第67話 夕食も、ご一緒に

 なんとか帰寮すると部屋は薄暗いままで、紺野先生の気配もしない。明かりをつけると、俺の机の上にメモが置いてあることに気がついた。


『香坂くん、急用で出ています。夕飯には間に合わないので、ひとりで食堂に行ってください。消灯までには戻ります。ごめんね。 紺野』


 ……先生の字って綺麗だな。メモをあったところへ置いて、ベッドに横たわった。


 涙は乾いたし落ち着きは取り戻したが、食欲なんかあるわけがなかった。胃の中に石でも詰められたように、腹の中が冷たく重く膨れている。それは、けっして食べ慣れていない豪華な昼食のせいではない。


『ここにいてはいけない人間だ』


 思い出すと背中までゾワゾワしてきたので、仰向けに姿勢を変える。天井を見ると夏だからだろうか、照明の中に溜まった虫が増えている。大掃除で綺麗にしないと。


 寮の大掃除は、夏休みの初日に予定している。その後の打ち上げで何を食べるか考えておいてくれと、先生に言われたことを思い出す。ここぞとばかりに食べ物のことを考え、気を紛らわせようとしたが……父親の顔が頭から消えない。


いてもたってもいられなくなり、起き上がって、先ほど渡された封筒をリュックから取り出した。かなり厚さがあるので、入っているものは紙ではないのかもしれない。捨ててもいいくらいだが、机の鍵付きの引き出しの奥底に入れ、鍵をかける。


『できるだけ早く向こうに行ったほうがいい』


 。あの話を信じるならば、海の向こうではない。時空の向こうにある異世界なんてものは、俺にとって……いや、この世界の誰にとっても物語の中の話でしかない。


 自分が魔力を持つ理由に説明がついた気はしたが、やはり突然で訳がわからない。迎えに来たなんて言われても、ノコノコとついていく訳がないだろう。


 …………異世界のことを想像してみた。空を見ればドラゴンが飛び交い、地面にはモンスターがウヨウヨしているものなのだろうか。だとしたら、やっていける自信はないな。田舎で育ったので、イノシシやシカくらいなら見たことはあるが、もちろん戦ったことはないし勝つ自信もない。そんなものと戦うための魔術は知らないし、たぶん習わない。


 とあるバトル漫画にハマっている地元の友達には『夢がないな』と言われたが、魔術は夢ではなくて現実のものなので、許可なく攻撃に使ったら罰せられる。銃をむやみに撃ってはいけないのと同じだ。


 それに、男の魔術師が普通にいると言われてもピンとこない。それに魔術学校がないなら、どうやってそれを学ぶのだろう。俺は小さい頃に父親に色々と教えられたが、みんなあんな感じなのだろうか。


 ひとつわかることは、学校で習っている魔術とは、術式から何から全てが違うこと。例えるなら、同じ文字を書くとしても、その書き順が全然違うというか。もしくは……。


 いろいろなことを考えるだけで、腹が膨れた気がした。もう夕食は抜こうかと思ったが、そのあたりはしっかりICカードで管理されている。食べずにいれば紺野先生に報告され、迷惑がかかるかもしれない。やはり行かないと言う選択肢はない。とりあえず食堂に行った記録をつけるだけでもと、立ち上がった。


 支度を終えて部屋を出る頃にはセミの鳴き声も止み、あたりはすっかり暗くなっていた。外階段を降り、道を渡って雪寮へ向かう。寮生カードを鍵にかざして玄関を開け、スリッパに履き替えた。今日のメニューは……匂いでわかった。


「香坂くん!」


 玄関の奥にある階段から、珠希さんの声がした。駆け寄ってきた彼女は、大きめのTシャツに膝丈のズボン姿。すでに風呂上がりなのか、いつもよりシャンプーの匂いが濃い。とたんに妄想が始まりそうになったが、追い払った。彼女を目の前にするといつも雑念まみれになる。


「あれ? 今日はひとりなんだね」


「あ、うん。先生が、急用で夕食までに戻れないからって」


「じゃあ、一緒に食べよう。淑乃ちゃんも千秋ちゃんもいなくて、ちょっと寂しかったんだ」


「そうだな、二人とも実家か?」


「淑乃ちゃんはね。千秋ちゃんはお姉さんとお出かけ」


 珠希さんがすぐ隣に立った。口から心臓が飛び出しそうになったが、なんとか耐えて食堂に入った。土曜の夜の食堂は普段より人が少ない。実家に帰っていたり、遊びに行ってそのまま外で食べてくる学生も多いためだ。いつもの手順で料理を受け取る。


 メニューはナスとトマトのカレーとハムカツ、エビと野菜のサラダ。今日はデザートも付いているそうだが、蓋が閉まっているので中身はわからない。


「わあ、今日も美味しそう。私ね、夏野菜なんでも好きなんだ。カレーも好き」


「俺も好きだよ。母親もこう言うのよく作ってたな。ナスとかトマトとか、自分で作ったり、人からもらったりしてたから……ああ、ピーマンはちょっと苦手だけど」


「へえ。香坂くんにも嫌いな食べ物あるんだね。淑乃ちゃんに、野菜食べろって言ってるイメージしかなかった」


「嫌いだけど食べられない訳じゃないからな」


 向かい合わせに空いているテーブルについた。好きな料理を見て、嬉しそうに手を合わせた珠希さんを見ると、重かった腹が軽くなる。ようやく自分は空腹だったことに気がついた。手を合わせて、食べ始めた。


「今日のお昼は来てなかったけど、どこか出かけてたの?」


「ああ。透子の家に遊びに行ってたんだ。まるでお城みたいだよな。執事さんみたいな人とか、メイドさんとかいっぱいいてさ。妹さんが三人もいるし、お母さんもなんか迫力がある人だし……初めて見たらびっくりするよな」


 正直、あの家自体が巨大なびっくり箱だった。何もかもが初めてのことだったし、結局あのスーツも今着ている服も、俺のために用意したものだからくれると笑いながら言うし……元着ていた服ごと、週明けにクリーニングして届けてくれるそうだ。


 帰りにももうひとつ、びっくり箱が開いた。いや違うな、あれは何かの話に出てくる、絶望の入った箱か。口に入れたピーマンの苦味に眉を寄せると、珠希さんが目を丸くしてこちらを見ていることに気がついた。


「あ、そっか、本宅ってことだね。えっと。私はその……前は別荘の方にお邪魔したから……家族の方にもお会いしてないんだよね。そっちもとっても素敵なお家だったよ」


 もしや、前に森戸さんに見せられた水着写真はそこで撮られたものなのか……プール付きの別荘が現実に存在しているとは。いや、金持ちといえば別荘、別荘といえば金持ちか。透子お嬢様は運転手付きの高級車に、あの豪華な趣味部屋をお持ちなのだ。別に不思議ではない。


「別荘……すごいな。いやまあ、別荘の何軒かは持ってそうだよな。本城さんは? 今日は出かけてないのか?」


「うん。今日は特に約束もなかったから、夏休みの課題を少しやって、本読んで、動画見てって感じかな。明日は淑乃ちゃんと街で待ち合わせて遊んで、一緒に帰ってくるの」


「そうか。俺も明日は先生に誘われてるな、映画見ようって。でも透子、せっかくなら本城さんも誘えばいいのに、俺にだけ声かけるなんてな」


 珠希さんも寮にいるのは知ってるのに、どうして俺だけだったのだろう。相変わらずあいつの考えることはわからない。


 それにあのびっくり屋敷も二人だと心強かったかもしれないし、透子のご趣味に珠希さんも巻き込んでくれたら、俺が得するじゃないか。きっと可愛い服を着ているところを見られたに違いない……などとは口が裂けても言えないが。また妄想が過ぎた。


「えへへ、透子ちゃんも、たまには香坂くんと二人きりが良かったんじゃないかな?」


「えー、そうなのか?」


 ハムカツをかじって口を動かす珠希さんは幸せそうな顔。本当においしそうにご飯を食べる子だ。俺も同じようにした。衣がサクサクで、チーズも入っていて、とてもおいしい。


 しかし、透子が俺と二人きりを望む? 何か企ん……いや、退学の話があったからか? 珠希さんがどこまで知っているかわからないので、俺の口からは話せない。


 サラダのピーマンをやっつけたあたりで話題を変えた。この間の試験のことや、前期の通知表が怖いという話もした。期末試験は何位だった? とこそっと聞かれ、正直に答えると、珠希さんはガクリとうなだれた。


 結局、彼女は何位だったのかは教えてくれなかった。ふと、林での出来事を思い出す。学校で習うことは大体できると言った時のことだ。あれだけ魔術がうまいなら、学科の成績はあまり気にしなくてもよさそうなものなのにな。視線を珠希さんの方に戻すと、デザートの蓋を開けてまた笑顔になっていた。


「なんのゼリー? みかんかな? オレンジかな?」


「そういえば、みかんとオレンジの違いってなんだろうな?」


「……わかんない」


 いつものように何気ない会話。コロコロと変わる表情を見ていると、それだけで楽しくて幸せだった。ずっと、こうしていられたら。このまま時間が止まってしまえば。


「あっちまで見送るよ、謝りたいことがあるから」


「え、ああ?」


 謝ること? 首を傾げたが、珠希さんはなぜか黙って俺の横を歩く。雪寮から男子寮までは百歩もないので、あっという間に階段の下に着いてしまった。


「えっと、どうしたんだ?」


「あの、木曜日ね。私、すごく重たかったよね、ごめんね」


 珠希さんはぽつりと呟き、うなだれた。なるほど、森戸さんが言っていた通りだ。彼女が他の子より重いかどうかなんてわからないし、ふわふわと柔らかくて魅力的にしか思えないのに、とても難しい。それに。


「ああいや、大丈夫。あの時は先輩が」


『軽量化』の魔術をかけてくれたから……と言おうとした。しかし森戸先生からの指導を思い出し、急ブレーキがかかる。あの話を応用すると、これは言うべきではないことだ。


「先輩が、どうしたの?」


 急に黙った俺を見て、珠希さんは何度も瞬きを繰り返す。


「ああ、いやなんでもない。女の子一人背負って歩くくらい平気だから、気にしなくていい」


「えへへ、男の子は力持ちだね。一緒にご飯食べられて嬉しかったよ。ありがとう」


「こっちこそ、今日はありがとうな」


 大きく手を振って背中を向けた珠希さんは、寮に向かって歩き出した。階段を上がらず、彼女が寮の玄関に入るのを見守ることにした。途中、一度振り返って向けてくれた笑顔に胸が高鳴る。


 よく考えれば、二日連続で二人で一緒に食事をしたのか。まるで付き合えているかのような錯覚。でも、昨日も今日もたまたま他の人がいなかったから。でも、もっと近づきたい。もう怖がられたり、嫌われてはいないようだから、気持ちを伝えられたら。一番近くにいることを許してもらえるかもしれない。


『周りの人を不幸にするかもしれない』


 その時、ふと思い出した父親の言葉が氷の矢のように胸に刺さり、動悸の種類が変わる。頭に忍び込んできた冷気を、打ち消すように首を振った。


 そんな、俺なんかに大きな意味だとか、利用されるほどの力がある訳がないじゃないか。だいいち、魔術だって下手くそなのに。


 …………父さんは、今さら現れて、何を言うんだ。やっぱり俺はどこにも行けない。彼女のそばを離れたくないに決まっている。だからあの訳の分からない封筒だって、破り捨ててやる。彼女が寮に入ったことを確認してから、外階段を上がった。

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