第9話 敗北の味②

 私は林に転がる枝や落ち葉を踏みしめ、ゆっくりとギディオンの前まで歩いた。

 五メートルほどの距離を空けて立ち止まり、ローブの裾を振って絡まった雑草を払う。

 向かい合うとギディオンは爽やかな笑みを披露した。


「リーセル。やっぱり君か」

「今年は覚悟して。この日のために、いろんな術を会得したんだから」

「――頰が、少し切れているよ」


 私の顔の傷に気がついたのか、ギディオンが表情を曇らせる。


「こんなの。舐めときゃ治るわ」

「強がってないで、すぐに止血をすべきだよ。待っているから、ほら早く」

「実技試験に怪我はつきものでしょ」

「だめだ。顔に傷が残ったら、どうする」


 何なのだろう、この余裕は。

 優しさなのか、それとも私なんて相手になるとも思っていないのか。

 ヒーローすぎて腹が立つ。

 結局は彼を憎みきれない自分に、もっと腹が立つ。

 悔しく思いつつ、私は剣をギディオンに向け、叫んだ。


「出でよ、火の…」


 だが詠唱は続けられなかった。

 剣に素早く炎の鎖が巻きつき、動かせなくされたのだ。

 顔を上げると、ギディオンが私に向かって左手を伸ばしている。

 詠唱もせずに、その指一本で私の剣を封じたのだ。

 このあまりの力の差が悔しくて、頭に血が昇る。

 ギディオンは必死に剣を動かそうと両手を振る私の方に、首を左右に振りながら歩いてきた。

 彼は小さな溜め息をついた。


「リーセル。大人しくしてて」


 ギディオンの出した赤い鎖は、剣の柄にまで及び、私の両手に巻きついて拘束する。

 燃えるような輝く鎖は、硬いだけで熱さは全くない。

 だがこれで私は剣ごと両手を封じられ、万事休すだ。


(負けちゃう。今年も、負けちゃうよ……!)


 悔しさに耳まで真っ赤になっているだろう私の顔に、ギディオンが手を伸ばす。


「触らないでよ」


 私の言葉を無視し、ギディオンは私の顔の前で右手をさっと振った。直後に水が飛沫となって私の頬にかかった。


「洗い流したよ。傷に菌が入ったらまずいからね」

「そんなのどうでもいいから、先に試合の決着つけて!」


 そのまま彼はポケットからハンカチを取り出し、私の頬にそっと押し当て、水を拭いてくれた。


「リーセル、試合なんかより傷の方がよほど問題だよ」


 そんなことを言うなんて。

 そもそも私はあんたが腰巾着をやることになる聖女のせいで、死んだんですけど!

 何が悔しいって、魔術の力量の差ではない。

 もはや、人格や人としての器の大きさまで、何もかもギディオンには勝てない。


「ありがとう」


 悔しいながら、ちゃんと手当てのお礼を言っておく。

 するとギディオンは滲むように笑った。

 かつて王宮の片隅で見かけた彼は、こんな笑い方はしなかった。口元を歪めるように口角を上げ、瞳は笑っておらず周囲を冷たく見下す酷薄そうなものだった。でも今私の前で微笑む彼は、同じ瞳とは思えないほど温かで優しい色を帯び、優しげな雰囲気に満ちている。

 彼はこんなに良い人ではなかったはずなのに。

 これでは、ギディオンを憎む理由がなくなってしまう。


 あらゆる敗北を実感させられながら、目の前のギディオンを見上げる。


「……あなたって、本当に悔しいくらいの紳士ね」

「これくらい当たり前だよ。それに、リーセルにはバラル州の沼で助けられたからね。命の恩人だ」


 いやいや、正直あの時私が助けなくても、命に別状はなかったと思う。


「命の恩人に対してだけでなく、あなたは皆に優しいわ」


 ギディオンは学友を平等に扱う。

 それどころか、経済的に恵まれない学友には、手を貸していた。

 魔術学院で使う上等紙のノートも、高いローブも、魔術書も。お金が足りなくて買えない友人がいれば、贈ってあげていた。


 ある時、ギディオンが制服のスカートを買っているところを見てしまった。

 もしや彼には人に言えない趣味があるのかと疑った。たとえば女装とか。

 だがその翌朝、ある女生徒の部屋の前にそれと同じスカートが届けられていた。送り主が書かれていなくても、私にはそれがギディオンだと分かった。

 凄く悔しかった。

 私は、学友のスカートが成長で短くなりすぎていて、彼女がなかなか買えなくて困っていることに、気付いてやれなかったのだ。


 手当てを終え、剣を構え直したギディオンに私は尋ねた。


「ねぇギディオン。クリスタルに制服をあげたのは、あなたでしょう?」


 ギディオンは目を丸くした。


「どうしたの、急に」

「今まで黙っていたけど、私見たのよ。あなたがスカートを買っているところ」


 ギディオンはふっ、と笑ってかぶりを振った。


「優しさじゃないよ。私はただ、クリスタルのスカートが短くなり過ぎて、膝が見えてしまうのが嫌だっただけだよ」

「本当は凄くいい人なのに、悪い人ぶるのね」

「そんなことない」

「スカートだけじゃないでしょ。参考書も、ペンもいろんな子にあげてるでしょ」


 そう言うとギディオンはただ、肩を竦めた。


「それくらい当然だよ。みんな、ここで学ぶ権利がある」


 ああ、もう。本当にずるい。

 私の敵になるはずのこの人は、なぜ今こんなに紳士なんだ。

 できればクソ嫌な男子生徒でいて欲しかった。

 なのに、胸糞悪いほど良い人なのだ。


「リーセルも王宮魔術師になる為に、頑張っているんだろう?」

「私は…」


 たしかに、上を狙う生徒は王宮勤めを狙う。

 王宮お抱えの魔術師になれば、破格の給料を貰えるから。

 もっとも、私は王宮にだけは入らないと決めている。王宮は人間関係が複雑で面倒だし――なにより、王宮に行けば王太子のユリシーズに会ってしまうからだ。

 私はいまだに、ユリシーズの名を思い出すだけで、胸に鋭い痛みを感じるのだ。


 ふと見下ろすと、剣に巻きつく火の鎖がかなり緩んでいた。

 ギディオンの気が微かに緩んでいた。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。

 私は剣を素早く振って、鎖を払った。

 はっと目を見開いたギディオンの頭上狙って、そのまま剣を振り下ろす。


「出でよ、火竜!」

「出でよ、水竜!」


 私が剣から出した火の竜は、ギディオンの水の竜に向かっていった。彼はいつの間に、火の剣を水の剣に変えたのだろう。それに全く気づかなかった、実力の差が恨めしい。

 竜たちは互いに大きな口を開け、水しぶきや火の粉を撒き散らしつつ、私とギディオンの上を舞う。

 慌てて作り出したからか、ギディオンの水竜はやや小さい。


(今年こそ、勝てるかもしれない……!)


 にわかに拳を握りしめる。


「隙あり!」


 突然目の前に水の壁が出現した。

 現れるや否や、それはあっという間に崩れ、私はびしょ濡れになった。

 顔にかかる水を手の甲で拭いながら目を開けると、すぐ正面にギディオンがいた。

 もう何の反撃の隙もなかった。私が口を開くより先に、ギディオンの手から氷の剣が伸び、私のローブを木の幹に縫い止めたのだ。

 剣は左の袖先を刺しており、体は刺されていないものの、凄まじい冷気を腕に感じる。


「降参かな? リーセル」


 私の首筋には、水竜が来ていた。大きな口を開け、歯を見せつけて今しも噛みつこうとしている。

 ギディオンの命令一つで、私の喉元に食らいつくだろう。

 水の壁に気を取られた一瞬に、私の火竜は蹴散らされていたらしい。

 唖然としていると、水竜が大きく口を開いた。

 噛まれる! と思った次の瞬間。水竜は猛烈な量の水を私に向かって吐き、私は滝のように水を浴びた。


「ぎゃーーーーっ! 冷たっっ!!」


 あまりの勢いに、あらゆる思考が吹き飛んだ。

 バサリ、と足元に何かが落ちる音がした。


(しまった――!!)


 ギディオンは不敵な笑みを見せていた。


「勝負がついたね」


 私は困惑のあまり、自分の剣を落としてしまっていた。

 目の前にいた水竜が消え、袖を刺す剣も消える。

 私はずぶ濡れのまま、頭を抱えて泣きそうになった。

 負けた。

 また今年も、一位を取れなかった。


「こんな、こんな情けない負け方って……」


 今年も首席の座を守ったことを先生に報告すべく、軽やかにその場を去るギディオンの背中を、私は半泣きで見送るしかなかった。

 寒さと悔しさで、震えながら。

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