第37話 舞踏会場の大火災②
現場が近づくにつれ、空気が非常に悪くなった。
濁った空気が押し寄せるのを防ごうと、馬に乗りながらも風の魔術を駆使し、聖女一行から汚れた空気を払い除ける。
火はようやく鎮火に向かっていたが、舞踏会場の建物からは相変わらずまだ白い煙が上がっていた。
荘厳な建物は見る影もなく、一部は完全に黒こげの骨格だけになっていた。剥き出しの梁が消火に使われた水でずぶ濡れになり、地面に水をボタボタと垂らしている。
この日朝から吹いていた強風が災いし、火のまわりは速かった。
王都警備隊は既に到着しており、精鋭の魔術師たちが水竜を呼び、大量の水をまだ燻る炎にかけていた。
息苦しいほどにススが舞う濁った空気の中で、身内や友人の無残な姿を発見し、泣き喚くたくさんの人々を前に、呆然とした。
(こんな火事は、前回のリーセルの時は起こらなかった。あれは、王都の歌劇場で起こるはずのもので、それはもうボヤ騒ぎで防いだはずのに!)
聖女と衛兵たちのすぐ後ろで馬を走らせながら、私の頭の中は焦りと後悔でいっぱいだった。
未来はもう、あまりに変わってしまって、私の手の届くところにあるように思えない。
満員の舞踏会場から逃げ遅れた人々は多く、甚大な被害が出た。
やがて骨格だけを残して焼け落ちた劇場の前に、おびただしい遺体が並べられた。救助作業はいまだ懸命に続けられており、まるで、戦場だった。
救助には王都警備隊も携わっており、その中にマックもいた。
王都警備隊の制服は黒い。その上さらに顔も手も、ススで真っ黒になっているので、とにかく全身が真っ黒になっていた。
マックは目を血走らせながら、鬼気迫る形相で必死の救助をしていた。
足を引きずる男性を外に連れ出し、彼を救護スペースに座らせるやいなや、休む間なく瓦礫の中に飛び込む。
現場の近くは灰と泥と水で溢れ、ひどい状況だったが、聖女は馬車から降りるなり、まだ煙を吐く舞踏会場へまっすぐに走った。
日没を迎え、暗く騒然とした現場に、聖女の白いドレスが蝶のように舞う。
舞踏会上のすぐそばでは、王都中の医師が駆けつけ、外でたくさんの怪我人を診察していた。
聖女は地面に横たわる怪我人たちに駆け寄ると、そのかたわらに膝をつき、手を差し伸べた。
聖女の手から、淡い黄色の光があふれ、怪我人の胸元を包んでいく。
「傷が、火傷が治っていきます!」
集まった人々が驚きの声を上げる。
それはまさに奇跡だった。
数え切れないほど並べられた怪我人たちが、聖女の差し伸べる光によって治癒していく。
聖女の祈りは、神々しいほどに尊かった。
この阿鼻叫喚の地獄のような災害現場で、唯一の希望の光のようだった。
「ああ、聖女様!! 本当にありがとうございます!」
起き上がれるようになったお腹の大きい女性に、夫らしき男性がすがり付きながら、礼をいう。
「聖女様! 私の夫も、お願いいたします!」
「友達の顔が、焼けただれて大変なんです! こちらもお願いいたします!」
あちらこちらで聖女の救いを求める声があがり、その後に称賛の声が続く。
聖女は休みなく動いた。
だが聖女の力も無尽蔵ではない。明らかに治癒の速度が落ちてきた頃、彼女は護衛のためにそばにいる私に、囁いた。
「貴女の魔力を、わたくしに分けてちょうだい。魔術学院の次席だったと聞いたわ」
私の名前は覚えていないくせに、次席だという情報だけは覚えているらしい。
魔力は魔石に変えて受け渡すことができる。だが、今の聖女と私にはその時間がない。
聖女は私の右手を取ると、両手で握った。
「直接受け取るわ。魔石を作る時のように、わたくしの手に魔力を流し込んでみて」
「直接の受け渡しは危険です。よほど相性が合って、風火水のバランスが同じでないと」
「聖女たるわたくしの魔力は、三元素を網羅するのよ。大丈夫」
確かに、学院ではそう教わった。
ここで論議に時間をかけている暇はない。聖女の治癒を待つ怪我人はまだ建物の中にも、救護スペースにもたくさんいる。
本当にできるのか確信がないが、少しだけなら平気だろう。
目を閉じて、体の中の魔力を呼び集める。魔石を作る練習は、学院の授業でも何度もやっていた。
風なら風、と石ごとに特定の魔力を込めるのだ。私が一番得意な水の魔力をかき集め、繋いだ聖女の手に向けて流し込む。
「違うわ。三元素全てを一度に、送るのよ。水だけでは治癒術は行えないの」
聖女が困ったように首を振る。とはいえ、そんな芸当はできようもないので、困った末に私は三つの元素の力を小刻みに呼び、絶え間なく聖女に送ることにした。
風、火、水、と魔術を器用に切り替えて、聖女に押し流す。
火の粉と熱風が押し寄せる中、極度に高い集中が必要なこの作業は、ものすごく大変だった。
「いいわ。その調子よ。もっと、もっとわたくしには必要よ」
聖女がギュッと私の手を握る。
そろそろ離して欲しいのだが、送っているつもりが気がつけば、まるで繋いだ手から吸い取られていくように、魔力が奪われていく。
薄目を開けると、くらりと眩暈がして景色が一瞬傾く。
「わたくしの代わりはいないのよ。王都警備隊の魔術師は既に水術を使いすぎて、貴女と同じことがもうできないわ。力をうまくくれるのは、貴女しかいない」
そうは言われても、私の中の魔力も限界がある。
周囲からは水の気配を感じらなくなってきたし、探し出す力がなくなってきている。残る微かな水の元素を探して、順番に右手から聖女に渡すが、まるで果汁がほとんど搾り取られたのに、まだ強引に絞られているような苦しさを感じ始める。
やがて手先に痺れを感じ始めた。
体の末端に血流が届かなくなったような、感覚が失われていくような。にもかかわらず、体の芯だけは熱くなっていく。
(これ以上は、無理。もう限界)
ーーいや、そうでもないかもしれない。
無理をすれば、もっと出せるかもしれない。けれど、その先を超えてしまうと、自分ではコントロールできないような、力の暴発が起きそうに感じられる。
ハッと目を見開いた。
今まで学院で学んできたことが、その一瞬で押し寄せて私の頭の中に警告音を鳴らす。
これは、「上限点」だ。
魔術師が持つ力の限界値で、ここを超えるとしばらく魔術が使えなくなってしまう。
学院長がしょっちゅう言っていたお決まりのセリフが、脳裏にこだまする。
「上限点にだけは、気をつけなさい。さもないと、君たちの可愛い魂が、どっかに飛んで行っちゃうからね!」
なおも魔力をねだる聖女の手を強引に振り解くと、平衡感覚がおかしくなっていて、フラフラと地面に倒れ込んでしまう。両手を投げ出して上半身を支える。
「リーセル! どうしたの?」
駆け寄ってきて、力が入らない私の腕を引き、体を起こしてくれたのはマックだった。後ろから同じ黒色の制服を着た、上官らしき青年もついてきている。二人とも煙を吸わないように、布で口と鼻の周りを覆っている。
「煙を吸ったみたいで、倒れてしまったの」
正面にいる聖女が、なぜか白々しい嘘をついている。
「聖女様! 救護所の怪我人の手当てを、どうか!」
救護スペースから、人々が聖女を呼ぶ声がする。その声に反応し、聖女がパッと顔を上げると、白いドレスの裾をはためかせて、怪我人たちが並べられているその場所へ駆け出していった。
「君、ローブが真っ赤じゃないか。どこか怪我を?」
マックの腕に掴まって眩暈が去るのを待つ私に、彼の上官が尋ねてくる。長い黒髪を後ろで束ね、鍛え上げられた逞しいその体型が、いかにも王都警備隊の隊員らしい。
「いいえ。別の怪我人の血です。私に怪我はありません」
「大丈夫か? 私も伊達に王都警備隊長をしているわけではない。魔術を使いすぎたのだろう? 少し座って休みなさい」
どうやらこの若さで、王都警備隊長らしい。さぞ優秀なのだろう。
その直後、救護スペースから歓声が上がった。
聖女が差し出す手から、また目に突き刺さんばかりの眩い黄色の光を出し、横たわる怪我人たちの怪我を次々と治していく。
王都警備隊長は微かに首を傾げた。
「妙だね。尽きかけていた聖女様のお力が、突然もとに戻ったようじゃないか。まるでこの数分間で、魔力を急速補充でもなさったかのようだ」
それを受けて、マックがぎらつく青い瞳を私に向けた。
「バカだな、リーセル。いいように使われたんだろ」
「うん、でも実際私には治癒術ができないから……」
悔しいが、アイリスはたった一人の聖女なのだ。
「手柄は聖女一人のものかよ」
マックがチッ、と舌打ちをした。
王宮から王太子の一行が到着したのは、火災の一報があってから数時間後で、この頃には火は完全に鎮火されていた。
最初はうろたえ、聖女の心配ばかりしていた王太子も、やがて建物から怪我人を引き摺り出すのを手伝ったり、怪我人を洗う水を運んだり、自分ができることに懸命に取り組んだ。なんとか体力が回復した私も、必死でそれを手伝う。
聖女の真っ白なドレスはすぐに灰色に汚れた。
肩にかけていた純白のショールは、どこかに落としたのだろう。どこにも見当たらない。
あちこちに手をついた彼女の手は、いつの間にか擦り切れて血が滲んでいた。
「アイリス様、少しご休憩を! お手から血が」
聖女の侍女が必死に止めるが、彼女は治療を中断しようとはしなかった。
たおやかに首を左右に振り、集まった侍女や彼女の身を心配する王太子をなだめる。
「わたくしの手の傷など、医療を待つ皆の傷に比べれば、本当に些細なものですわ。皆を、助けなければ」
なんて心優しい、清らかな聖女様。
現場に集まったものたちは胸打たれて涙を浮かべた。
こうして聖女は一心不乱に聖なる魔術を続けた。
残念ながら聖女が駆けつける前に息を引き取った被害者もたくさんいたが、彼女はそれを上回る人数の怪我人を、重軽傷者のべつなく、救ったのだった。
最後の怪我人の火傷を治し終えると、辺りは明るくなっていた。
いつの間にか夜が明けていた。
私ちは皆、灰で汚れて、全身が真っ黒だった。
だが朝日を浴びて、聖女だけは神々しく白み、金色の髪は灰だらけになってもなお美しく輝き、まるで光の中にいるように見えた。
「レイアの光」
と誰かが囁く声が聞こえた。
美しい光景だね、と言う声がして後ろを振り向くと、マックが聖女を見つめていた。この火事が美しい? と聞き返すと、彼は鼻で笑った。
「この美談が、実に美しいよ。出来過ぎなほどね」
「これは本当は、起こらなかったはずの火事よ」
「うん。そうだね。それでも、起きた。おかしいじゃないか」
私たちはどちらからともなく、視線を交わした。
揺れる互いの瞳が、ある可能性をそれぞれ思いついたことを、言外に語っている。
「もしかして、これは。誰かが故意に起こしたことなの? まさか、誰かが火を?」
マックは怒りが滲む声で、呟いた。
「それを調べるのが、俺たち王都警備隊さ。さぁ、この火事で得をしたのは、一体誰かな?」
まさか。
だが今や、今回の聖女もどれほど性悪かを、私は骨身に染みて知っていた。
瓦礫と焼けた木のくずが転がる地面を、バキバキと音を立てて進みながら、王太子が聖女の手を取る。
「貴女は皆を救った。さあ、王宮に戻ろう。――貴女はレイアの光。いや、私の光だ」
「殿下」
柔らかく微笑むと、聖女は崩れるように倒れた。その細い体を、王太子が必死に抱きとめて支える。
「聖女をすぐに馬車に!」
王太子の命令で侍従たちが素早く駆けつけ、王太子が聖女を馬車に運んでいくのを助ける。
倒れるまで怪我人を救うことに尽力した聖女を、集まった民衆が心配そうに見守る中、聖女を乗せた馬車は現場を離れていった。
王宮に戻ると、聖女は盛大に迎えられた。
国王が不自由な足を引きずり、杖をついて王宮の前を急ぐ。
国王はわざわざ馬車を待ち構え、馬車が止まるなりその扉を開けたのだ。
扉が開かれ、国王が差し伸べた手につかまって出てくると、聖女は膝をついた。
困惑する国王に、聖女は両手を胸の前で組んでいった。
「陛下、わたくしをどうかお許しくださいませ」
「聖女? 一体何を許せと言うのだ。そなたは皆の賞賛を浴びていると言うのに」
聖女は馬車の横で跪いたまま、国王に向かって首をふるふると振った。
「いいえ、わたくしはこのレイアで最も偉大な方のお怪我を治すことを、忘れておりましたわ」
訳がわからず、静まり返る王宮前広場で、聖女は国王の膝に手を伸ばした。
――ここから先を、私は知っていた。
聖女は国王の膝を治すのだ。
そうして、彼女は国王をも、虜にする。
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