第2話
たまたま買い物に出ようとした時に、目の前になにかが落ちてきた。
それは人の体。
香田まさみという名の女の体だった。
住人は叫び、慌てふためき、それでも警察に通報した。
野次馬が集まり、ついでにパトカーと救急車も来た。
岡田たまきが死んでから、二十八日目のことである。
香田まさみも死因は上から落ちてきて全身をコンクリートに叩きつけられたことだ。
それは目撃証言も検死解剖もそう告げている。
しかし岡田たまきのように自分の部屋のベランダから飛び降りたものではないと判断された。
香田が住んでいたのは二階だし、そもそも棟が隣だ。
そこで屋上から飛び降りたものだと判断された。
十年近く病死、事故死以外の死者が出なかったこのマンションで、この一か月で二人目の自殺者が出た。
香田まさみは一人暮らしで、その明るい性格は住人たちにも評判が良かった。
自殺した理由を部外者がいろいろと推理検証したが、これといった理由は浮かんでこなかった。
岡田たまきの夫がマンションを出た次の日に自殺をしているので、それを関連付ける人もいたようだが、どう考えても関連性などはなく、その考えは自然と消滅した。
警察も動機はともかく状況から判断してとにかく自殺ということにして、マスコミもそれにならった。
住人から不安の声が上がったが、それならなにをどうすればいいのかもわからず、そのままとなった。
「人っていつ自殺するか、わからないものよね」
桜井健一は隣の中年女性にそう言われたものだ。
この厚顔無恥を実体化したような女にそう言われてもなんの説得力もないのだが、そこは「そうですね」と答えておいた。
それが一番平和だ。
桜井が仕事から帰ってきたとき、マンションの入り口で立っている中年の女性がいた。
最初は背中しか見えなかったが、車で横を通り過ぎるときに、その横顔がちらと見えた。
きわめて厳しい顔。
そういう顔だった。
見た瞬間、ぞっとするほどに。
桜井はそのまま車を決められた駐車位置に止めた。
車を降りても中年女性はただ怖い顔でマンションを見ていた。
その目はなにかにきわめて集中しているように見える。
見ようによっては、なんだか怒っているようにも見えなくもない。
そんな目だ。
マンションの入り口から桜井の駐車位置は近い。
それでその女の顔がよく見えた。
女の視線から桜井はずれた位置にいたが、それでも桜井の姿は女の目の端に映るはずだ。
そして桜井がなんの遠慮もなくずっと女を見続けているというのに、女の視線が桜井に移るということはなかった。
――なんだあの女は。
桜井はそのまま見ていたが、女は突然なにかぶつぶつとつぶやくと、マンションから目を離し、そのまま立ち去った。
――変な女もいるものだ。
その時桜井は、ただそう思った。
マンションにちょっとした衝撃が走った。
なんと岡田たまきが住んでいた部屋に、入居者が現れたのだ。
そこで自殺者が出ていることは全国ニュースにもなっている。
おまけにマンションの管理会社が伝えないわけがない。
あの部屋は自殺者が出て事故物件になっていると。
だから新しい入居者は当然そのことを知っているはずだ。
それなのに空き部屋ならマンション全体では百はあるというのに、わざわざいわくつきの物件を選ぶとは。
噂と推測の応酬がマンションで再び始まった。
いろんな説が出たが、事故物件は家賃が安いからなのではという説がいつの間にか有力になった。
実際に管理会社に問い合わせた者がいるが、家賃の件は事実であることが確認された。
それでも噂は止まらない。
それは入居してきた人物に問題があった。
二人以上が住むことを想定されていた部屋。
無理をすれば四人くらい住めるその部屋に越してきたのは、若い女子大生一人だったからだ。
あの部屋に、あの物件に若い女が一人で入居。
いくら家賃が安いとはいえ、普通ではありえない。
噂好きの専業主婦が多いこのマンションでは、うってつけの噂の種だ。
その名を大場さやという。
噂好きでもない桜井の耳にまで入ってくるのだから、かなり有名になっていることだろう。
そもそも桜井の場合は、隣人が人並外れて噂好きであることが大きいのだが。
聞いた話によると、小柄で細身、そしてけっこうな美人なのだそうだ。
――いったいどんな女なのだろうか?
女に対する興味が、一般の成人男性と比べると少し低めの桜井でも、この女のことは気になった。
なにせあの部屋に若い女が一人なのだから。
――怖くないのだろうか。気持ち悪くないのだろうか?
桜井は考えたが、会ったこともない女のことなどわかるはずもない。
石野ゆかりは歩いていた。
日課の散歩だ。
子供たちが学校から帰って来る前、夕食の準備を始める前にマンションの敷地内を毎日歩いている。
「こんにちは」
「こんにちは。いつも元気ですね」
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