飼い猫と野良猫

青空奏佑

飼い猫-1-

 腹の上に広がる温もりが、窓から差し込む陽の光であるかと思って顔を上げた所、何やら人間が私の腹の上に手を置いている様で、私がニャーと鳴いてみせると、人間はわずかな微笑みを溢すのだった。それから人間は「トト、ご飯食べる?」とゆっくり私の腹を撫でるもので、少しばかりむず痒いものであるから、起き上がって体を伸ばすと、「分かったわ、じゃあ、少し待っていてね」と人間はどこかへ行った。


 陽が作る丸く暖かな椅子に収まるように座り、それから外の様子を眺めると、数羽の鳥が雲一つない空を駆け抜けて行く様子が見えた。


 私は、私が分からぬ。気が付けば、私はこの狭い世界にあの人間と二人で暮らしていて、人間は私のことをトトと呼ぶ。私は人間にそう名乗った覚えはない。そもそも、私は私の名を知らぬほど、私自身に無知であった。


 果たして私はどこから来たのだろうか。毎日寝て、食べて、起きて、人間の話を聞いて、人間とじゃれ合って、いつからかそれも悪くはないと思うようにはなったけれど、こういうふとした時、例えば眠りから目を覚ました時や、人間がどこかへ出かけ一人この狭い世界に居る時なんかに、言い難い心地になる。その心持を落ち着かせるために爪をといだりしてみるが、一向に晴れることはなく、毎度このお気に入りの窓際で、ただひたすらに外の様子を眺めるのだ。


 どこから来て、どこへ行くのか。私はどうしてここにいるのか。空を飛ぶあの鳥を捕まえようと飛び跳ねたが、いつものように、目に見えぬ壁に遮られ、私は悠々と広がるこの狭い世界の外には行けぬ。


 きっと、私はこの狭い部屋の外に憧れを抱いている。


 この足で、地を掴み風になりたい。人間と一緒にこの場で糸の緩んだ日々を送るのも悪くはないと思うが、どうしたって時折そんな衝動に駆られる。


 生憎覚えの悪い私であるから、一度寝てしまえばそうした衝動に突き動かされそうになったことすら忘れてしまう。きっと、私はこの穏やかな傾斜の上で、緩やかに底の見えぬぼんやりとした温もりを目指し下っているのだろう。


 下った先に何があるのかも、どこから下りて来たのかも分からぬ。昔のことも分からぬ。何も、思い出せぬ。ただ確かなことは、私はあの人間に愛されているということだろう。その愛の裏に、何か私は重大なことを忘れているような気がするが、与えられる愛がそれすらも飲み込み、私をこの輪郭がぼやけたような日常に留まらせている。


 愛されることは、良い。私も、気が向いたらその愛に答えよう。しかし、私が私のことを知らぬと言うのは、何よりも重大な欠陥であるような気がしてならない。


 私は、どうして今こうして呼吸をし、生きているのか分からぬ。それはちょうど、意識せずに心臓が鼓動するのに似ている。心臓が動いていることを意識しなければならないのに、意識せずとも生きていられることは、何とも不思議なことであるような気がする。まるで私はそこにいないようではないか。私ではなく、何かが生きているようではないか。


 それではならぬ。私が、生きているのである。私は、私が生きていることを実感したい。その第一歩として、私は私を知らなければならない。


「トト、ご飯だよ」


 ニャーと鳴いて、私が好きなご飯が皿に盛られ、おまけに人間は私がちょうど撫でてほしいと思っていた顎下を撫でる。


 一つ、私はその心地よさが好きであった。

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