ここは楽しいサナトリウム
hibana
第1話 ここは楽しいサナトリウム
荷ほどきをしていたら腕が取れた。比喩でも、何かの備品の話でもない。自分の右腕が取れた。
ノゾムは「あー、やっちゃったよ」と言いながら右腕を拾う。気を付けているつもりでもこの体はすぐ解けてしまうのだ。
人形病。言葉の通り、体が人形のように変わっていく。その多くが無血病を併発し、この通りノゾムは腕が取れたって一滴たりとも出血などしていない。この腕も、縫い合わせれば元通りだ。
しかし、どうしたものか。
ここは療養所。ノゾムのように症例の少ない、ともすれば常識では考えられないような病に侵された者ばかりが生活する場所だ。ノゾムは今日から世話になる。入院というよりは引っ越しのような荷物を抱えて。もちろん知り合いはいない。
「柊先生……どこだ……」
柊とは、ノゾムのことを診断した医者だ。この療養所の医師である。部屋には緊急時に人を呼ぶコールボタンがあるが、初日でこれを押すのは恥ずかしすぎる。仕方なくノゾムは部屋を出て柊を探すことにした。
ふと、庭から人影が見えたので顔を出してみる。「すみませーん。自分、スズキっていいます。今日からここでお世話になるんですが」と声をかけた。小学生ぐらいだろうか、少年がやけに大きなバアムクウヘンを頬張りながら振り向いて会釈をしてくる。
その奥に、高校生くらいの女の子が何やら大きな声で駆けて行った。
「鳥! 鳥、おいしそう!」
「あっ、やべ。初手で絶対に話しかけちゃいけない人らだな」
「大丈夫ですよ、ぼくたち無害なので」
怯えるノゾムを、小学生がなだめる。「はじめまして、お兄さん」と手招きした。
「何かご用ですか?」
「あの……柊先生を探してるんすけど」
「柊先生……。今日は見かけてません。もしかしたら往診かも」
「往診すか? この病院には柊先生しかいないって聞きましたけど」
「そうですよ、お医者さんは柊先生だけです」
「それで柊先生が出てっちゃったら、困るじゃないすか」
「だからといって、往診できるのも柊先生しかいないんだからしょうがないです。ぼくたちみたいな変な患者、診てくれるのは先生しかいないんですよ。自分たちでできることは自分たちでするのが基本です」
物凄く冷静に諭されてしまった。ノゾムは少し落ち込んで、「スミマセン」と呟く。少年は眉をひそめて、「お困りごとは、その腕ですか?」と尋ねてきた。ノゾムは小さくうなづく。
「人形病?」
「あ、ハイ」
たいへんですねえ、と少年はため息をついた。それから、小鳥と戯れている(?)女の子に声をかける。「ユメノちゃん、ちょっと!」という声に、少女が振り向いた。走ってこちらに来る。
「呼んだ!?」
「このお兄さん、柊先生を探してるんだって」
「あー! あー、柊先生ね! ちょっと待って、今思い出す」
ポクポク、と音がしそうな数秒。ノゾムは少年に、「彼女は大丈夫なんですか?」と聞いてみた。「大丈夫ですよ。ぼくのお姉ちゃんです」と答える。
「お姉さん?」
「……本当はお姉ちゃんではないんですが、ユメノちゃんはぼくのことを弟だと思い込んでるんです」
「こわいこわいこわい」
「でも、めずらしいことじゃないから。ひとりぼっちでここに来た人たちが、ここで家族を作ったり結婚ごっこをするのは、めずらしいことじゃないんですよ」
パッと顔を上げたユメノが、「今日は会ってないや!」と言った。
「まあ元気出せよ、青年! あたしのこと食べる!?」
「情報量がえぐくて死にそう」
「お兄さん、柊先生を探しがてら、ここを案内しましょうか。今日が初めてなんでしょう?」
「温度差ァァァ」
少年はユウキと名乗る。飴喰病という病気らしい。また、少女の方はユメノという名で、ケーキ病らしい。ケーキ病というのはノゾムも聞いたことがある。体がケーキのように甘く脆くなってしまう病気だ。
「あー、オレの名前、ノゾムっていうんすけど」
「ノンちゃんね! 覚えた!」
「距離感が近い」
「それでノンちゃんも一人でここに来たんですか?」
「君もオレのことノンちゃんって呼ぶんだ……」
建物の中に入り、ユメノが「とりま、あたしの友達のとこ行ってみよっかー」と先頭を歩き出す。悪い子たちじゃなさそうでよかったな、とノゾムは胸をなでおろした。
コンコン、とドアを叩く。「アイちゃーん! 来たよー!」とユメノが言った。するとドアが開き、中から褐色肌の美しい男性が現れる。
「やーん、ユメノちゃんじゃなーい! いらっしゃい!」
ノゾムは思わずユウキに耳打ちした。「これは素ですか? それとも何らかの病の影響ですか?」と。ユウキは淡々として「素です。アイちゃんはこれでアイちゃんなんです」と答える。ノゾムは納得して、「どうも、ノゾムといいます」と挨拶した。
「あらー? なぁに、新しく来た人?」
「そうなの。ノンちゃん、腕取れちゃったんだって。柊先生探してんだけど」
「今日は見てないのよねえ。お茶飲んでいかない?」
「飲んでくー!」
ノゾムはぎょっとする。「あの、でも、できれば早いうちに腕を縫い合わせたくてですね」と話した。しかし頼みの綱のユウキまでもが、「アイちゃんのお菓子、おいしいですよ」と促してくる。結局断り切れず、中に入ることにした。
「そう、あなた人形病なの。傍から見ても全然わからないのねえ」
アップルパイを取り分けながら彼は言う。ちなみに彼の名前はカツトシというらしい。なぜか“アイちゃんと呼べ”と主張するのでノゾムもそのように呼ぶことにはするが。
「そうっす。でも、変な感じはありますよ。オレ、無血病もあるからほんと生きてるかどうかも曖昧で」
「ふうん。柊先生はなんて?」
ふと、初めて診断された日を思い出す。父が柊に、『心臓が止まっていて、腕や足が取れてもまたくっつけることができて……息子は、そんな状態で確かに生きていると言えるのでしょうか』と尋ねた。柊は顔をしかめて、『生きてるよ』と断言したのだった。『てめえの息子は生きてるよ、それぐらい見てわかんねえのか。くだらねえこと聞くな』と。
ノゾムはふっと笑って、「どうやら生きているらしいです」と答える。「なら、アップルパイも食べられるわね」とカツトシは肩をすくめた。
「僕、薔薇病なのよ」
そうあっけらかんと言ったカツトシを、ノゾムはまじまじと見る。そうして、今までコサージュだと思っていた胸の薔薇が本物であることに気付いた。「そう……なんですか」と呟く。
薔薇病。あらゆる奇病の中でもかなり初期の段階に発症が確認された病だ。発見当時はひどく騒がれた。体中の血液から薔薇が咲く奇病。主に心臓から咲いたのを皮切りに、怪我をすればそこからまた薔薇が咲く。その薔薇が血液を吸い尽くし、やがては死に至る病。治療法は今のところ、ない。
「しょっちゅう薔薇の棘が刺さってはまたそこから薔薇が咲くから、時々焼くの。脱毛みたいなもんね」
「絶対に違うと思いますけど」
アイちゃんのバラかっこいいよねー、とユメノが言う。カッコイイとかそういう問題なんだろうか、とノゾムは思った。
「ユメノちゃんは、ケーキ病なんすよね」
「そうだよ。食べてみ、美味しいから」
先ほどからユメノは何かにつけ“自分を食べてみろ”と言ってくる。それもケーキ病の症状なのだろうか。「あたしもねー、こうなる前はもうちょっと、こう……色んなこと考えてたんだけどねー、なんか難しいこと考えられなくなっちゃったんだよねー」と紅茶を口に含みながら言った。脳を侵食する類の病もいくつかあるが、ケーキ病は頭の中までクリームになってしまうんだったか。この病もまた、治療法がない。
「オレ、飴喰病って聞いたことなかったんすけど」
「最近発見された病気なんですよ。まだ世界に数えるほどしかいないって話です。でも、なんてことないです。甘いものをずっと食べてればぼくは大丈夫なので」
飴喰病を発症すると、甘いものしか食べられなくなるらしい。甘いもの以外を口にすると脳死状態となるそうで、正直それを聞いたノゾムは背筋が凍った。“なんてことはない”と言いながら、かなり怖い話だ。
また、飴喰病の患者は頭の回転が速くなることが多いらしい。まあ、この少年の様子を見ればそれも納得ではあった。
「さて、一息ついたら柊先生探すの手伝うわよ」
「あ……ありがとうございます」
「いいわよ。あんたも随分顔色よくなったわね」
どうやら、ノゾムの様子があまりにも不安そうに見えたらしい。それで押し切ってまでお茶会を開いてくれたのか。ノゾムは今更に恥ずかしくなり、健在な方の腕で頭をかいた。
「そうはいっても当てがないですね。片っ端から聞き込みをしましょうか」
「そういえば最近、柊先生がかなり手を焼いてる患者がいるって聞いたけど。なんていったかしら、すごくお金持ちのお嬢様なんですって」
「ミユねー、そのひとしってるよ。ミユといっしょ、はねがあるひとでしょー」
ふっとノゾムは顔を上げる。金色……だろうか。背中に羽根の生えた少女が、いつのまにか椅子に座ってアップルパイを頬張っていた。ノゾムはきょろきょろと、カツトシたちの反応を見る。
「あら! ミユちゃん、来てたのね。いまジュース入れるわね~」
「ミユちゃん、おひさ! 元気してたぁ? あいかわらず羽根イカしてんね」
「手は洗いましたか? 椅子に膝立ちするのはおぎょうぎが悪いですよ。ぼくが膝に乗せてあげます」
ノゾムはほっとして、汗を拭った。「オレにだけ見えてる妖精かと思った……」と呟く。
「ミユ、つれてってあげよっか」
「よろしくお願いします」
実結という少女は、鱗粉病らしい。これは実結が直接語ったわけではなく、ユウキがそう言った。鱗粉病とは、背中から蝶や蛾のような羽根が生えて鱗粉を散らす病だ。相当数のコレクターがいるらしい。この療養所で何らかの治療をしているというよりは、そんなコレクターたちから保護するような目的でここに入院させているようだ。
「ミユちゃんは、ママもここに入院してるのよねー?」
「そうよ。ミユのママもいるの」
そんな話をしているうちに、目的地にたどり着いた。例の“柊医師が手を焼いている患者”の病室だ。
ノックをする。反応がない。いないんですかね、と首を傾げるノゾムの隣でユメノが怒涛の如くドアを叩き始めた。
勢いよく、ドアが開く。
「宗教勧誘はお断りでしてよッ」
ボサボサの髪、黒縁の眼鏡、着古したようなジャージに、背中の立派な翼。それは実結のものと違って、どちらかといえば鳥類の翼に似ていた。
「あ、あの……いきなりすみません」
「あら……そこにいるのはミユという子じゃなくって? それから、顔の愛らしい少女と顔の美しい青年」
「顔しか見てないっすね」
「まあ、あなたも及第点と言ったところ」
「ぼくはどうですか?」
「あなたも愛らしい顔をしているけれど、男の顔なんて成長したらどうなるかわかりませんからね」
翼を持った女性は腕組みし、俗に言う仁王立ちのような格好をする。「それでぇ?」と眉を吊り上げた。
「私に何の御用ですの? この通り、完全オフなのですが」
「あのー、柊先生をご存知ないですか。探してて」
「柊? ああ、あの口の悪い医者。私に向かって偉そうなことばかり言うので気に入らなくてよ」
ムッとしたユウキが、「子どもみたいなこと言わないでください。柊先生がいなかったらぼくたちに行くところなんてないんですよ」と睨む。「なんですこの子」と女性は鼻白んだ。
「ともかく私は存じ上げませんので。他を当たったらいかが?」
「そっすか……」
不意に、「お待ちになって」と女性が呟く。「この病棟内はあらかた探したのでしょう。であれば柊という医者、もしかして隔離病棟にいるんじゃありません?」と言い出した。
「隔離病棟……?」
「ええ、そうですわ。そうとなれば私も同行いたしましょう。少しお待ちを。着替えて参りますので」
俄然やる気を出し始めた女性は、一度部屋の奥に引っ込みまた顔を出した。髪を整え、美しい緋色のワンピースを着ている。ノゾムたちは目を丸くしながらも、その女性と共にまた歩き出した。
女性は美雨と名乗る。どうやらこの国の出身ではないようだ。日本語がお上手ですね、とノゾムは言う。「馬鹿にしてらしてね」と美雨は顔をしかめた。
「私、翼病ですの」
「翼病っていうと……翼とか生えちゃう、感じですか……」
「あなたの目は節穴でして? すでに背中に生えていますでしょう、翼」
ノゾムは『今気づきました』という顔をしておく。幾ばくか溜飲を下げた様子の美雨が「どんどん成長しますのよ、この翼」とこぼした。
廊下を歩いていると、いかにもチンピラという風の金髪の男が通り過ぎる時こちらを睨んでいった。『うわ怖……』と思っていると、美雨が「安心なさい、集団で動いている時に噛みついてくるような根性はない男ですわよ」と吐き捨てる。
「知ってる人ですか?」
「いいえ。ですが、宝石病の男のようですわね。今度切りかかってご覧なさい。血がルビーになって、さぞ高く売れるでしょうから」
端の方を歩いていたユウキが「それは宝石病と涙石病を併発していますね。めずらしいけれど、時々いるんだそうですよ」と話した。へえ、とノゾムは男が去っていった方を見る。「大変でしょうね、そういうのって。なんか色んな人に利用されそう」と感想を呟いた。
「まあ、奇病によってはタチの悪いコレクターがいますからね。他人事だと思わず、あなた方だって気をつけないと」
美雨は目を細めてノゾムたちを見る。「よく見ればどいつもこいつも一定数コレクターがいそうな奇病じゃありませんの、夜道にお気をつけあそばせ」と肩をすくめた。自分が何者かに狙われるとは到底思えなかったので、ノゾムはカツトシに「コレクターとか、会ったことあります?」と尋ねてみる。
「結構いるわよ。僕、こんな病気だから怪我したくないじゃない? 逃げるしかなくてムカつくのよね。コテンパンにしてやりたい」
「確かに、逃げるしかないのはムカつきますね」
「あんた結構話がわかるから好き」
あたしにもわかる話して、とユメノが言うのでノゾムは「むかしむかしあるところに」と昔話を諳んじる。ユメノはきょとんとして、「? なんか思ってたのと違う」と言った。
「あんまりユメノちゃんをからかわないでください」
「スイマセン、可愛くて」
不意にユメノが顔を赤くする。カツトシが「前言撤回。やっぱあんた気に入らない」と腕を組んだ。
そんなことを言っているうちに、美雨が立ち止まる。「どしたんすか、美雨様」と声をかけた。別にそうしろと言われたわけではないが、何となく彼女には“様”と付けなければならないような風格があった。
「こちらの部屋に、私の素敵な友人がいるのですが」
「美雨様、ご友人がいらっしゃったんですね」
「何ですその言い方。あなたの布全部シースルーに変えますわよ」
「勘弁してください」
ふん、と鼻を鳴らしながら美雨はドアをノックする。「麗美さーん?」と呼びかけた。反応がない。
「ご友人、出てきませんね」
「恥ずかしがり屋なんですの」
すかさずユメノが前に出て、思い切りドアを叩き始めた。今度はユウキとカツトシまで参戦する。
「るっっっさいわよ、バーカ!!!!!」
ドアを開けて出てきた女性が怒鳴った。「恥ずかしがり屋のご友人、出てきましたよ」とノゾムは美雨を見る。美雨はといえば、甘えた声で「ねえ、麗美さん?」と女性にしだれかかっていた。
「私たち、隔離病棟に用があるのです……」
「いや厳密に言うと隔離病棟じゃなく柊先生にですね」
「お黙りなさい」
なぜかキレられて、ノゾムはユウキと顔を見合わせる。「ぼくはまちがってないと思いますよ、ノンちゃん。元気出して」と言われて肩をすくめた。
「だから何なのよ」
「隔離病棟の鍵を……取ってきてくださらないかしら、と思って」
すると女性は目を伏せて、何と段々透けてきた。美雨が慌てて「待って、待って。透明にならないで。違うのですわ」と弁解し始める。
「そう! そうですわ! この前見かけた髪の黒くてパーマがかったような男と、もう一度会いたいって仰ってませんでした? 私、その男を隔離病棟の近くで見た気がしますの。ね、行ってみませんこと?」
「べっ……別に会いたいだなんて言ってないわよ。その男が一体どこの病棟で、何の奇病なのか気になるって言っただけでしょ」
「一般病棟にいて遭遇しないということは隔離病棟にいますわよ、間違いない」
「あんた、息子に会いたいだけでしょ」
じろりと美雨を睨みながら、麗美はどこかへ歩いて行ってしまった。その背中を見送りながら美雨が「麗美さんは、この前ひとことふたこと話をしただけの男にすっかり気を惹かれているんですの」と要らない注釈をつける。
「隔離病棟で見かけたというのは?」
「まあ、それっぽいのを見かけたのは本当ですけれど。あの男のことを言っているなら麗美さんは相当趣味が悪いですわね」
戻ってきた麗美の手には、何やら鍵の束のようなものが握られていた。悔しいやら恥ずかしいやらの表情で、それを美雨に差し出している。
「麗美さん……」
「ほんと……二度とやらないから」
「ちなみにその鍵はどこにあったんすか?」
「管制室よ。あそこ、スタッフが何人かいて厄介なのよね」
「……スタッフがいるんなら、柊先生じゃなくても誰かしら腕を縫い付けてくれないかな」
「お黙りなさい。事ここに及んで、あなたの腕なんてもうどうでもよろしくてよ」
「嘘でしょ」
当惑するノゾムをよそに、ユメノが「じゃあ、しゅっぱーつ」と掛け声を発する。それに合わせて実結も「しゅっぱーつ」と腕を上げた。
隔離病棟は一般病棟を出て庭を突っ切り、ほとんど森の中にあった。人工的に拓けた場所に、まず堂々とプールがある。その中から、女性が手を振ってきた。
「プール! いいなあ、プール!」
ユメノがはしゃぐ。「こんにちは」と女性が会釈をすると、ものすごい勢いで実結が飛んで行った。比喩ではない。本当に飛んで行った。
「ママ! ここにいたの!?」
「!! 実結……どうして外に」
ママ? と尋ねれば、女性はまた会釈をして「都幸枝と申します」と自己紹介する。「ミユのママだよ」と実結が付け加えた。
「実結、お外に出ちゃダメって言ったでしょう」
「でも……ミユ、みんなといっしょに……」
見かねて、ノゾムが「お母さん、大丈夫ですよ。オレたちもちゃんと見てるし」と口をはさむ。「そうそう、僕たちがちゃんとミユちゃんのこと守るから」とカツトシも加勢した。美雨だけが「よく言いますわよ、腕っぷしはともかく喧嘩なんかしたくてもできないやつらばっかりじゃありませんの」と眉をひそめる。
「皆さんはなぜここまで?」
「あー、柊先生を探しにですね」
「そう……柊さんのことは見ていないわね。一応、病棟の鍵を開けましょうか」
「幸枝さん、ここの鍵持ってんすか」
「この病棟に入院している患者はみんな持っていますよ」
顔をしかめた麗美が「私が鍵盗む必要なかったじゃないの」と言い出した。それを聞いた都が「鍵を……盗んだ……? 管制室から?」と尋ねる。やばい、という顔をした麗美は咳払いをした。
「悪い?」
「いいか悪いかで言うと……決して良くはないけれど。そんなことより、管制室の鍵があなたたちの手元にあるということは、少なくとも柊さんが隔離病棟の中にいるとは考えづらいんじゃないかしら」
まったくもって、その通りである。
ふとユメノが「ミユちゃんのママはなんでプールに入ってるの? 暑いから?」と尋ねた。都はハッとした様子で、「こんな格好でごめんなさいね」と今更ながら髪を整えるなどする。
「私は液状病なの。水の中が一番安全だから、わざわざプールを用意してもらったんです」
「液状病……! 全然気づかなかった」
「ええ、見ただけではわからないでしょう? でも触ったらわかるわ」
恐る恐る、ユメノとユウキが都の頬に触れた。ぴちゃ、と音がして彼女の“存在”が揺らぐ。確かに、水だった。
「まあ、柊とかいう医師が中にいようがいまいがどうでもいいことでしてよ」
「どうでもよくないんですよね、マジで本末がバク転してんすよ」
「ここまで来たんだから絶対に入らせていただきますわ」
あら、と呟きながら都がプールから上がろうとする。「じゃあ、私が案内するわ」と水を滴らせながら歩く。正直濡れた衣服が透けていて大変目に毒である。
「ここは隔離病棟。患者たちにはみんな、隔離されているだけの理由があるわ。たんに私のように、特殊な環境が必要なだけの奇病の方もいらっしゃるけれど」
とにかく中を見てみましょう、と言って案内する都の言葉など一切聞かずに美雨が真っ先に駆けて行った。そのうち一つの部屋の前で、「章ぁぁ、来ましたわよぉぉ」と叫ぶ。
「だ、ダメよ。患者を刺激しては。ストレスでうっかり自爆してしまう類の患者もいるのだから」
「何それこわっ」
管制室から盗ってきた鍵を鍵穴に刺しながら、「ここは私の息子の部屋なのです」と美雨は言った。「あー、だから隔離病棟に来たかったんですか」とノゾムはため息をつく。やがてドアは開いた。
中ではなぜか仮面をつけた少年が、穏やかに首をかしげていた。
「相変わらずですねえ、お母さん」
美雨は飛んでいき(これは比喩)、少年に抱き着く。「ああん、久しぶりですわね章」と泣いた。
「こんにちは、皆さん。僕は章と申します。うちの母がご迷惑をおかけしてすみません」
「え? うーん、まあ……迷惑ってほどでは」
「大丈夫だよ、美雨様ちょー面白い」
「行動力があっていいと思います」
「そうですか、それならいいんですが」
こほんと咳をして、章は「せっかくいらしていただいて申し訳ないのですが」と前置きをする。
「僕はご覧の通り仮面病なのです」
「ああ……仮面病か……室内で仮面をつけてる変な子かなと思った……」
「仮面病は感染するという説もありまして、隔離病棟に部屋を用意していただきました。なので、皆さんもあまり僕には近づかない方がよろしいかと」
わかった、とユメノが言って章の前まで歩いていく。それからさっと右手を差し出した。「友達になろう」と話す。
「……お聞きいただけていなかったようですね」
「ううん、聞いてた。だから友達になろう」
「だから……?」
「このまんまお別れしたらきっとそれで終わりだけど、一度友達になったら離れていてもそれで終わりにならない魔法がかかるんだよ。だから今日は友達になってお別れしよう」
ぽかんとしながらも章は「困った。お断りする理由が見つかりませんね」とユメノの手を握った。それからユウキも「ユメノちゃんの友達なら必然的にぼくも友達ということになります」と当然のように章と握手する。章は苦笑してされるがままになっていた。
「あら、じゃあ僕も」「ミユもおともだちになりたい!」「乗るしかないこのビッグウェーブに」と次々章の手を握る。
「本当に困ったな。今まで一人も出来なかった友人が、今日だけでこんなに出来てしまった。手紙を書きますね」
「まとめて1通でいいっすよ。全員に書くの絶対大変ですし」
「てかLI○Eやってる?」
そういえば美雨が静かだなと思って見ると、なぜか号泣していた。「あなたたち、もしかして…………善良? それぞれの実家に1000万円ずつ振り込みたい」などと呟いている。
「実家がない場合はどこに振り込んでくれるんですか?」
「僕も同じく」
「えっ、闇?」
そんな風にはしゃいでいると、章が「さて」と軽く膝を叩いた。
「皆さんはお母さんに言われてこちらへ?」
「あー、違うんすよ。柊先生を探していてですね」
「柊先生……は、お見かけしていませんが。何かお困り事ですか?」
ノゾムは章に、これまでの経緯を簡単に説明する。といっても、ノゾムの腕が取れたので縫合してほしいというだけの話なのだが。
章は「なるほど」と少し考えて、裁縫箱を出してくれた。
「裁縫、するんすか」
「しません。この奇病にかかって仮面に興味がわき、作ってみようかと思ったのですが」
「メンタルつよつよだなぁ」
「大して面白くなかったのでやめました。ほとんど新品ですよ。本日のお礼に差し上げます」
ついにアイテムを手に入れた。ゲーム性が高い。
「でも、オレらの中に縫い物できる人が……」
「ママできるよ」
「濡れてもよければ……」
「濡れるのはちょっと」
くすくす笑った章が「いい方をご紹介しますよ」と言い出した。「この部屋を出て、奥の突き当たりの部屋に最近入った方なんですが」と穏やかに告げる。
「? どんな方なんですか。デザイナー関係とか」
「いえ。何でもできる方です」
「は?」
「何でも、できちゃう方なんです。主に何、というわけでなく」
そんなチートが存在していいんですか、とノゾムは腕を組んだ。全く人物像が掴めない。とりあえず行ってみることにする。
「じゃあ、すみません。裁縫箱ありがとうございます、大事に使いますね」
「いえいえ。あと母のことも連れていってください。これ以上奇病を重ねられると困るので」
「あっ、はい」
美雨を引きずって外に出る。美雨は最後まで「章ぁぁ、また来ますわねぇぇ」と叫んでいた。
教えてもらった部屋の前で、ノゾムたちはひとまず話し合いをする。
「本当に入っていいんすかね……全然どんな人かわかんないんすけど」
「いいか悪いかと言うと、決してよくはないと思うけれど」
「それ聞いたの2回目っすね」
「うちの章が変なやつを紹介するわけがありませんわ。大丈夫ですわよ」
「いや、でもどんな奇病で隔離されてるかわかんないですし」
「危なかったらぶっ飛ばしますのでそれでよろしくて?」
「いいか悪いかというと」
「決してよくはないですねえ……」
そんなことを言っている間に美雨は鍵を開けている。ユメノなどはわくわくしてスタンバイしていた。ドアを開け、飛び込んだユメノが「危ない人ですかー!?」と叫ぶ。
何てことはない。そこにいたのは、ベッドに寝転がって本を読む成人男性だった。麗美が小さく「あっ」と呟く。
男性は、こちらをぎょっとした様子で見て「あ、危ない人だが???」と答える。
「えー、全然危なそうに見えないじゃん。ウケんね」
「ウケねえが??? ここのセキュリティはガバか???」
「ガバなんだよなぁ、透明人間がいる限りは……」
言及された麗美が嫌そうな顔で手を横に振った。
渋い顔をした男性が起き上がり、本を横に置く。それからスタスタと歩いて来て、ノゾムたちを強引に押し出そうとした。
「あっ、ちょっ。待ってください」
「何よぉ、この男。強引じゃないの。話ぐらい聞いたらどうなのよ」
そんなやり取りを尻目に、実結が男の股の間をすり抜けて部屋に入る。それを追いかけてユウキも入っていった。「おいこらガキども」と男が眉を吊り上げる。
ねえ、とユメノが言いながら男の手に触れた。
「あったかいね……熱があるの?」
瞬間、男はユメノの手を振り払う。
「ごめん……。調子が悪い? そうだったら……また元気な時に来るね」
「…………。いや、いい」
ため息をつき、男はドアに身を寄せて「入れよ」と促した。
中に入って、カツトシが「何ここ! マンションの部屋ぐらい大きいじゃない!」と憤慨する。
「こんなの不公平じゃない?」
「……課金だ」
「課金システムあるんすか、この療養所」
それから男は、奥の方まで行ってしまった実結とユウキを両脇に抱えてベッドの上に座らせた。「お前らも座れ。飲み物はコーヒーでいいか?」と聞いてくる。
てきぱきとコーヒーを用意し、男は言った。
「で、何の用だ?」
「大して期待してないんですけど、オレの腕を縫い付けてくれませんか?」
「いいぞ」
「うっそでしょマジすか」
男は当然のように「こっちに来てみろ」とノゾムを呼んだ。ノゾムは恐る恐る、取れてしまった腕を差し出す。
「服飾の仕事を手伝ったことがある」
「意外過ぎて声が出ねえ」
「出てるぞ、声」
章から貰った裁縫箱を渡すと、男は何も言わず針に糸を通した。「終わったら帰れよ」と言いながらノゾムをベッドに寝かせる。
「あの……」
「何だ」
「なんか、その……ありがとう、ございます」
男はふっと笑って、「もう勝手に部屋のドアを開けるなよ」と言った。「それはほんとにすみませんでした」と謝っておく。
「アキラくんが、おじさんは何でもできるって言ってました。本当ですか?」
「ああ、章か。あいつがねぇ……。そうだな。俺にできないことなど何もないよ」
「大きく出たわね」
男はそれ以上は語らなかった。ただ黙ってノゾムの腕を縫い付けている。
「つうか、この部屋暑くない? この季節なのにクーラーつけてないの? 見てみ、ミユちゃんのママが全然入ってこれないでいるから」
「悪いな、肌寒いぐらいなんだ」
都がドアの隙間から手を振っていた。「あまり暑いところに行くとちょっとずつ蒸発してしまうから。私のことは気にしないで」と笑っている。「だけれど彼は大丈夫かしら、本当に熱があるみたい」と都は指摘した。男はそれには答えず、縫い付けているノゾムの腕を少し引っ張る。「強度はこれくらいでどうだ」と言うので、ノゾムは「十分っす」と答えた。
「こんなもんか。俺の腕もなかなかだな」
「いやほんと……プロレベルだと思いますよ……」
さて、と言いながら男は立ち上がって玄関のドアを開ける。
「出ていけ」
一斉にブーイングが起こった。ため息をつきながら男は、外にいる都に「あんた保護者か? 頼むから連れて帰ってくれ」と訴える。都は苦笑しながら「みんな、帰りましょう。ご迷惑になってはいけないわ」と呼びかけた。
ふと美雨が「あなた、」と口を開く。
「少々言動が極端でなくて? 何か理由があるのでしょう?」
「……やっぱり、体調が悪いの?」とユメノが心配そうな顔をした。
男は一瞬表情を失くし、それから目を細めた。腕を組み、じっと美雨の顔を睨む。
「俺は、高熱発火病だ」
美雨が目を丸くした。その隣で麗美が「高熱……発火病……」と呟く。そうして呆然とした顔のまま透けていき、すっかり見えなくなってしまう。慌てた美雨が「麗美さんっ」と呼びかけるが、返事はない。もう部屋を出て行ってしまったのかもしれなかった。
「高熱発火病というのは、体温がどんどん上がって……」
「1ヶ月ぐらいで死ぬやつでしょ」
「時々発火する」
しんと静まり返る。そんな中、なぜか美雨だけが噴き出した。
「うふふ……ごめんなさい、続けて」
「いや何笑ってんすか」
「本当にごめんなさい。麗美さんには申し訳ないけど、自分より儚いものを見ると楽しくなってきて」
「ぶっちゃけ僕もそう」
「お前らイイ性格してんな。何より俺に申し訳なく思えよ」
「死ぬやつに申し訳ないなんて思ったって無駄なんですわよ、どうせ死ぬんだから」
「お前の死期を早めてやろうか」
美雨と男が煽り合いを始める。『この人たちよく会って数分でそんなに仲悪くなれるなぁ』とノゾムは思った。
「でも、何というか……余命1ヶ月の割にはお元気そうっすね」
「余命1ヶ月らしく調子の悪さを見せつけたらお前らは帰ってくれるのか?」
「調子、悪いんすか……」
「当たり前だろうが。こっちは熱が40度超えてんだよ。だるくて仕方ない」
深いため息をつきながら、「まあその程度だから部屋に入れたんだけどな。今この段階で発火する可能性は低い」と男は言った。
「というわけでお前たちは帰れ。そして二度と来るな。最悪、この部屋で俺と心中することになるぞ」
むーっとユメノが難しい顔をする。それから男を指さして、「じゃあ今のうちに遊ばなきゃ」と言い出した。
「? 何だ、この小娘は。何を言っているんだ」
「小娘じゃありませんよ、ユメノちゃんです。ぼくのお姉ちゃんです」
「いや、そんなことは聞いていないんだが」
だからさぁ、とユメノは小首をかしげる。「間に合ううちにたくさん遊んだり話したりしよ。あたし、おじさんのこと結構好きだよ」と真っ直ぐに言った。男は言葉を失くした様子で、瞬きをしている。
ようやく口を開いた男が、「いや」と呟いた。「俺にそんな暇はない」ときっぱり告げる。
「見ろ、この……積まれた本を。DVDとゲームもあるぞ」
「うっわ。何でそんなに買ったんすか」
「お前ら、いきなり1ヶ月の休暇を与えられたらどうする? 俺の答えはこれだ」
「笑う」
「冷静に考えれば、あと1ヶ月しかねえんだよな」
「笑えない」
「美雨様はゲラゲラ笑ってますけどね」
「あの鳥女は俺に何か恨みでもあるのか?」
ゲームのソフトを手に取りながら「これ新作じゃないすか。いいなぁ、欲しかったんすよ。つうかよく買えましたね」とノゾムは興奮した。「俺がクリアしたら貸してやるよ」と男が目を細める。
「というわけだ。俺はこれを全て1ヶ月で消化しなけばならないのでお前たちと遊んでいる暇はない」
またブーイングが起こる。部屋の外から都が「あんまり無理を言ってはダメよ、みんな」と声が飛んだ。「でも、でも」と言いながら実結がテーブルに乗って男と目線を合わせた。
「ミユ、なかよくなりたい。おなまえ、おしえて」
「君……やたらとキラキラした粉を撒くなぁ……部屋がキラキラしてきた」
「こら、実結! こっちに来なさい!」
「いや、いい。でも動かずに座っていてくれると嬉しいな。ひとまずテーブルからは降りてくれ。おいで」
男は実結を膝に乗せる。「あったかいね」と実結が言った。「ああ、今は夏だったか。悪いな」と男はすぐに実結を隣に座らせる。
「で、あんたの名前は?」
「お前たちとはもう二度と会わないので教えない」
「さっきオレにゲーム貸してくれるって言いましたよ」
「…………タイラだ。平和一。満足か?」
たいら、と呟いて実結が目を輝かせた。「タイラ! ミユ、またあそびにくるね」と嬉しそうにする。タイラは部屋の外にいる都に「おーい、察するに君の娘なんだろ。よく言って聞かせてくれ」と叫んだ。都は苦笑しながら「ごめんなさい、この療養所から出られないものだから……優しい人を見つけるとすぐ仲良くなりたがって」と肩をすくめる。
「まあまあ」とユメノがいきなりタイラの膝に乗った。「いいじゃん、来ても。全然発火なんかしないかもよ?」と顔を見上げる。
「だから……俺にはお前らと遊んでやってる時間はないんだと……」
「でも、寂しそうだよ」
言葉に詰まった様子のタイラは目を見開いた。「な……に……?」と呟く。ユメノは何てことないように「まあまあ元気出しなよ、あたしらがついてる」と鼻歌交じりに言った。
「そうだ、あたしのこと食べてみ。美味しいぞぉ」
力の抜けた顔で、タイラはユメノを見る。ユメノはにこーっと笑ってみせた。
そうしてタイラは、ユメノの耳をかじる。その場にいる全員が『あっ』と声を上げた。
「た……食べたわね!? ユメノちゃんのこと食べたわね、あんた!!?」
「なんてことするんですか! ぼくの非常食ですよ!!」
「えっ、お姉さんのこと非常食だと思ってたんすか??? それはそれで衝撃なんですけど???」
仏頂面でもぐもぐ咀嚼しているタイラに、「美味しいっしょ!?」とユメノが興奮して尋ねる。タイラは顎に手を当て、「いや……」と瞬きをした。
「甘いもんは苦手なんだよな」
少し欠けた耳のユメノが、呆気に取られて口を開ける。次の瞬間には「お前嫌い!」と言いながら立ち上がっていた。
「もう二度と来ない!」
「ああ、二度と来るな」
部屋を出て行ったユメノを追いかけて、ユウキとカツトシが出る。実結も都に抱えられて出て行った。ノゾムは部屋を出る前に振り返る。
「あの……」
「何だ」
「その……ありがとうございました、先輩」
「せん、ぱい?」
「一応、敬意をこめてというか。ダメっすか?」
いや、とタイラは虚を突かれたような顔をする。それから目を細めて「光栄だ」とだけ言った。ノゾムは会釈をして部屋を出る。
最後に残った美雨が、タイラをじろじろ見た。
「あなた、“二度と来るな”と言う割にはこの短時間でほだされすぎでは?」
「そんなこと、俺が一番思ってるよ」
短く息を吐いたタイラは「そうだ、お前のツレいたろ。透明人間の。あの女は大丈夫か?」と尋ねる。ハッとした美雨が「忘れていましたわ、麗美さん。慰めに行かなくては」とぶつぶつ言った。
「俺のせいで気を悪くしたようなら……謝っておいてくれ」
「そういうところでしてよ」
「? どういうことだ」
「彼ら、来るなと言っても来ますわよ。明日にでも、また。私はもう来ませんけどね」
「……騒がしい1ヶ月になりそうだな」
「グロテスクなほどに、甘い男ですこと」
美雨は腕を組んで、「あまり章に近づかないでくださいね。発火に巻き込まれてはかないませんので」と吐き捨てる。そのまま部屋を出て行った。
部屋の真ん中でタイラは、頭をかく。先ほどまで読んでいた本を、まだ手をつけていない本の塔に積み上げた。そうして一人、ベッドに座る。
「……寒い」
そういえば。
タイラは忘れていたが、部屋というものは人が集まるほど暖かくなるのだった。人の体温とはそれくらいの力がある。そんなことを思い出した。思い出してしまった。
横になって、目をつむる。部屋が冷えていくような気がした。そんなはずはない。夏の初め、蝉の声が聞こえ始めるころだ。
ただ熱に浮かされた頭で、『冬に発症したのでなくて本当に良かった』と考える。そうだ、自分が冬を迎えることはもうないのだ。それだけが、それだけで、タイラはひどく安心して眠った。
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