終章
第43話 湖の村の男①
湖に張り出す木の桟橋に停められた小舟が、波に煽られ杭にぶつかり、軋むような木の音を立てている。
絶え間なく打ち寄せる波が、砂浜に散らばる無数の石を転がし、軽やかな音が響く。
浜辺を一人の女が駆け抜けていく。
砂浜に点々と足跡を残しながら、女は裸足で帰路を急いだ。
魚を捕る小舟が無数に浮かぶ、海のように大きな湖のほとりには、たくさんの村が点在している。
どの村も、簡素な木造の家が並んでいた。
ほとんどの家が平家で、外壁の木材は湖を渡る風に晒され、乾燥して
「ただいま!
女は小屋に駆け込むと、浜風に荒れた髪の毛を撫ですかし、二間に仕切られた奥の部屋に上がる。
口元には満面の笑みを浮かべて。
二十二年間住んでいるこの田舎のしみったれた村が、今は天上の住処に思えるのだ。
部屋の奥に設えられた質素な寝台には、誰も横たわっていない。
女は驚いて狭い小屋の中を見渡す。
「
摘んできた葉をバサバサと落とし、女は外に飛び出した。
小屋の裏は雑木林が広がっている。少し駆け出すと、そこに
女はほっと安堵の息を吐きながら、早足で近づく。女に気づいた
女は両腕を広げて睿の首に回し、ぎゅっと抱きついた。
「
「おかえり、
秋華は
そうして甘えるように見上げる。
「だめじゃない、寝ていないと。まだ身体が快復していないんだから」
「世話になってばかりで申し訳ないから。枝を拾っていたんだ。弓矢が作れそうな、いい枝があったよ。これで狩りをすれば…」
「いいの、いいのよ狩りなんて! 湖で魚がたくさん獲れるんだから。弓矢だなんて、やめて」
秋華は睿の手から彼が集めた枝を奪うと、薮の中に放った。
「帰りましょう。湿布をかえてあげる」
秋華は睿の腰に手を回し、くっつくようにして歩いていった。
「寝ていてって言ったのに。捻挫しているんだから、大人しくしていないとちゃんと治らないわよ」
「本当にありがとう、秋華」
摘んできた葉を石の丸皿に載せ、めん棒ですり潰していく。ごりごりという重たい音と共に、葉から緑色の液体が出てくる。
秋華はそれを手で掬い取り、
その冷たさに苦笑した睿の、困ったような表情が可愛くて、秋華は彼を見つめながら新しい包帯を巻きつける。
巻き終わると、秋華は言った。
「手を見せて」
彼の両手の中指と人差し指の爪は、上部三分の一ほどが割れて失われていた。
「だいぶ伸びてきて、ましになったわね」
「うん。これなら、湖の漁を手伝える」
秋華は嬉しくなって花咲くように微笑んだ。
この村の男たちは皆、魚をとって生計を立てている。漁をしようとする睿が、村に馴染もうとしてくれているのだ。
「もう少し、足を大事にして」
秋華は睿の左腕に手を伸ばし、彼の袖を捲り上げた。
そうして二の腕をじっと見る。
「やけどは殆ど治っているわね。軽傷でよかったわ」
薄く笑った後、睿はやや表情を陰らせた。
「身体はこの二週間ほどで治ってきたけれど、記憶だけはどうしても戻らない。――何も思い出せない。自分の名前すらも……」
「いいのよ、このままで。貴方は湖で死にかけていたのだもの。きっと大変な事故にあったのよ」
「でも、私を探している人がいるかもしれない」
「……誰も来なかったわ。
睿は薄っすらと残る火傷のあとを指先でなぞった。
その手の甲に、秋華の手が重ねられる。
「何も心配しないで。貴方の居場所はここよ」
「何も思い出せなくて、秋華や親父さんには、本当に迷惑をかけて、申し訳ない」
「謝らないで! ……今、夕ご飯を作ってくるから、待ってて」
そう言うなり秋華は家を出て、隣の建物――彼女が父親と住む家に駆け込んだ。
一人になった
(私は一体、どこの誰だ? どうしてここにいるんだ?)
自分の手の爪が欠けているのは、おそらく何かにしがみついたからだ。
睿は足を庇いながら、寝台から下りる。
木の寝台は芯部分を白蟻に喰われ、所々がみすぼらしく崩れている。
死にかけていた睿を介抱し、彼の世話をしてくれたのは、秋華とその父だ。彼等の生活は貧しい。
これ以上厄介になり続けるわけにはいかない。
小屋の隅には、藁で編んだ小さな箱があった。
睿はその蓋を開け、畳んで収納されていた袴と肌着を手に取った。
質のいい布地でできてはいたが、何の変哲もないありふれた形で、彼の身元を確認できるような特徴は何もない。なにせ湖のほとりに打ち上げられ、秋華とその父が発見した時は
(何が……一体、何があったんだ?)
割れた爪の先を見つめ、必死に思い出そうと目を閉じる。
すると微かな記憶が断片的に蘇る。流されまいと岸壁に爪を立て、縋り付いた記憶だ。ここまでは思い出せるのだ。
その後を思い出そうとすると、全身が水に包まれ、息苦しくなる。
耐えきれずに吸い込む空気が、まるで水の塊に思えるのだ。刺すような冷たさを伴う痛みが、肺中に入っていく。
それと同時に頭が割れるように痛くなり、睿は唸りながら両手で側頭部をおさえた。
「
ばたばたと足音を立てて、秋華が小屋に駆け込む。両手に抱えていた盆を床に置くと、急いで睿の隣に膝をつき、彼の顔を覗き込む。
「また思い出そうとしたの!? そうなのね? お願いだから、自分を傷つけないで! 無理に思い出す必要なんてないんだから」
秋華は睿を寝台に戻し、彼の汗だくになった身体を布で拭いてやった。
「秋華、それくらいは自分でできるよ」
「いいえ。貴方はそうやって、すぐに無理をするんだから。――足を安静にさせて。きちんと治らないと、漁にいけないわよ?」
粗い麻布でできた簡素な衣服の胸元を緩めると、秋華は睿の首まわりも優しく拭いてやった。
彼の均整の取れた体格と意外にも鍛えられた胸筋を見つめながら、秋華は少し不安になった。
――睿は、もしや兵士なのだろうか?
この湖の村からかなり北に行った所に、大きな川がある。本当は睿をそこで見つけたのだ。
見つけた場所を湖だと偽っているのは、村人や本人に余計な詮索をされたくないからだ。
その川のずっと上流では、少し前に禁軍と州軍による戦いがあったらしい。そこではたくさんの兵士が亡くなり、今も帝都から派遣されている捜索隊が行方不明者を探しているのだという。
(ううん、禁軍の兵士なわけがない!)
秋華は心の中でその可能性を強く否定した。
禁軍は皇帝直属の軍隊で、宮城に詰める兵士だ。
生半可な出自の者がなれるわけではない。
秋華は三年前に結婚した夫を、昨年事故で失っていた。夫は増水した川で溺死し、川岸に打ち上げられていた。
夫が亡くなった丁度一年後の、まさにその日。
秋華は父と事故現場を遠路訪ね、花を手向けに行った。
夫が打ち上げられていた、まさにその場所。
そこに意識のない、睿が倒れていたのだ。
川に下半身が浸かり、仰向けの状態で横たわっている睿を見つけた時、秋華は呼吸すら忘れた。
その容貌は泥が付着していてもなお、驚くほど整い、綺麗だった。
その後父と彼を湖畔の村まで連れ帰り、懸命に介抱した。意識を取り戻し、自分と彼の目が合った瞬間は、忘れられない。
思い返すだけで胸が途方もなく、熱くなる。
切れ長の漆黒の瞳は、黒曜石のように美しく、一瞬で秋華の心を奪った。
(睿は夫の代わりに、神様が私に授けて下さったんだわ)
盆に載せた夕食を睿の枕元に運ぶ。
雑草を混ぜた粟粥と、揚げた小魚だ。
こうして手料理を、睿に食べてもらうなんて、夢のようだ。
「たくさん食べて、早く治そう」
そう言って睿に微笑みかけ、秋華は木の匙を粟粥に入れ、手渡す。
食事を食べ終わると、
「すぐに親父さんの漁を手伝うよ。私も働かないと」
「ゆっくりでいいの」
「体力がついたら、私が倒れていた湖にも行ってみるよ。何か分かるかもしれない」
すると秋華がそっと視線を下に落とす。
「――
その寂しげな声に、睿は慌てた。
「そういう意味じゃない。ただ、このままではいけない。もしかしたら、少しは私にも財があるかもしれない。そうしたら、親父さんたちにお返しができる」
「そんなの、いらない!」
秋華は寝台に乗り上げると、腕を回して睿に抱きついた。
膝が皿にぶつかり、寝台を転がり落ちる。パリン、という軽やかな音とともに、素焼きの皿は割れた。
「もう私の気持ち、分かってるでしょ? 睿……貴方が好きなの」
「秋華、私がどこの誰だか分からないのに? もしかしたら、逃亡中の犯罪者かもしれない」
「そんなはずない。ううん、たとえそうだったとしても、私は構わないもの」
――彼女じゃない。
睿は払いのけたい気持ちをなんとか抑えた。
どんなに親切にされても、好意を寄せられても、秋華じゃない。
命の恩人の彼女を無下に扱うわけにはいかない。けれど、彼女が求めるものに応えることも、決してできない。
その矢先、戸口から野太い声がした。
「秋華、そろそろ家に戻って来なさい」
その声に秋華ははっと我に返った。
弾かれたように睿から離れる。
小屋に入ってきた父親が衝立の向こうから寝室にやって来ると、秋華は床にしゃがんだ。
そうして散らばっていた皿の破片を拾い集める振りをした。
「と、とうさん。片付けに時間がかかっちゃったの……」
拾い集めた秋華と父が小屋から出て行くと、睿は安堵の溜息をついた。
「お前は、睿をどうしたいんだ?」
「結婚するのよ! 勿論」
「馬鹿を言うな。彼は
「あの川に流されたのは、運命よ!」
父親は半分くらい破れた座布団の上に座ると、呟いた。
「あの川では、帝都からの捜索隊がいまだに作業を続けている。かなり下流の村にまで捜索範囲を広げて、一戸一戸を訪ねているようだ」
「どうして、そこまで」
「皇帝お気に入りのお偉い宦官が、行方不明だかららしい」
水を張った樽に食器を入れながら、秋華は鋭い目で父を振り返る。
「
二人は睿をここに連れ帰った後、濡れた服を全て脱がせたのだ。その際に、彼の裸を見ていた。
「男だったわ。宦官だなんて、あり得ない」
「だとしても、禁軍の兵士かもしれない。であるならば、お前とは到底釣り合わないよ。何もかも」
「父さんも、睿の手首にはまっていた環飾りを見たでしょう?」
川で拾った時、睿は妙なものを手首にはめていた。本来腰帯からぶら下げるはずの、環飾りだ。
溺れる寸前に故意にそうしたのか、はたまた偶然なのかは分からない。
もし何らかの意図があって、手首にはめたのだとすると、彼にとって意味ある環飾りだったのだろう。
(それを、渡したくない。見せたくない……)
秋華はその環飾りを敢えて睿から隠した。
彼になにも思い出して欲しくないからだ。
「あんな、安っぽい木製の環飾りは、禁軍の兵士なら絶対に身につけないもの。彼は兵士なんかじゃない」
強情に睿をとどめようとする秋華に、父は溜め息をついた。
夫とあまりに早く死別した娘のことは、気の毒に思う。
拾った睿がもし義理の息子となってくれたならば、どんなに心強いだろう。
だが、記憶が戻ったとき、泣くのは絶対に秋華だという気がしてならない。
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