白い薔薇
意を決して、目の前の重いドアを開ける。
その人の姿は、最低限の明かりだけが灯された薄暗い部屋に、影のように浮かび上がっていた。
今日も、豪奢な刺繍が施された黒のローブに身を包んでいる。後ろ姿も美しいまとめ髪は、毎朝、専属のものが丁寧に結い上げるもの。家族のものにも、髪を下ろした姿を晒すことはめったにない。
「お母様、失礼いたします」
「どうぞ、おかけなさい」
うながされて、応接セットの椅子にかける。母も向かいに腰を下ろした。わたしの顔立ちや毛色、瞳の色は父譲りのため、実の母親だが似ても似つかない容姿である。夜の闇のような漆黒の瞳が、わずかな光を拾い黒曜石のように光る。
「とりあえず、
母は、ゆっくりと話し始めた。テーブルの上に置かれた蝋燭の火が、言葉が出るごとにゆらゆらと揺れる。
「
母はささやくように言うと、あごの下に手を添えた。綺麗に塗られた爪が、またもぼんやりと光るのを見てわたしはうつむいた。そこまで珍しい苗字でもないので、単に
「それに直系の人間を東都に入れるなんて、おそらく今までに一度もなかったこと。少し探りを入れたところ、彼女はなんらかの理由で、一族を追放されたような状態になっているそうですが。それすらも表向き……なんらかの目くらましでしかない可能性があります」
追放、という言葉に背筋が冷たくなる。確かに、彼女からは一度も家族の話など聞いたことはなかった。それにしても、あの優しい子が、どうして追い出されたりなどしなければならなかったのか。それに。
「目くらまし?」
「隠密かもしれないという可能性です。東都には、この国の魔術界の重要人物の息女が特に多く通いますからね。魔術に対する監視の目が厳しい魔術学校内で、大きなことは起こせないと思いますけれど、東都の現学長は少しお人好しすぎますしね。何かあってからは遅いので、本当はあなたにも彼女には関わって欲しくないんですけどね」
「たまきちゃ……彼女は、わたしの大切な友人です」
隠密。やはり、たまきちゃんのことを疑っているのか。そんな状況で、これを口にするのもはばかられたが。それでも言うだけは言っておかねば。わたしは初めてできた友人を、手放すようなことはしたくないのだ。それを聞いた母は、眉根を寄せた表情をする。闇色の瞳がわたしをとらえて離さない。
「透子から見て、彼女は信用に値するということですね?」
「その、確証があるわけではありませんが、あの」
そう、根拠と呼べるものはないのだ。わたしは不思議なことに、たまきちゃんに触れてみたとき、優しくて温かいものを感じたから信じているだけに過ぎない。もちろん、本当に心根が優しいということは接してみればわかるのだが。
しかし、こんな答えは、おそらく目の前の母に通用はしない。頭を限界まで回転させてみても、残念なことにそれ以上の答えが出てこない。上手い言い訳も弾き出されてこない。神童などと呼ばれているくせに、あっさりと答えに窮したわたしに、母は意外にも柔らかく笑ってみせた。
「……あなたがそう思うのならばそれでいいと思います。わかりました。親交を深めるのは構いません」
「あの、良いのですか?どうしてでしょうか?」
「あなたが人を見る目は確かだと、信頼していると言うことですよ」
答えが意外だったから、だけではない。久々に聴く優しい声に驚いた。母はおもむろに椅子から立ち上がると、窓辺に立った。
「ただし、条件をいくつか。まず、
「わかりました。ではお誘いする際には、隠れ家の方にお招きします。お許しいただきありがとうございます」
ずいぶんなことを言われてはいるが、今はこれで十分だ。何歳かの誕生日の時に、自分に与えられたあの小さな家が役に立つ日が来るとは。いつ彼女たちを誘おうかと、弾む心を抑えて頭を下げると、母はまだ柔らかく笑ったまま。そして、ゆっくりと頷いた。
「あなたが友人をお誘いたいと言うなんて。嬉しかったのですよ……わたしも人のことをお人好しなどとは言えませんね。せっかくなのですから、思い出を作りなさい。ああ、それと、
「わかりました」
母に頭を下げ、再び重いドアを開ける。部屋を出たわたしは、肺に溜まっていた空気を全て吐き出した。自室に向かい暗い廊下を歩きながら、息を吸い再び肺を満たす。
母と話すのは、やはり緊張してしまう。
わたしとの関係が少しぎこちなくなってしまったのは単に、わたしが魔術師への一歩を踏み出したから。その日から、大魔術師と称えられる母とわたしの間に、序列というものが発生しただけ。ままあることだ。
「はぁ、とうさま。早く帰ってきてくれんかの」
思わず助けを求めるような独り言を漏らしてしまう。ちなみに、父は仕事の都合で母国に帰っており、もう一ヶ月ほど家を開けている。来週末には戻ってくるそうだが、なんというか、あの陽気な父がいないこの家で過ごすのは、息が詰まってしまいそうだ。
自室を目指して暗い廊下を歩く。しかし、かあさまはこれでどうして気持ちが沈まないのか。母とは髪や目の色だけでなく、性格や好みまで正反対。わたしは何もかもが父に似たと言うことだ。
強い光を浴びると感覚が鈍ると言う母は、自室にひとりでいるときは常に、分厚いカーテンを引いている。取り付けられている照明も最小限だ。母の部屋が薄暗いのもそのせいで、そのうえ母の部屋がある一角へと続く廊下には、照明がつけられておらず、窓も小さめに設えられている。
『魔術を練り上げるには月明かりの下が一番いい。余計な感覚が削ぎ落ち、研ぎ澄まされていくから。光にしても、音にしても強い刺激は妨げでしかありませんね』
母に言われるように暗いところに身を置けば、確かに研ぎ澄まされていくような感覚はあるにはある。でも。
さらに廊下を進み角を曲がれば、照明のあるところに出る。あくまでも人工の光だが、全身に浴びることでようやく気持ちが落ち着いた。
わたしはやはり明るく暖かい陽の下で過ごす方が好きだ。木陰の下で風を感じ、陽だまりの中でそこらに生える草花を愛で、小鳥と遊び、ごちゃごちゃといろいろなものを見聞きして、両手足をぴんと伸ばして生きていたい。
…………そんなだから、かもしれぬが。
「あの件、か」
自室にたどり着くと、部屋の明かりをつけぬままにバルコニーに出た。目下には、月明かりに照らされた庭園が広がる。専属の庭師が丹精込めて整えた美しい庭だ。当主たる母が好むため、特にたくさん植えられた白い薔薇が、二度目の花盛りを迎えていた。
柔らかく吹く夜風が花々の甘い香りを運んでくる。それは大好きな友達の匂いに少し似ている気がして、目を閉じ、胸が満たされるまで吸い込んだ。
「……本当はまだ、諦めたくはなかったんだがの」
ざあっと強い風が吹いたあと、風が止んだ。そっと目を開く。風に大きく揺らされても、花びらを散らすことなく咲く白い薔薇たちをぼんやりと見下ろした。
最後は自分で決めたことだが、やはり胸がちくりと痛んだ。わたしに残された時間はあとほんの少しだけ。
だから、最後の日までは。
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