第39話
ジノヴィオスからじきじきにミモザ懐妊の報せを聞いたのは、
「俺も驚いたぜ。めったにねえって聞いてたのに、当たるときゃものの一発なんだもんなあ。こっそり入れ替わってのお楽しみだ、笑い話で済まない不義に、笑い事でない奇跡が起きちまった。お互い不本意のことだし、一緒になっても不幸やもと、昨日はよっぽど話し合ったよ」
困ったような嬉しいような、似合わずもはにかんだ表情でジノヴィオスは言い、傍らのミモザの頭を撫でていた。意外なことに、彼女のほうも突然の幸せに戸惑う乙女の顔である。
「あの晩はひどいことをして、あわせる顔のない自分だが……祝福していいものなのか?」
恨まれるどころか刺されて当然の後ろ暗い所業を犯した自分だが、その行いは皮肉にも天使の祝福を呼び、ふたりを晴れの舞台に引き上げてしまったのである。屈託のないミモザの笑顔に見上げられると、罪悪感の持っていき場もなく、困り果ててしまうユッタであった。
「今は、ユッタに感謝してるの。いつまでもじいには甘えていられない。もしこの夫への愛慕が、私窩子に無条件なはしたない気持ちであったとしても、それを信じてやっていくしかないのだと、お腹の子に教えてもらった気がするの。あの夜も、つらいことを先に押しつけたのはきっと私のほう。だから、なにも気に病むことなんてないの。ありがとう、ユッタ」
急に大人びたようなミモザに、ふと師の一件を思い出すが、天に召された彼にとっても後腐れのないことだと、ユッタは思い直すしかなかった。ユッタの傍らで、
「本当に喜ばしいことです、凍境へ召される方が立て続けに。天使の思し召しですね」
「命からがら
「そうですねえ。異例ですが、
「なによそれ、神官様のお慈悲ってわけ、気取っちゃって。許してもらうつもりもないわよ。いずれにせよ、あたしはひとりで大陸へ帰らせていただきますからね」
「大陸への長距離航行が可能な船は、今の火之本には一隻もありませんよ。天使様の御下に参るための聖なる船は、私たち専用の一隻のみで十分なのです。それの破壊を覚悟させたお恨みもありますが、作り直せば別に……。火之本の民はそう細かい咎めを言ったり、せかせかするつもりもないのです。ただ、
絶句するリンをよそに、萵苣はその脇に腕を回してぶら下げた少女を忌々しげに
「あんだよ、文句あんのー。彼、ユッタくんが天使に目覚めたのは、僕の啓示のおかげだよ」
「彼の特別な信仰心がなければ死んでいました。その結果はどうあれ、あなたは存在自体が秘匿されるべきなのですよ。創造主の馬鹿な正体が国民の信仰に及ぼす悪影響を考えなさい」
「僕は君たちと違って、人と神の共存を本当に真摯に考えてるの。ねー、ユッタくん」
両脇から宙ぶらりんにされた錯誤神に問われても、どう返したものかユッタはわからない。
「そうよ、このちびが創造主ってのもどういうことなの。
「勝手に憤死すればあ。旧世界と似たような文明人の君らは、退屈すぎて相手したくないね」
「幼くしてご立派な電波野郎ね。君も変なことされたんでしょ、何か言ってやったらどうなの」
故郷への帰り船を失い、急変した事態からも置いていかれ、怒りの矛先をどこに向けていいのか分からないらしいリンである。ユッタも妙な大団円じみた雰囲気についていけないのは同じで、今のうちに実際のことを彼女に相談しておきたいところでもあった。
「そのことはいずれ説明し直すよ、リン。なんにせよ、君以外はみなそれぞれの事情で凍境に帰り、凍境に迎え入れられるらしい。どうしたいかは君次第だが、小生にちょっとした無茶をさせたことも多少汲んだうえで、これからのことを考えてみてくれないか」
まともに向かい合ったユッタに頼まれ、新調の
「な、なによ。感謝してないわけがないでしょう。けれど、あなたは意志に関わらず凍境に引きこもらざるをえない。一緒にやっていきたいのは山々だけど、許されないのではなくて。あたしは見逃してもらえるというなら、船が新造されるまで僧兵でもやってぶらぶらするつもり」
「あらあら、おとぼけをおっしゃって。直ったところで聖なる船に異教徒を乗せるつもりはありませんよ。造船術を身につけるよい機会ではありませんか。信仰がなければ手に職、です」
「この後進国の宗教きちがいは本気でこういうことを言っているわけなの?」
「勝手に潜り込んだ間諜に無責任とは言わせませんよ。あなたは危険因子には違いありませんが、その身柄に価値もない。獄死させるのもこちらの夢見が悪いですし、いっそ帰化したらどうかと言っているのです。それに、義理のお兄さんやそちらの悪く思っていないお相手と一緒に、凍境へ入る方法もないわけではないのですから」
意外な萵苣の一言に、しかめっ面のリンとその義兄も、驚きをあらわにするほかなかった。
「リン、ならそれが一番いいだろ。長くやってきて、兄ちゃんと呼んでくれた仲だものな」
「薬物漬けのくそ兄貴としか呼んだ覚えはないけれど、そうね。異国によすがも作ってこなかった身の上に、無難な道ではあるでしょうね。けれど、その、悪く思っていない相手とは何よ」
ちらちらとユッタを見やるリンに、萵苣はくすくすと、珍しく笑みを深めた。
「そんな格好をしておきながら、初々しいことですね。あなたにこの提案をするのは、まだちょっと早いかしら。というのはつまり、わが国の根本教義のひとつである婚姻の秘蹟、
言われた意味がとっさに分からず、リンとユッタはまじまじと顔を見交わしてしまった。先に上気しはじめたのはリンのほうで、信じられない、と呟くと更に真っ赤になった。
「あ、あたしが、この、この、これとけけけ結婚するですって」
ふだんは毅然としたリンが参ってしまったのを見、一同はここぞと囃し立てはじめた。
「兄ちゃんは大賛成だぞ。坊主なら浮気もなかろうし、安心して可愛い
「おめでとうございますなの。おにいさまも幸せになってくれて、うれしいの」
「えーっ、ユッタくんには神様に操を立て続けてほしかったのに。まあ、僕の熱いべーぜの味を忘れられるわけないか。いつでも創造神を
「ふふ、本当に吉事続きですね。神官一同、凍境中をあげてお祝いさせていただきます」
「ま、待ってくれ。小生のことはともあれ、彼女の意志は尊重したいところだろう」
勝手に話を進められ、さぞ機嫌を損ねたであろうと、おそるおそる傍らのリンを振り返ると、彼女は放心したようにユッタを見つめていた。目が合えば視線を落とし、依然として赤い顔を手で押さえながら、おずおずといったふうに訊ねてきた。
「ともあれ、じゃないでしょう。あなたはどうなのよ。いや、なの……」
いざとなると、いっそう沸く野次馬の目も気にしていられないようである。もろもろを考えてここで断れるはずもないが、ユッタにもまたもろもろの事情があった。その事情は複雑を極め、今すぐ自分にはっきりした答えを出せることでもない。それを二の次にしても、この場はまちがいなく腹を決めるべきであった。おいおい歪みが生じても、悩むのが自分だけならばなんとでもなる。とはいえ、しおらしくなったリンを前にうまく言葉が出なかった。しかたなく、ユッタはリンを胸に抱いてその意を示した。
やけに多く歓声と拍手が聞こえた。
「……その、よろしくね。これからも」
そっと呟くリンの、細くも柔らかな躰とその鼓動、熱っぽい息遣いを胸に感じながら、ユッタはほとんど無表情に晴れた空をぼんやりと見上げていた。
考えるべきことが、山のようにあったのである。
(どういうふうに説明するか、いつになってから相談するか、それが問題なのだろうな。頭のなかの少女たちのほうがよほど美しく、暖かく、魅惑的で清楚で淫らで愛おしいと思ってしまう、天使となってしまった自分の異性に対する認識について……)
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