもっとドラマチックな恋をしてみたかった。和久のような人と近づきつつ、離れつつ、なんて攻防を繰り広げて、最終的にくっつく、なんてことをやりたかった。けれども、彼には中二の頃から後輩の彼女がいた。二人は今どうなったんだろう、連絡を取りたくても取れる時間がない。


 綾子自身に彼氏がいないわけではなかった。二年前に告白してきた男子と付き合ったが、彼女が百四十八人分の人生の代わりをやっている事に対しては一切同情せず、しょうがないよ、とあしらって来たので別れてしまった。


 それからしばらくして、津江中学校の浜田を始めとする全国の中学体育教師三十人と付き合って結婚した。そんなの常識で考えて許されるはずがない、と思ったのに、綾子がその人の代わりをしているんだから仕方ないよね、と周囲は意外にもあっさりした反応を返した。


 おかげで図書館の司書は退職することができたけど、私は本当に三十人分の子供を産む事になるのかしら。綾子は■から絶え間なく流れ出す■■■をティッシュでぬぐい続けながら思った。いや、今はまだ郁奈の分だけだが、もし百四十八人全員結婚する事になったら、私は一体……。そう考えただけでも身震いした。

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