第34話
師の処刑から、一夜が経っていた。ユッタは異端という言葉の意味に、考えをめぐらせずにはいられなかった。誰もいないことを確認し、ユッタは再度、師の房に足を踏み入れた。
(異端とは、正統の教義と同じものに立脚していながら、そこに個人的な救済の道程を見出し、他者を顧みずそれを選び取るということだ。聖書の教えを恣意的に解釈しているのは神官も同じだが、一人ひとりの祈りは教会において統一されなければならない。それは単に多勢に
教会の教えと師の教え、どちらにも正当性は認められ、そのどちらが悪しとも言えぬはずだが、神官の凍った笑みに立ち尽くす師のちっぽけな背中は、脳裏から離れなかった。
論文に関連のあるものがないか、房の隅々まで師の遺品を探るうち、昨夜のことが思い返されるユッタであった。リンに張られた頬の痛みが蘇るのを無視できなかったが、自分は間違っていなかったと開き直らなければ、ベッドから起き上がることもままならなかったのだ。
(天使学の文献も、古文書のひとつもない。聖書だけだ。最後には聖書からの霊感にのみ着想を負ったのだろうか……)
何気なく開けた抽斗に、パピルスの束が見つかった。その書き込みに
ふと、一枚のパピルスに目が留まった。天使学とともに師が究めた、
『
本来、修道士は隠遁者でありながら術師であった。太古の修道士が四光術をもって民を救い導いたことは、伝説ではなく事実である。そして、彼らの伝記を
我は
パピルスの隅に達し、記述はそこで途絶えていた。続きらしきものは見当たらず、もちろん裏側に書かれているわけでもない。諦められずに房中をひっくり返したが、ついにお目当ては見つからなかった。ユッタは地団駄を踏んだが、踏んだことにも疑問を覚えた。
(
ユッタは師の房を後にした。過ぎた挫折を気に病み、いまだ劣等感に苛まれている自分がなおさら苛立たしく、廊下を歩く足は床板を踏み鳴らした。差しかかった曲がり角で何かにぶつかった感触にすら、腹立ち紛れに怒鳴り散らしてやりたいユッタであったが、目の前に尻餅をついている少女を認めると、そんな気分も引っ込んでしまった。
「いったー!」
ユッタに跳ね飛ばされた少女は運んでいた牛乳を取り落とし、頭から被ってしまったようであった。艶のある長い髪に白い雫が流れ、顔面にも盛大にひっかかり、薄い衣服の胸元はびっしょりと濡れそぼっている。
「す、すまない。怪我は……」
「わあ、かけられちゃった。いやーん」
からかっているのか、少女は馬鹿のような声を上げて肩を抱いた。呆然として、ユッタは自分が何に悩んでいたのかも、一瞬忘れてしまっていた。
「あ、こうしちゃいられないんだった。やばいやばい、ちょっとお兄さん足止めしといて」
ユッタが拭くものを渡す暇もなく、とるものもとりあえず少女は手近な房に入り、扉を閉めた。慌ただしいこと、と重ねて呆れるユッタのもとに、また人が近づいてくる気配があった。廊下の角から現れたのは、出会うたび苦々しく思われる、神官の
「あら、あなたでしたか。昨夜の件は、あなたにはお辛いことでしたね。お察しします」
挨拶代わりの心ない言葉であった。心の整理のつかないことを蒸し返されるのはたまらない。会釈だけで立ち去ろうとしたユッタだったが、神官はまだ何か用があるらしかった。
「あなたにお訊ねしたいことがひとつと、お伝えしたいことがひとつ。よろしいでしょうか」
「なんです」
「小さな女の子を見かけませんでしたか。長い黒髪で、ちょっと生意気な感じなのですけど」
疑いなく、ユッタの背後の房に隠れている少女のことを言っていた。彼女は神官に追われている。少女を庇い立てする義理はないが、牛乳をかけたうえに人に引き渡すのは気が引けるし、せめて拭いてからのほうがよい。なにより、神官への反発は自分にごまかしきれなかった。
「いえ」
「そうですか。では、お伝えしたいことのほうを。今日の明け方、
頭を殴られたような衝撃がユッタを襲った。訊くまでもないことを訊かずにいられなかった。
「男ですか、それとも女のほうですか。果敢にも
「
足元がぐらつく感覚があった。リンに張られた頬の痛みは、今は引いて久しかった。その義理があるのかと自問するまでもなく、
「
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