第15話 メイド長ナンシー

「痛ってえ。死ぬほど痛ってえ」

 ジョゼフは叫び声をあげて、右頬に火酒をしみ込ませた布を押し当てようとするナンシーを押しのけようとする。その手はボヨンとしたものにはじき返された。

「若。傷の手当てができません」


 ナンシーは椅子に座るジョゼフを見下ろしてため息をつく。

「これぐらいの傷がなんですか。カーマイン家の名が泣きますよ」

「そうは言っても、結構しみるんだよ。どうせもうすぐシエスタ様が来るんだし、なにも痛い思いをしなくてもいいじゃん」


「だめです。血と汚れを落としておきませんと、傷が跡になります。名誉の向こう傷とは言え残したいですか?」

「少しはかっこ良くなると思うかい?」

「無いですわね」


 冷たく言い放つとナンシーは再び布を押し当てる。今度はジョゼフも歯を食いしばって我慢した。ナンシーは事務的に作業を終えると、腰をかがめて自らの豊かな胸にジョゼフの顔の左側を埋めさせる。

「良く頑張りました。ご褒美です」


 柔らかく香しいものに包まれて、痛みに歪んでいたジョゼフの顔が緩んだ。

「い、いいよ。こんなことまでしなくても」

 くぐもった声を上げながらも、ジョゼフの声に迫力は無い。ナンシーの手がジョゼフの短く刈ったくすんだ金髪を撫でる。


 ナンシーは母性に溢れた女性だった。30も半ばを過ぎているが夫に先立たれてからも再婚希望者が数人現れる容姿を保っている。それらを断り、自分の子供を育てながら、ジョゼフの面倒を見てきた。5年ほど前、成人したジョゼフと一度だけ関係を持っている。いざという時に恥をかかないためのもので、貴族では良くある話だった。


 出来の良い兄達に囲まれているジョゼフが曲がりなりにもまともに育ったのは、ナンシーのお陰と言える。メイド長として館の使用人たちからは恐れられている人柄だが、ジョゼフを褒め、時に叱咤し育て上げ、男性としての自信も与えた。一時は、妻にとのぼせたジョゼフをナンシーは叱りつけ、今では一線を引いて、見守っている。ダールウッドへも志願してやってきた。


 ナンシーからすれば、ジョゼフは可愛くて仕方がない。出来の悪い子供こそ愛しいと言っては言い過ぎかもしれないが、それに近い感情を持っている。突出した才能こそないものの、根は善良で、目下の者に寛大なジョゼフが実は領民から親愛の念を抱かれているのも好ましく思っていた。


 ナンシーは最後にジョゼフを強めに抱きしめると体を離して立ち上がる。物欲しそうな顔をして見上げるジョゼフに厳しい顔を向けた。

「若。そのような顔はおやめください。そろそろシエスタ様が参られます」

 ちょうどその時、ジョゼフのいる部屋のドアがノックされる。


 返事をして迎えに出たナンシーが中年の女性を案内してきた。ダールウッドの教会の癒し手シエスタ祭司長だった。縮れた銀髪を肩の後ろでまとめたシエスタは、相変わらず慈愛に満ちた風貌をしている。ジョゼフの側までやってくると大きな笑みを浮かべた。


「あら。大事なお顔を怪我したので、ママに甘えていたのかしら?」

「消毒して貰っていただけだ。それにママじゃない」

「へえ。その割には頬が緩んでるけど。どうせナンシーさんに抱きしめて貰ってたんでしょう? 乳母なんだからママみたいなもんでしょ」


 ジョゼフは頬を膨らまそうとして、顔をゆがめる。左頬の傷にさわったらしい。

「顔を動かさない方がいいでしょう。あなたの顔だと傷がついても迫力が出るってことはなさそうだから。さて、さっさと治療を済ませましょう」

 シエスタは首から鎖で下げている護符を右手で握りしめ左手をジョゼフの頬に添える。


 シエスタが一心不乱に祈りをささげると神の奇跡がジョゼフの頬の傷を塞いだ。うっすらと薄桃色の線を残すばかりとなっている。気づかわし気に見守っていたナンシーがほっと溜息をもらした。

「ありがとうございます。シエスタ様」


 不承不承という顔つきだったがジョゼフも礼の言葉を述べるとシエスタは頭を振った。

「あら。別にこれぐらいのこと構わないわよ。お父様からはたっぷりと寄進を頂いているし。この程度の傷を、私が居ながら残したとなっては、私の名誉に関わりますからね」


 シエスタは自画自賛すると傷の予後に関する注意をする。

「2・3日は引っ張られる感覚があるかもしれないけど、じきに慣れます。半年ぐらいは皮膚の色の差が目立つでしょうけど、どうせ、外を駆け回るあなたのことだから、日焼けで分からなくなるでしょうね。それじゃあ、もう一人の患者の様子を見に行ってくるとしましょう」


 ジョゼフはナンシーを制して自らシエスタの案内をかってでる。忙しいナンシーの手をこれ以上煩わせるのは忍びなかった。実用性重視であまり装飾のない廊下を進み、客間の一つまで進む。部屋の前でメイドの一人が椅子に座っていた。立ち上がり頭を下げる。


「若様。シエスタ様」

「変わりは無いか?」

「はい。中にジェーンが付いております」

「そうか。シエスタ様が診察をされる」


 メイドが軽くノックをし、恭しく扉を開ける。シエスタに続いてジョゼフが中に入ろうとすると振り返ったシエスタがその場に残るように言いつけた。

「ここの館の主を追い出そうってのか?」

「当然じゃ。まさか乙女の柔肌を観察しようとでも?」


 シエスタはフンと鼻を鳴らすと、ジョゼフの目の前で扉を閉める。ご丁寧に中から鍵をかけた。

「おい。そりゃ、ひどくねえか。おーい」

 抗議の声を上げているとニックがジョゼフを呼びに来る。


「フォーゲル様からの伝言です。帝都のクリス様と遠話の準備が整ったのでお出でくださいとのことです」

 ジョゼフは閉じられた扉を一睨みすると足音高くニックの後を追いかけつつぼやいた。次兄のクリスは待たせるとうるさいからな。


 用意された小部屋の前でフォーゲルが待っていた。小部屋に入り、扉を閉める。狭い部屋にフォーゲルと居ると窮屈だった。なるべく気にしないようにして、テーブルの上の鉄皿に目をやる。3本の腕で支えられた木の枝をより合わせた輪にフォーゲルがろうそくの火をつけた。火が付いた輪の真ん中に向かってジョゼフが呼びかける。


「兄上。お答えください」

「なんだ。愚弟よ」

 次兄クリスの相変わらずの怜悧な声が小部屋の中に寒々と響き渡った。

 



 




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