インコンプリート・マギ〜たったひとりの魔術師

霖しのぐ

第1章・はじまりの日

第1話 たったひとり

「母さん。俺さ、魔術師になりたいんだ」


 仕事を終え帰宅したばかりの母親に、とうとう打ち明けてしまった。ある日からずっと胸に秘めていた思いは、おかえりという言葉よりも先に口から転がり出ていった。


 俺の決意を聞いた母親は目を丸くしたが「ちょっと待って」と言って俺の脇を通り過ぎ、いつものように洗面所に手を洗いに行った。


 母親はこの町でたったひとりの魔術師として、町役場に勤めている。近隣の町村には魔術師が常駐していないので、依頼されそこそこ遠くまで向かうこともあり、毎日朝から晩まで忙しく動き回っている人だ。


 待っていても落ち着かないので、俺は夕飯のしたくに戻ることにした。先ほどできたばかりの味噌汁を二つの碗に椀に順によそい、食卓に並べる。


 そこに母親がやってきて、無言で作り置きのおかずやら、買ってきた惣菜やらを食卓に並べていく。いつもならこの間にそれなりに会話を交わすのだが、今日は居間でついたままになっているテレビだけが賑やかだった。


 窓の外はすっかり陽が落ちている。今は中学二年生の秋。昼に学校で初めて配られた進路希望調査票。もちろん、進学のところに丸をつけたが問題はその先だ。


 希望校の欄には何も書けなかった。


 俺が希望する『魔術師』を目指すためには、中学卒業後に一般の高校ではなく五年制の魔術学校に入らなければならない。


 そのことはちゃんと分かっている、そして俺には必要な素質をちゃんと持っているのも知っている。それでも書けなかった。


 いや、書いていいものか、わからなかった。


 食卓がととのうと、いつものようにふたり向かい合わせに座る。この家に他に帰ってくる人はいないので、いつもなら揃って夕食を食べ始めるのだが。


 しかし、この状況で普通に食べ始めていいものか考えていると、ここでようやく母親が俺の顔をしっかりと見た。その表情は読めない、いや、どこか難しいことを考えてもののように思えた。


 やっぱり、魔術師になりたいなんて何を考えているのだと思われているだろうか。


 男の子には無理よと笑いながらはねつけられるだろうか。


 そういう反応が関の山だと分かっていながら言ったことだが、真っ向から否定されるのかと思うとはやはり気が重い。


 悪いことをしたのがバレて、叱られるのを待っている時のような気分でいると、母親は表情を緩め、ほう、と息を吐いた。


「勉強すごく大変だけど、大丈夫なの?」


「え? ああ。いちおう、覚悟はしてるつもり」


 である俺が、魔術師を目指すにおいて何よりも覚悟すべきはおそらく勉強の大変さなどではない。しかし、母親はあえてそこに触れるつもりはないらしい。


「そう、わかった。なんとかするわ。たまきはなにも心配しなくていいから、試験に受かれるように勉強頑張りなさい」


 母親は、これから魔術を使っても実現困難な無理難題に立ち向かうにしては軽い口調で言うと、俺が作った味噌汁をすすり、


「今日もおいしいわね。また上手になった」


 と笑った。



 ◆



 それから一年半後。十五歳の春。


 中学を無事卒業して二十日後、俺は真新しい瑠璃紺色の制服に身を包み、大荷物を抱えた状態である場所に立っていた。


『国立 東都高等魔術専門学校』


 ここで五年間の過程を終え国家試験に合格すれば、晴れて魔術師になれる。そう。あれからすったもんだと色々あったが、俺にも門戸が開かれたのだ。


 歴史を感じる重厚な作りの門を前にすると、自然と背筋が伸びる。いよいよ夢への第一歩を踏み出すことができることに、心はどこか浮き立っていた。


 とはいえ、胸の中にあるのは希望だけではない。どちらかと言うと、不安の方が大きいかもしれない。


 実家からここまでは色々と乗り継いで六時間と少しかかるため、俺はこれから寮生活を送ることになった。


 この学校には全国から学生が集まるので、実に全校生徒の七割近くが敷地内にある寮で暮らしているらしい。


 生まれた時から一緒だった親元を離れ、初めて他人との共同生活を始めるのもそうだが、それを覆い隠しても余りあるもっともっと大きな不安があった。


 きちんと覚悟はしてきたつもりだったが、実際に現実の一片を目の当たりにすると尻込みしてしまった。


 入学式を前に、周りには同じ色の制服を着た女子が何人もいた。その全員が保護者と一緒のところを見ると、ここにいるのは新入生だけのようだ。


 みんな俺と同じように大きな荷物を持ち、長いスカートを春風に翻しながら校門の中に次々と吸い込まれていく。


 ふと、そのうちのひとりが振り返りこちらをじっと見た。不審者ではないことをアピールするべく笑顔で返すが、あちらはといえば眉を寄せ、首を傾げている。


「え、男子?」


「そんなわけないでしょ」


 今度は後ろから。また、眉を寄せた顔が向けられていたが、諦めずに笑顔で会釈する。おそらくひきつっているとは思うが。


――ここに集う学生は全員が女子。


 そう、これが最大の懸念だった。校名に『女子』を冠していなくても、魔術学校の実態は国立の名門女子校だ。これはこの国どころか、世界中の学校がそうだ。


 だからこの瑠璃紺色の制服を着た男子学生など、本来ならばいるはずがない。それがこの世の中の常識。しかし、俺はその常識を捻じ曲げてここにいる。


 魔術を使うために必要な『魔力』という不思議な力は女性のみが保有するもので、一切の例外はないとされてきた。


 そう、魔力を持った男性など、この世界にはただのひとりもいなかったのだ。


――俺が生まれてくるまでは。


 俺、香坂 環こうさか たまきは、どういうわけか、この世界でたったひとりの男性の魔力保有者として生まれてきた。


 尊敬している母親と同じ魔術師になると言う夢を叶えるため、今日からこの女子学生しかいない学校に通うことになった、史上初の男性魔術師――の卵だ。

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