夜の合間に

名無之権兵衛

第一章「日が沈む頃」

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 二月二十九日火曜日 夕刻



 沈んでは、昇り、

 昇っては、沈む。


 幾千、幾億とも繰り返されるその営みは、瀑布の如く、樹々から落ちる果実の如く、一行の数式の中で規則正しく続いていく。

 それは潮騒の満干然り、屋上から飛び降りる何者も然り、万物に等しく働いており、太陽と地球の間とてそれは例外ではない。


 しかし、その太陽が今、止まっている。


 えっ、? 


(もっちゃん)


 僕はその原因を突き止めようと教室の時計を見てみた。窓際、一番後ろの席に座っている僕にとって、時計は教師よりも見慣れた存在だった。

 時計は三時九分五十六秒を指したままピクリとも動かない。つまり、太陽が動かないのも、周囲が温かな静寂に包まれているのも、全て時が止まっているせいだったのだ。


 なるほど。僕はやけに冷静に、それでいて興奮した心境で辺りを見回した。僕以外、誰も動いておらず、それは動物、木々のそよぎとて例外ではなかった。

 この時が止まった世界で動けるのは僕一人だけ。そう、ついに僕は自由になったのだ。これは誰も止めることはできず、阻むことすら許されない。


 そう、僕は自由の身になったのだ!


(おーい、漱石かぶれ)


 試しに椅子から立ち上がり、一歩、二歩、三歩と天井に手が届くまで跳躍しながら歩いてみた。天井にうっすらと膜をはったホコリが手に付着する。けど、そんなこと今は全く気にしない。なぜなら僕はなんだってできるからだ。

 時が止まり、時に支配される数式は全て無と化した。これまで人類が数千年に及び苦労してきた血涙を嘲笑うかのように、この瞬間は僕に真の自由を与えてくれたのだ。

 

 では試しに、体操・床のG難度技、後方抱え込み二回宙返り三回捻りをやって見せよう。


(おーい、国語苦手作家)


 ほら、できた。


 今の僕にはなんだってできた。今までサボってきた宿題だって、一瞬で終わらせる事ができるし、世界一の銀行強盗だって成し遂げられるだろう。

 しかし、そんなチンケな事に僕はこの機会を使いたくはなかった。どうせなら行けるところまで行ってみたい。どこまでも、どこまでも。この世界の、この宇宙の果てまでも——




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 二月二十九日火曜 午後三時九分



「もっちゃん!」

 

 頭の芯にまで響き渡る甲高い声に、森島元紀もとのりは眼を大きく開き、飛び上がった。

 途端に意識が掃除機に吸い込まれるように浮かび上がると、自分の席へと戻っていく。

 それから一瞬のうちに、耳には大量の生活雑音が届き、太陽はゆっくりと傾き始め、時計の針は五十七、五十八、五十九、と進み、三時十分を告げるチャイムが鳴った。


「もっちゃん!」


 元紀は眼をパチクリさせて、右から聞こえてくる甲高い声に顔を向けた。そこには同じクラスで友人の関根ラムジーが嬉々とした表情で立っている。金髪をツーブロックに切りそろえたハーフ男子は眼鏡の奥で目をパチクリさせながら口を開いた。


「大丈夫か、もっちゃん?」


 ラムジーは揶揄からかうような声音で元紀を気遣った。この瞬間、元紀はまだ本当に自由ではないのだと悟った。


「クロノスタシスだ」


 彼は沈んだ気持ちを奮い立たせるために、ラムジーの質問に答えた。


「えっ? クロノ……なんやって?」

「クロノスタシス。一秒間がとても長く感じる現象の事だよ」

「それがどないしたって言うんよ」


 ラムジーはキョトンとしたまま何が何だかさっぱりだという表情をした。元紀は嘆息を一つつくと、何でもない、とかぶりを振って椅子の背もたれに体重を預ける。


「ワシ、めっちゃ声かけたんやで。もっちゃん、もっちゃんって」


 そういえば、さっきまで所々からそんな声が聞こえてたな。元紀は夢でも見てたような心持ちで、先ほどの妄想の世界に思いを馳せた。けど、あれ?


「お前、時々悪口言ってなかったか? 『国語苦手作家』とか『漱石かぶれ』とか」


 元紀の詰問にラムジーはそんな事言ったけなあ、と口を尖らせて眼を泳がせた。もうすぐホームルームが始まる時間だというのに、担任の平川先生が来る気配はない。もしかしたら、今日がだからかもしれない。


 そんな事など気にせず、ラムジーは元紀に話しかけた。


「そんなことよりも、もっちゃん。いい噂を聞いたんよ」

「ベテルギウスが超新星爆発するって話?」

「うんなわけあるか。いや、でもあり得なくもないな。最近光が小さなっとるし、もう爆発しとるんとちゃうか? いや、そんな話ちゃうねん。この学校の話や。この学校の」


 ラムジーはしばらく間を置くと、イケメン俳優のようにウィンクして見せた。


「この学校の七不思議って知っとるか?」

「ああ、万里の長城とかピラミッドのことだろ?」

「それは学校の七不思議やなくて世界の七不思議や。規模がまるでちゃうやろ。おまん、作家目指しとるのに、そげんことも知らんのか?」

「知ってるよ。ボケてあげたんだよ。そろそろ弄ってあげないとお爺ちゃんみたいに老けちゃうからさ」

「そんなことあるか、ボケ。ワシがどない体しとると思っとるんじゃ、自分はぁ」


 ラムジーは長話をするためか、隣の机に腰かけた。元紀は先生がそろそろ来てもいいのではと教室の扉を見てみたが、平川先生が来る気配は一向にない。これは、彼の話が終わる頃にやって来るんだろうな、と思いながら、意気揚々と語る友人の話に耳を傾けた。


「学校の七不思議って言うたら、夜中にトイレの鏡を見ると引きずり込まれるとか、ベートーヴェンの目が動くなんてのが有名やけど、それがこの津江中にもあるんよ。けど聞いたところによると、この津江中版・学校の七不思議はちょっと違うらしいんや」


 補足しておくと、彼の言った津江中とは、元紀らが通うナナオ市立津江中学校のことである。

 この学校はイシカワ県ナナオ市の東岸にある小さな島、津江島にある唯一の中学校で、津江島で育った子供たちは、必ずこの中学校に通わなきゃいけない。

 そのため、片田舎でありながら廃校の心配はないほど、生徒がたくさんいる中学校なのである。そう元紀は架空の読者に向かって文字を並べた。


 そんな彼など気にもかけず、ラムジーは話し続ける。


「まず王道と似たところを言うと、理科室やな。理科室の怪異として有名なんは、人体模型や骸骨が動くといったところなんやけど、うちのは一味違うねん。その動き出した骸骨たちが、夜な夜な理科室の道具を使って実験してるそうなんや」


 元紀はたちまち鼻で笑った。いくらなんでも雑すぎるだろう。もう少しリアリティのある怪異が出て来るかと思ったら、下らない趣向を凝らしたものだ。これじゃあ、読み始めた読者が引いて行ってしまうぞ。


「そんで次は二宮金次郎像や。うちの校門にもそこそこでかい金次郎がおるやろ? あれが夜になると動き出すんやって。そこまでは他んところと一緒やねんけど、そこが津江中やと少し違うんや。なんと、動き出した金次郎像は、二階の図書室に行って勉強してるそうなんやって。幽霊になっても勉強熱心とは、いやぁ、感心なやつよ」

「ラム、ちょっと待て。いったん、落ち着いてくれ」


 元紀はこれ以上は耐えられないとでも言いたげに、手を振ってラムジーの話を遮ると、上体を起こした。


「お前は僕のことをからかってるのか? それとも変なキノコでも食べて、頭がおかしくなったのか?」

「なんや、もっちゃん。もしかして自分、ワシのこと疑っとるんか?」

「うん、大いに疑ってるよ」

「なっ! なんの躊躇いもなしにそげんこと言うか、大切な親友に向かって」


 ラムジーは机から腰を上げて、ぐいと元紀の顔の近くまで来ると、右手人差し指を立てて、小さな声で言った。

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