飼い猫-2-

 私は過去を知らぬ。それはすなわち、私自身を知らぬということである。私は、私と一緒にこの狭い世界で暮らしている人間の帰りを待ちながら、人間と初めて出会った時のことを思い出そうと家の中を時折立ち止まりながらぐるぐると回るが、一向に過去のことを思い出せそうになかった。


 果たして、私はここでどれほどの時間を過ごしたのだろう。透明な壁越しに広がる世界が真っ白に染まる季節を四、五回ほど過ごしたような気がする。季節の名は冬であった。しかし、世界を白に染め上げるものの正体の名は思い出せそうにない。


 私は、冬が好きだ。なぜなら、私は温もりが好きだからである。冬の寒さは、空から差し込む日差しの温もりを際立たせ、また、冬になると人間の寝床に心地の良い布団が敷かれる。私は、その布団の上で眠ることと、人間と一緒にその布団の中に入るのが好きであった。


 私は過去を知らぬが、好ましいことなら知っている。であるなら、好ましいことを一つずつ上げ、出来る事からやっていこう。そのうちに人間も帰って来るであろう。


 私は日差しが好きだ。であるから、まず日差しが差し込むいつもの窓際へ行き丸くなる。空は青かった。今日もいい天気である。鳥が数羽、空を泳ぐ。それを私は目で追うことしか出来ぬ。雲が流れている。どうして雲は流れるのだろう。同様に、何故鳥が空を飛ぶことが出来るのか知らない。私は無知である。私は何も知らぬ。


 ニャーと鳴いてみせたが、今は家に人間はいないため、誰も返事はしてくれない。私は日差しの温もりから離れ、腹を満たすために飯を食べ、それから爪を研いで、心地の良い眠気がゆるりと私を包み込むものだから、人間の匂いを求めて布団へ行き、その上で丸くなった。


 飯を食べることは好きだ。爪を研ぐと落ち着く。人間の匂いを嗅ぐと安心する。どれも、私の内側が満たされるような気がする。満たされて、眠りにつくことが心地いい。


 この心地よさを満たすためだけに生きていればいいのなら、これほど幸福なことは

無いのだろう。ただ、それだけではならないのだと、私の中にいる誰かが言うのだ。


 星が見えた。星にも名前があると言う。星も季節を巡るのだと言う。私がある日星を眺めていたら、人間がそんな事を言っていた。しかし、覚えているのはそんな話を聞いたという程度であって、実際にどんな事を話してもらったのかはやはり思い出せぬ。冬に輝く星の名を、夏に輝く星の名を、あの夜空の中で最も美しく輝く星の名を、私は忘れてしまった。


「あの星の名前は何と言うのかしら?」と、鳴いてみせても人間には通じない。「あの、一際大きく丸く輝く星を何と言うのかしら?」と鳴いてみせても人間には通じない。私の言葉は、人間には届かない。そのことが、私は悲しい。私がたとえ「あなたのことを愛している」と鳴いたところで、その愛は届かないのだ。私は、人間に擦りつくことしか愛を伝える術を持っていない。出来る事なら、言葉で愛や思いを伝えたい。なのに、どうしてそれが叶わないのだろうか。言葉の壁は、心にも壁を築くのだ。


 私は、あなたと言葉を交わしたい。私があなたに対して何を思っているのかを、ふさわしい言葉であなたに伝えたい。言葉を考える時間は余るほどあった。あなたに伝えたい言葉は、私には沢山ある。思えば私は私以外のものと言葉を交わしたことがなかった。私は、常に私としか話をしたことがない。私の言葉は、常に私にしか向いていない。誰とも分かり合えていないのだ。


 誰かと言葉を交わしたい。そんな思いが沸々と湧き上がる。人間の匂いに包まれながら、この静寂とした穏やかな時の裏で、そんな強い願望が声を上げたのだ。


 もし、この微睡みから覚めてもそんな強い願望の声を聞いたのなら、私は一つ、その思いのままに声を上げようと、そう思った。

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