君を奏でる
夕目 紅(ゆうめ こう)
1.ほのかの旋律1
校舎を出てすぐ、セミの声を聞いた。高校生活において、二度目の夏だった。二度目という言葉を彼女の為に使えるのは、その時世界で僕だけだったように思う。
蒸し暑い空気が漂う中、僕らはゆっくりと夜道を歩いていた。線路沿いに伸びる通学路は車の通りも激しく無く、電車が通り過ぎる時以外はおおむね静かだ。基本的に僕らより遅くまで学校に残る生徒はいない為、人影も見当たらない。ただ静寂が横たわっていて、僕らはそこにかつかつという足音を立て、駅に向かってゆっくりと歩いていた。
「ねえ、ユタカ」
駅までの道を半分程進んだ辺りだろうか。不意に彼女が僕の名前を呼んだ。
会話はいつも彼女から始まり、僕か彼女のどちらかで終わる。だから彼女の少し高く硬い声が僕の名前を柔らかく発音するとき、僕らの間に言葉が生まれる。
「何?」
「ヴァイオリン、もうすぐ演奏会ね。ユタカも出るんでしょう?」
真っ黒な空だ。星も月もなく、同じ色がどこまでも続いている。空を売って光を得た僕らの街に、自然の光が届くことは、もうほとんど無い。
僕はそんな空を見上げるのに飽きて、視線を彼女へと送った。街灯の横を通り過ぎる瞬間、少しの間だけれども、彼女のやや無表情な横顔がふっと照らされる。長く少しカールしている長髪と、暑さからか少し火照った彼女の頬が映し出される。光の色を吸収して髪は赤茶色に染まり、その隙間から細い首筋を描く。
寺内ほのか。彼女の名前だ。
彼女は足元に広がるコンクリートの上を、まるで踊るように軽々とステップを踏みながら歩いていた。彼女が言うには、コンクリートに染み付いている汚れを避けて歩いているらしい。子供の頃からそういう癖があるそうで、だから彼女は歩く時、いつも少し俯いている。
「いちおうにね。出るだけ出て、まあ普通だなって評価もらって、賞もらうやつに拍手して帰るのさ」
僕は少し大げさなリアクションで肩を竦め、苦笑を零した。ほのかはとんとんと地を蹴りながら、無表情で答えた。
「きっと私もそうよ。後ろ指さされながら演奏して、やっぱり平凡な子ねなんて言われて、ゆっくり歩いて帰るの。そそくさと帰ると、逃げてるみたいだから」
「でも君はゆっくり歩いてても不機嫌だ。他人の言葉なんてどうでもいいってよく言ってるのに」
「どうでもいいのよ、本当に。ただ、ゆっくり歩こうと思った時点で、結局逃げてるみたいじゃない? だから自分で自分に腹が立つの。素直に歩き出せれば、それでいいのにって」
簡素な建物の群れを通り過ぎると、道は公園に差し掛かる。細い木々に囲まれた小さな公園で、ブランコがひとつあるだけだ。平たい土だけの場所が多くを占めている。
彼女はその道を僕よりも先へと出て、勢いよく両足を叩きつけるようにして開き、それからゆっくりと振り向いてにこっと笑った。
「ゴールっと」
「公園、寄ってくか?」
「ううん、今日はいいの。演奏会の為に、練習しておきたいから」
そう言って彼女はとんとんと、手に持っているケースを叩いた。伏し目でケースを見つめる彼女の茶色い瞳には溢れそうな優しさが込められており、僕はそんな彼女の様子が好きだった。
美しき音色を奏でるヴァイオリン。音楽室で僕らは毎日、それを弾いている。
彼女は物心ついた頃からヴァイオリンを弾いていたらしい。その頃からかかさずほぼ毎日練習をしてきたというのだから、凄いことだ。
彼女とは中学からの付き合いで、出会ってから今までずっと、僕は彼女を毎日見ていた。一日も欠かさず何時間もヴァイオリンを弾いている彼女の姿は瞼に焼きつき、セーラー服からブレザーに変わった今も、それは変わらずに僕の中にある。
「後一週間……きっとあっという間ね」
ほのかの呟きに僕は頷いた。
「でも後一週間だからってどうってことないだろ。後一週間じゃなくても、後一ヶ月でも、後半年でも、君はずっと練習してるんだから、さ」
「うん、そうね」
彼女は少し苦しげに、胸のリボンの辺りをぎゅっと掴んだ。何かに対して不安を抱く時、彼女はいつもそうする。そうして服に皺を作って、とれなかった、なんて笑う。
でも僕には分かっていた。そんな仕草を見せるからこそ、彼女は真剣なのだ。本気で、コンクールに挑もうとしている。さっきの発言だって照れ隠しでしか無くて、本当はコンサート終了後の道を堂々と歩いて帰りたいに違いない。
「じゃあ、ここで」
「あぁ」
道を曲がり、そのまま公園に沿って行くと、彼女の家がある。僕はこのまま真っ直ぐ道を行き、電車に乗って三つほど向こうの駅まで行く。
「またね、ユタカ」
「またな、寺内」
彼女は手を小さく振って、それからまたステップを踏みながら歩き始めた。暗がりの中、ふらふらと揺らめくほのかの姿が、最初はやけに不安定に見えたものだ。今でも少し、危なっかしさを感じる。車に轢かれやしないかとか、電柱にぶつからないだろうかとか、そんなことを、彼女の背を見つめながらぼんやりと考える。
そしてそれ以上に、彼女の中にある何かがいつも揺らめいているのが、僕には心配だった。
……いつも、そうだ。
いつも彼女の中の何かは揺れている。風にさらわれそうな灯火と同じで、ふっと掻き消えてしまいそうなところでまた元の形や位置を取り戻す。一日にそれが何度もあり、彼女はたまに物憂げな顔で教室の窓から世界を見つめている。
中学の頃は、彼女の周りに人が多かったから、そんなこともあまり無かった。彼女がそうしたいと望んでいても、そう出来るだけの余裕を周りがくれなかった。
でも、今では逆だ。誰も彼女の側には寄ろうとしない。避けるようにして周囲には人が各々のグループを形成しており、彼女はいつも窓の外をぼんやりと眺めている。
「天才、か……」
彼女がそう呼ばれなくなってから、どれぐらいの月日が流れただろう。遠く消えていった彼女の姿のように、今はもう誰もがその事実を忘れてしまったに違いないと、僕の中にある二年という歳月が告げていた。
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