第3話
マンションの一階はカーテンを閉めない限り、外からよく見える。
マンションの特性として、住民以外の訪問者がそれほどいないため、夜でもない限りカーテンを閉めない人が多い。
だから石野ゆかりは一階に住む住人の多くと顔見知りになっていた。
「こんにちは。毎日散歩ですか。すごいですね」
「いえいえそれほどでもないですよ」
今度は竹本さんの奥さんだ。
下の名前はいまだに知らない。
挨拶を交わすだけの間柄だが、もう何百回と挨拶を交わしていることだろう。
挨拶を交わした後、そのまま通り過ぎる。
挨拶を交わす前も、挨拶を交わしている間も、挨拶を交わした後も、石野ゆかりの足は止まらない。
すると後ろで、どたっ、ぐちゃ、ごん、それら三つが合わさったような音がした。
思わず振り返る。
するとそこには先ほど挨拶を交わしたばかりの竹本の奥さんが、仰向けになったま血まみれで地面にへばりついていた。
その顔は、その目は、彼女がもう死んでいることを十分すぎるくらいに伝えてきた。
石野ゆかりは絶叫した。
そしてその場に座り込んだ。
三人目の自殺者。
二人目の自殺者が出てから一か月を少し過ぎたころに。
名を竹本京子という、マンションに十年近く住んでいた専業主婦だ。
検死の結果は高いところからの落下によって全身、特に後頭部を強打したことだが、竹本京子は一階に住んでいるため、十二階のさらに上、屋上から飛び降りたのだろうと推測された。
警察発表がそれだったし、マスコミもそのまま伝えたために、マンション中はおろか日本中の人がそう思った。
ただ屋上へ通じる扉は普段鍵がかかっており、竹本京子が飛び降りた時もかかっていたため、一部で屋上から飛び降りたのではないのでは、との声も上がったが、その点は警察内でなあなあにされてしまったため、世間の人が知ることはなかった。
石野ゆかりは結構長い時間、警察から事情を聴取された。
一般的に死体の第一発見者はそれなりに調べられるが、そんな生易しいものではなかった。
それは尋問と言っていいものだった。
なにせ高いところから落下して、警察が早々に屋上から飛び降りたと発表した竹本京子と、死ぬ十秒ほど前に一階で挨拶を交わしたと正直に証言したからだ。
警察が判断したのには確信があったからだ。
竹本京子が落ちていくところを、ベランダで洗濯物を取り込んでいた主婦、そしてベランダでタバコを吸っていた初老の男性の二名がたまたま目撃していたからだ。
それなのにそれに反する証言、それどころかこの世の物理法則を無視するような発言をする主婦を、ああそうですかと見逃してくれるほど警察は甘くはない。
ただ竹本京子が落ちていくところを見た二人は、当然のことながら下を歩く石野ゆかりの後方に竹本京子が落ちるところを見ていたため、竹本の死に関して石野がなんだかの手を下すことはこれまた物理的に不可能ということになり、最終的にはこれが決め手となって、石野ゆかりは解放された。
取り調べの刑事のあまりの剣幕に、石野が「私の勘違いかもしれません」と答えたことも大きかった。
その一言に刑事は飛びつき、そのまま強引に石野の勘違いだったということにされてしまった。
もちろん反論などができるような空気ではない。
長時間の尋問から解放された石野だが、もちろん納得などしていない。
あれは決して勘違いなどではない。
竹本京子が死ぬほんの十秒ほど前に、確かに自分は挨拶を交わしたのだ。
しかも一階にいる竹本と。
それは間違いがない。
ただ石野は悟った。
石野がそれを誰かに言うことは、一生ないだろう。
たとえそれが家族だとしても。
警察の反応はきわめて正常だ。
そんなことを言ったなら、聞いた誰もが石野の精神状態を疑うだろう。
そこまでいかずとも、こんな状況の中でばればれのたちの悪い嘘をついていると思われる可能性が高い。
石野にとっていいことは一つもなく、悪いことしかない。
文字通り墓まで持っていく。
石野は固く心にそう決めていた。
大場さや荷物の荷解きをしていた。
そして外を見た。
――もう遅いわね。続きは明日にしようかしら。
両親の反対を押し切ってここに来た。
だからもう後戻りはできない。
通う大学は遠くなってしまったが、通えない距離ではない。
原付もあるし。
それにしても大場が入居してきたときは、ちょっとした騒動になっていた。
気づけば大場の部屋を見上げるいかにも主婦といった感じの女性が何人もいたことがあった。
それも一度や二度ではない。
頻繁にあった。
あれはどう見ても「あら、新しい人が入ったのね」と気軽に見ているさまではない。
飛び降り自殺をした女の部屋に、若い女が越してきたのだ。
自分が逆の立場であっても、おそらく興味津々だったことだろう。
入居早々有名人になってしまったが、それが今後のことにどう影響するのか。今の時点で大場に予測はつかなかった。
しかしここでの生活はもう始まったのだ。
あとはなるようにしかならない。
というよりも、なにがなんでもなんとかしないといけないのだ。大場はそう思った。
桜井が仕事から帰ると、マンションの入り口にまたいた。
後ろ姿からでもわかる。
服装、体格、そして醸し出す雰囲気が全く同じだ。
横を通り過ぎたときに見て、通り過ぎた後もルームミラーで見てみたが、やはり同じ女だった。
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