ある本屋の情景

foxhanger

第1話

 三両編成の電車が目の前を通り過ぎると、遮断機が上がった。

 吉富は歩き出す。

 駅前の踏切を渡ると、緩やかな坂になっていて、下りきったところに、「商店街入り口」のアーチがある

 アスファルトの照り返しには、まだ昼間の熱気が残っている。

 道路のアーチをくぐる箇所には、車止めが置かれていた。自動車が通行止めになり、夕方の買い物客が増え始める時間帯だ。

 商店街の向こうから、西日がギラギラ射す。九月に入ったというのに、まだ日差しは夏だ。

 一番手前にあるのは、地元を営業範囲とする信用金庫だった。

 となりはラーメンのチェーン店だったはずだが、シャッターを下ろしていて「閉店しました」という張り紙がある。

 吉富がこの商店街を歩くようになってから、テナントが閉店するのは、たしか三度目だ。客が寄りつかない位置にあるのだろうか。

 こうして買い物をするのも、慣れた。


 吉富が三年前に引っ越してきたとき、この街に土地勘はなかった。たんに通勤に便利という理由で選んだ土地だった。

 越してきた当初は、物珍しさから休日にあたりを散歩したりもしたが、やがて面倒になった。

 吉富は少し前まで、この踏切の横にある改札を通って、電車に乗っていた。線路を挟んで反対側にあるこの商店街を歩く機会は、ほとんどなかった。

 買い物は、職場最寄り駅近くにあるディスカウントストアか、JRの乗換駅にあるスーパーで済ませて、買い物袋を持って帰りの電車に乗っていた。大きな袋をぶら下げていても、帰りの時間はラッシュの時間帯から外れていたので、邪魔にはならなかった。

 通勤電車に乗らなくなって、三ヶ月経つ。

 直近の職場には八年いた。途中入社だったが、上司が年下ばかりになってしまい、居づらくなってやめてしまった。

 職場を辞めて、遠出もしなくなった。電車に乗るのは、ハローワークに行くときくらいになってしまった。

 一応自己都合退職とのことで、失業保険が下りるまでに待機期間があった。その間、半端なバイト仕事で時間を埋めて小銭を稼ぐ気もなく、幸か不幸か吉富には、安い本を読む以外の趣味はなかった。多少の貯金が口座に入っていたので、失業保険が入るまでは取り崩して食いつなごうと思っていたのだ。

 仕事をしていた頃は、買い物なんかは大きなスーパーでまとめて済ませるのが面倒くさくなくていいと思っていた。しかし、商店街を歩いて、八百屋や魚屋を一軒ずつ回って買い物をする楽しみを知った。

 一角からは、焼き鳥やたこ焼きを焼く匂いが漂ってくる。

 スーパーマーケット、美容院、百均ショップ、チェーン店のドーナツショップ、日用品や菓子も売るドラッグストア、処方箋薬局の入ったビルの上階には歯科や内科の開業医がテナントで入っている。 ジャージを着た少女の一行とすれ違う。胸には近所の中学校の名前が入っている。

 スピーカーから夕方五時を報せる「新世界より」が流れた。

 一通り買い物を済ませて、コンビニの隣にある本屋に入った。

 以前は地元で本を買うことなどなかった。ターミナルの大型書店や、ネット通販で買い求めていたからだ。

 町の商店街という立地にしては、結構大きめの構えだ。二階がレンタルCD、DVD、一階が書店になっている。

 まず文庫本のコーナーに足を向ける。平積みの新刊を何冊か手にとって、ぱらぱらとめくってみる。興味のある本もあったが、しかし定職のない身、喫緊の必需品でないものを求めるのは憚られる

 入り口近くの雑誌の棚を眺めて、ふと、振り返ると、絵本や子供向けの本が並んだコーナーがあった。

 棚には絵本が何種類か、面出しでレイアウトしてある。自分でもタイトルを知っていて、ひょっとしたら子供の頃読んだことがあるかも知れない定番の絵本ばかりだが、一冊だけ、知らないタイトルのものがあった。

「ぼうし だいすき」というタイトルの、帽子をかぶった可愛い女の子が表紙の絵本だった。

「……!」

 その表紙を見たとき、胸がきゅっと痛むような感傷が襲ってきた。

 自分にも、こんな絵本を親に読んでもらったことがあったのだろうか。むろん、どこかの作家ではないので、そんな昔の記憶はないが、たしかにあったような気がする。

 厚ぼったいボール紙の本の裏表紙には、「対象年齢 1歳」とあった。

 手に取って、ぱらぱらめくってみる。

 ページが上下別々にめくれるようになっていて、描かれているのは、おかっぱ頭の女の子だった。

 左上に大きな活字で文字が書かれている。


 どんな おぼうし かぶろうか。


 最初の見開きのページには帽子をかぶっていない女の子。

 右上には帽子が描かれている。麦わら帽子やチューリップ帽、ベレー帽。子供の喜びそうな可愛い帽子だ。

 右下には女の子の顔、左下には公園や商店街、お花畑といった風景が描かれている。

 女の子の表情は、口を大きく開けて笑っていたり、にっこりほほえんでいたり、興味深げに見つめていたり、あるいはちょっと微妙な雰囲気に見えたり。

 まだ文字を覚えていない赤ん坊が、母親に読み聞かせられながら、

時には自分でぱらぱらとめくって、上下のページを組み合わせて遊ぶ。そんな情景が眼に浮かぶ。

――しかし、

 吉富は自問した。

(こんな絵本を自分の子供に読んであげる機会なんて、自分の人生には、もうないのだろうか)

 もう四十もとうに越えたのに、吉富は未だにひとり身だった。

 子供を作るには結婚、いやその前に、女性と知り合う必要がある。今の吉富にとっては、遼遠な道としか見えなかった。

 三つ年下の弟も、たしか、独身だ。

 自分の生活に「子供」という存在が入り込むことはあるのか。

 しかし自分は、これまで特段子供が好きだったわけではない。

 道すがらや電車の中で親子連れに行き会っても、なんとも思わないし、むしろ迷惑に思っていたくらいだ。

 ハローワークで失業認定の説明会に参加したとき、うしろの方で赤ん坊を連れてきた女がいた。赤ん坊は説明会の歳中も、引っ切りなしに泣きわめき、ついにその女は、赤ん坊を連れたまま中座する羽目になった。

「非常識だぞ、こんなところで」とDQN風情の男が聞こえよがしに吐き捨てたのに、思わず同意してしまったのだ。

 子供は嫌いだ。それなのに、自分の子供が欲しい、というのは身勝手だろうか。

 手に取った絵本を棚に戻すと、女性の姿が眼に入った。

 ショートカットで背の低い、ベージュのサマーセーターを羽織った、ちょっと品の良さそうな中年の女性だった。

 こちらをじっと見ていたのか。

 眼が合うと、女性はにっこり笑った

 うっと息が詰まるような、気まずい思いがこみ上げる。

 吉富は曖昧な笑みを浮かべて、店を出た。


 吉富は足早に踏切を渡り、家路についた。しかし、あの絵本のことが頭にこびりついて、仕方が無かった。

 ふと思い出したことがあった。

 子供の頃、こんな話を母親としたことがある。

 親戚の家に遊びに行ったとき、その家で飼われていた猫と遊んだ。帰宅してから、あの家の猫が可愛かったとかいう話題になって、吉富はこう言ったのだ。

「うちでも猫を飼おうか」

 母親は言下に断った。

「だめよ」

「でも、飼いたいな」

「お前が責任を取れるなら、いいよ」

「じゃあ、やめとく」

 かなり経ってから、親がその話を思い出して、こういった。

「なんであんたは、あのとき猫を飼いたいって言わなかったんだい?」

「だって、最後まで責任取れるとは思えなかったし。で、尻ぬぐいして貰ったら、今度は一時の勢いでどうのとか、おもちゃじゃないのは分かってたでしょとか、やいのやいの言われるのが落ちじゃないの」

 母親はちょっと呆れたように言った。

「だからだめなんだよ」

 そのときは何とも思っていなかったが、大人になってから、知り合った女性にこの話をしたら、こう一笑に付されたのだ。

「ばかね」

「なんで?」

「そういうときは、出来ないと分かっていても、出来る、って言わなくちゃいけないのよ」

「でも、面倒くさいことはいやだったし、途中でギブアップしそうな気もしていたんだよ……おもちゃじゃないんだからさ」

「そういうときはさ」

 彼女はそこで言葉を切った。

「親に甘えればいいじゃない。親ってのは、そういうときに頼るもんなのよね」

「ううむ」

「とやかく言われたっていいじゃない。人間はそうやって大人になるのよ」

「じゃあ、おれは大人になり損ねたのか」

 そう返したら、彼女は苦笑しただけだった。

 つまり自分は、そのあたりの呼吸みたいなものを全然分かっていなかった、ということなのだな。

 たしか十年前の話だ。そして彼女とも、いつの間にか疎遠になってしまった――。

 どうでもいい昔のことを思い出し、傷跡がじくじくと痛み、化膿するような思いをずっと抱えていた。


 次の日。

 吉富は夕方、買い物に行った。

 面倒くさいので有りもので済ませようか、とも思ったが、結局足が商店街に向いてしまった。

 スーパーで肉と野菜、百均でカレールーを買い求める。奥へ歩いて行くと、あの本屋の前を通った。

 ひきかえし、本屋に入る。

 あの絵本は、昨日と同じ棚に収まっていた。

 手に取り、開いた。

 まさか、こちらに注目するひとなどいまい。客も入れ替わっているだろうし、店員にとっては、客などは風景にしかすぎない。

 だが、絵本売り場には、あの女性がいたのだ。

 また眼が合ってしまった。

(……いかん)

 こんな絵本を立ち読みしているなんて、「変なおじさん」と思われてしまわないか。

――買うのだ。

 そうすれば、子供に買ってあげる親として見られるだろう。

 手につかんで、奥にあるレジに持っていった。

 会計を済ませて本屋を出ると、件の夫人が、入り口に立っていた。そして、吉富に向かって深々とお辞儀をした。

「ありがとうございます」

「?」

「わたし、その絵本の作者です」

 えっ。

 一瞬、呼吸が止まった。

「……そうなんですか」

 返事は何とも間の抜けたものだった。が、次に、思いも寄らない言葉を発してしまった。

「それは奇遇ですね。どうです。すこしお話でもしませんか」

 吉富は次の瞬間、自分の発した言葉を後悔したが、女性はちょっと驚いた表情をしたあと、こう答えた。

「いいですよ」


 本屋の隣にあるセルフサービスのコーヒースタンドに入った。吉富はアイスコーヒーを、女性はミルクティーを注文した。

 奥の禁煙席に陣取り、改めて挨拶をしてから、話を始めた。

「お子さんがいらっしゃるんですか?」

「いえ……」

 ちょっと口を濁してから、アイスコーヒーをひとくち飲んだ。

「姪がいるんです。ちょうど来月に一歳になります。今度遊びに行くとき、お土産にでも、と思いましてね……」

 むろん、口から出任せだ。

「それはいいですね。姪御さん、可愛いですか?」

「ええ」

 ティーカップを口に運んで、女性はいった。

「絵本の世界では、どうしても定番の絵本が強いんです」

「定番?」

「お母さんが子供の頃に手に取った絵本を、子供にも読ませたいようなんですよ」

「なるほど」

「それ自体は、とってもいいことなんですけどね。ただ、わたしたちのような新作を書いている作家にはね……」

 女性はにっこりした。

「お母さんにとって見慣れない絵本は、そもそも手にとってもらえないようなんですよ」

「たしかに、よく知った本だと安心だと思いますね。ブランド志向、と言いましょうか……」

「好きで入った仕事ですけど、やっぱり、しんどいですねえ」

 そういって両肘をつき、ため息をついた。

 吉富は絵本をぱらぱらめくりながら、なにか感想らしきことを言わねば、と頭を回転させた。

 まさか、さっき思ったような感傷をそのまま口に出すわけにはいくまい。

 なにか他に思いつかないか。

「たとえば、お花畑のページと、てんとう虫が載っている帽子のページを組み合わせなくたっていいと思うんです」

「そう! そうなんですよ」

 我が意を得たり、とばかりの表情を作った。

「まだ小さな子供には、固定観念にとらわれない感覚を身につけて欲しいですね」

「そうそう」

 自分でもわざとらしい、と思える相づちを打った。

 それやこれやで、席を立ったときには小一時間も経っていた。

「また会ったら、いろいろ話して下さいね」

「じゃあ」

 駅前で別れた。彼女は引き返し、吉富は踏切を渡った。渡りきるとカンカンカン、と耳障りな音が響き、遮断機が下りた。

 吉富は帰宅した。ドアを開けると、部屋に籠もったむっとする空気が全身を包み、否応なしに彼を現実に引き戻した。

 冷房のスイッチを入れ、ダイニングキッチンで買ったものを確かめ、ビールを冷蔵庫に入れる。

 炊飯器のスイッチを入れ、カレーを作ることにした。

 まず厚底の鍋に油を引き、鶏肉を炒める。刻んだ野菜を放り込んで水を張り、煮込む。

 野菜が柔らかくなったら、ルーを割り入れる。カレーの匂いが漂った。

 ご飯が炊き上がるのと、ほぼ同時に出来上がる。

 ひとり暮らしになってから、カレーを食べるようになった。

 カレーは嫌いではなかったが、子供の頃から福神漬けが好きになれなかった。

 だが、理解してくれるひとは少なかった。「変なひと」と言われるのはましな方で、「カレーに福神漬けはつきもの」と言い張ったり、無視して入れられたり、ひどいのになると、「好き嫌いはダメだ。食えばおいしいから」と、強引にカレーと福神漬けをかき混ぜて、食べさせようとする。

 そんなこんなが続いて、しまいには、カレー自体にうんざりしてしまった。

 そして、食堂なんかで福神漬けがテーブルに載っているだけで、食事がまずく感じるようになってしまった。

 しかし、ひとり暮らしで自炊する現在では、誰に気兼ねすることなく、カレーを作って食べることが出来る。

 とはいえ――

 彼女は「カレーに福神漬けはつきものだ」なんてことを思い込んでいるだろうか。

 思っていても、他人に押しつけることはないだろうか。

 それとも、カレーそのものを食べないだろうか。

 ひとりの食卓でカレーを口に運びながら、ばかばかしいと思いつつ、そんなことを考えていた。


 しかし、その日以来、あの本屋からは足が遠のいていた。

 もし彼女に出くわしでもしたら、どうしよう。

 また世間話に誘われて、根掘り葉掘り訊かれるのだろうか。どんな反応をしたかとか、姪御さんは喜んでいたかとか。いろいろと話していくと、やがて、ぼろが出るかも知れない。そもそも、嘘をつき続けるのは申し訳ない――。

 そんなこんなで、数日が経った。

 失業認定でハローワークに行ったあと、図書館に寄って、新聞を手に取った。家では新聞を取っていない。

 一面に眼を通し、ひっくり返してテレビ欄、社会面、スポーツ面と読み進めていって、家庭欄を開いたところ、ある記事で眼が止まった。

 彼女の名前を見たのだ。

 それはインタビュー記事で、「絵本作家」という肩書きとともに載っている。しかし、そこには「彼女」とは似ても似つかない、初老のおばさんの写真があったのだ。

「……どういうことだ?」

 記事を読み、その紙面のコピーを取って帰宅した。絵本と名前を突き合わせたが、やはり、同じだった。

 別人だったのか。

 絵本に載っていたプロフィールからすれば、見た目がちょっと若いような気もしていたが……。


 次の日から再び、あの商店街の本屋に行くようになった。さりげなく絵本のコーナーに足を向け、彼女の姿を眼で捜した。

 逢えたら「あのときは嘘をついてごめんなさい」と正直に謝ろう。自分のことを率直に語ろう。

 そうしたら、お互いのことを、本当に話し合えることが出来るかも知れない。

 しかし、彼女の姿を、未だに見たことはない。

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