第34話

 師の処刑から、一夜が経っていた。ユッタは異端という言葉の意味に、考えをめぐらせずにはいられなかった。誰もいないことを確認し、ユッタは再度、師の房に足を踏み入れた。

(異端とは、正統の教義と同じものに立脚していながら、そこに個人的な救済の道程を見出し、他者を顧みずそれを選び取るということだ。聖書の教えを恣意的に解釈しているのは神官も同じだが、一人ひとりの祈りは教会において統一されなければならない。それは単に多勢にくみすることではなく、祈りの本質が他者との関係にあるということの自覚なのだ……)

 教会の教えと師の教え、どちらにも正当性は認められ、そのどちらが悪しとも言えぬはずだが、神官の凍った笑みに立ち尽くす師のちっぽけな背中は、脳裏から離れなかった。

 論文に関連のあるものがないか、房の隅々まで師の遺品を探るうち、昨夜のことが思い返されるユッタであった。リンに張られた頬の痛みが蘇るのを無視できなかったが、自分は間違っていなかったと開き直らなければ、ベッドから起き上がることもままならなかったのだ。

(天使学の文献も、古文書のひとつもない。聖書だけだ。最後には聖書からの霊感にのみ着想を負ったのだろうか……)

 何気なく開けた抽斗に、パピルスの束が見つかった。その書き込みにくまなく目を通してみたが、思いつきをぱっと書きとめておいたらしいメモや書き損じばかりで、要領を得なかった。

 ふと、一枚のパピルスに目が留まった。天使学とともに師が究めた、霊炎アイテール論についてのまとまった記述である。

独り子アウトゲネスがこれにて大気を構成されたという燐光ハルモゼル因果光オロイアエル水晶光ダヴェイタイ言語光エレレイトの霊的四光気であるが、どれほど激しく霊炎アイテールを燃やしてこれら四光しこうの力を引き出せど、異形ネフィリムはさておき無頭人エグリゴリは決して退治できまい。これははからずも、卓抜に優れた我が生徒らの死に、まざまざと目の前で証明されてしまったことである。

 本来、修道士は隠遁者でありながら術師であった。太古の修道士が四光術をもって民を救い導いたことは、伝説ではなく事実である。そして、彼らの伝記をひもとけば、無頭人エグリゴリがいかに恐ろしく手に負えない悪魔であるかは明白であった。分かっていながら、長らく発見報告のないことに気が緩み、警戒を怠った我が失態は、自責してみせることで許されるものであろうか。我はあの悪魔共と起源を一とする堕天使のひとりとして、せめてここに奴らを討ち滅ぼしうる霊炎アイテールの秘儀を書き記し、御神のお赦しを乞い願う次第である。神官の恋人である天使ではなく、ただ遥か超世界プレローマに坐す究極の一者、かの至高神こそに、である。

 我は天使光ピスティス言語光エレレイトの派生として発見した。天使の恩恵は決して過たぬものとの強い確信を理想形とする燐光ハルモゼルは、欲動パトス傾・感覚型の純粋かつ直情的な信心に現象される。因果光オロイアエルは経綸の万有因果を可能態と現実態の理論に還元せしめ、信仰にも知性の緻密な働きを要する知恵者の信心を理想とし、その術者は欲動パトス傾・理性型に分類される。欲動パトスの圏内を振り切るのは容易ではないが、思慕エンテュメシス傾・感覚型の信心には水晶光ダヴェイタイが現象し、天使との愛を物質に結晶させる。そして言語光エレレイトは、思慕エンテュメシス傾・理性型の信心に働きかけられる。有り体に実在論的確信に唯名論的諦念を拭いきれぬ、理屈馬鹿の学者肌が持つものと類されるが、この光が霊炎アイテールと反応して引き出す力とは、単に読み書きの優れたることである。読書に広がる知見が内心にほとんど魔術的であることは言うまでもなく、識字率の低い火之本においてはなおさら、これは絶対的にも相対的にも、四光を超越する天使光ピスティスへの前段に相応しい。

 天使光ピスティスと反応する霊炎アイテールは、ただ信仰のみである。欲動パトス思慕エンテュメシスの葛藤とその相克の心的運動とされる霊炎アイテール論に馴染んだ者の耳に、これは奇妙に響くやもしれぬ。だが、これは我が実験にて実証されたことである。それは全ての葛藤を相克した二元論的認識の彼方にありて、純潔であると同時に醜穢しゅうわいをも極め尽くし、曰く言い難しまでに真に透徹しきってしまった、信仰心ピスティスという以外に言い表しえない至聖しせい霊炎アイテールなのである。その権能は、天使に似て』

 パピルスの隅に達し、記述はそこで途絶えていた。続きらしきものは見当たらず、もちろん裏側に書かれているわけでもない。諦められずに房中をひっくり返したが、ついにお目当ては見つからなかった。ユッタは地団駄を踏んだが、踏んだことにも疑問を覚えた。

天使光ピスティス……天使のような権能。四光術の究極。それがなんだというのだ。霊炎論に馴染めず、師の私塾を辞めた身だろう。甘美な響きに惑わされるのもよいが、自分にはその甲斐もないではないか。無頭人エグリゴリを倒す唯一の業を身につけたとして、異形ネフィリムにすら腰を抜かす自分に何ができる。そもそも、なぜ倒す必要がある。師の弟子たちの、ひいては師自身の仇討ちになるとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい……)

 ユッタは師の房を後にした。過ぎた挫折を気に病み、いまだ劣等感に苛まれている自分がなおさら苛立たしく、廊下を歩く足は床板を踏み鳴らした。差しかかった曲がり角で何かにぶつかった感触にすら、腹立ち紛れに怒鳴り散らしてやりたいユッタであったが、目の前に尻餅をついている少女を認めると、そんな気分も引っ込んでしまった。

「いったー!」

 ユッタに跳ね飛ばされた少女は運んでいた牛乳を取り落とし、頭から被ってしまったようであった。艶のある長い髪に白い雫が流れ、顔面にも盛大にひっかかり、薄い衣服の胸元はびっしょりと濡れそぼっている。

「す、すまない。怪我は……」

「わあ、かけられちゃった。いやーん」

 からかっているのか、少女は馬鹿のような声を上げて肩を抱いた。呆然として、ユッタは自分が何に悩んでいたのかも、一瞬忘れてしまっていた。

「あ、こうしちゃいられないんだった。やばいやばい、ちょっとお兄さん足止めしといて」

 ユッタが拭くものを渡す暇もなく、とるものもとりあえず少女は手近な房に入り、扉を閉めた。慌ただしいこと、と重ねて呆れるユッタのもとに、また人が近づいてくる気配があった。廊下の角から現れたのは、出会うたび苦々しく思われる、神官の萵苣ちさであった。

「あら、あなたでしたか。昨夜の件は、あなたにはお辛いことでしたね。お察しします」

 挨拶代わりの心ない言葉であった。心の整理のつかないことを蒸し返されるのはたまらない。会釈だけで立ち去ろうとしたユッタだったが、神官はまだ何か用があるらしかった。

「あなたにお訊ねしたいことがひとつと、お伝えしたいことがひとつ。よろしいでしょうか」

「なんです」

「小さな女の子を見かけませんでしたか。長い黒髪で、ちょっと生意気な感じなのですけど」

 疑いなく、ユッタの背後の房に隠れている少女のことを言っていた。彼女は神官に追われている。少女を庇い立てする義理はないが、牛乳をかけたうえに人に引き渡すのは気が引けるし、せめて拭いてからのほうがよい。なにより、神官への反発は自分にごまかしきれなかった。

「いえ」

「そうですか。では、お伝えしたいことのほうを。今日の明け方、都市まちの近くに無頭人エグリゴリが出没したそうです。迎撃した僧兵によれば、戦いを援護していたあなたのお連れの方が無頭人エグリゴリに襲われ、その退却に伴って連れ去られてしまったとか……」

 頭を殴られたような衝撃がユッタを襲った。訊くまでもないことを訊かずにいられなかった。

「男ですか、それとも女のほうですか。果敢にも無頭人エグリゴリと戦ったというのは」

燐光ハルモゼルを操る女性だったと聞きます。何か、破廉恥な格好をしていたとも聞きますけれど、その勇気は賞賛に値しますね。ここの僧兵団にはとても無頭人エグリゴリを追撃する余裕はないようで、かといって見殺しにするのはどうかと思ったのです」

 足元がぐらつく感覚があった。リンに張られた頬の痛みは、今は引いて久しかった。その義理があるのかと自問するまでもなく、女伊達おんなだてのように男ふたりを引っ張って、危険な砂漠の旅に活路を開いたリンに対してのこと、恩義を感じていないわけがなかったのである。

異形ネフィリムを束ねる凶悪な無頭人エグリゴリは、手練の僧兵が何十人がかりでようやく五分という相手です。けしかける気はありませんが、お伝えするのが当然と思いまして。ただ、邪推でないとよいのですが、彼女が蝶波ちょうばで沈めたはずの異邦人だとしたら、私には好都合と言わざるをえませんね。殉教は推奨しませんし、ましてその意味すらない自殺行為は論外です。諸用があるため、神官団はこれ以上関知しませんが、ご連絡を申し上げた手前としましては、あなたには冷静に考えて行動することをお勧めしておきますよ」

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