第32話

 いよいよ殿試が行われる日。

 受験生たちが宮城に足を踏み入れ、集智殿で皇帝臨席のもと、試験を受けた。

 お題目はたった一つの、時事問題の論文である。

 科挙の準備に勤しんだにもかかわらず、私や花琳は外廷にいる受験生をみることは叶わなかったが、順位が発表されるまでの間、彼らは宮城内にとどまった。

 その翌週、上位合格者から名を呼ばれ、併せて官職が発表された。

 そのまま宮城では合格者達を主役にした祝宴が行われ、楽人の演奏や女官たちによる舞が披露された。

 その様子を花琳は祝宴に参加した女官たちから聞き、披帛ショールを千切らんばかりの勢いで悔しがっていた。

 私たちが会うことはなかったが、官吏となった彼らには、今後必ず会う機会があるのだろう。私はそう言って花琳を慰めた。




 科挙関連の作業がようやく一段落着いた頃。

 毎年この時期になると、皇帝は離宮を訪ねることになっていた。


「昨年は徳妃様と淑妃様が同行なさったの。だから、今年は黄貴妃と晶賢妃が行かれるの」


 麗質リージィによれば、離宮は山西州という州に位置し、帝都から馬車で半日ほどの距離にあり、別名温泉宮と呼ばれているのだという。

 滞在期間は五日である。

 温泉宮では豊富な湯量の温泉が湧き、女官達専用の浴場もあるらしい。


「晶賢妃様が、私と珠蘭もお付きとして選んで下さったわよ!」


 それはつまり、温泉宮に滞在する間の晶賢妃の服飾関係に全責任を背負わねばならないということなのだが、今回は以前の船旅とは異なり、皇太后という異様な権力者がいないので、多少は気が楽だった。


 まだまだ息を吐けば白くなるような、寒い時期である。

 私と麗質は衣裳庫に詰め、温泉宮に持っていく衣装を吟味した。


「もうすぐ木蓮が咲くわ。木蓮のかんざしがあったはずよ」

「温泉に入られるなら、単衣を多めに持っていきましょう」


 二人で旅支度をするのは、どこかわくわくと心が浮き立つ。

 一昨年も行ったことがある麗質は、温泉宮の思い出をたくさん話してくれた。


「山の中腹にあるんだけど、温泉のお陰で暖かいの。だから、周辺には季節外れの花々が咲き乱れて、どこか浮世離れしているのよ!」


 妃嬪たちは後宮に入った後、基本的に外に出ることが許されない。だからこそ、堂々と外出できるこの旅を、晶賢妃もとても楽しみにしているのだという。

 最近は体調が思わしくない貴妃が療養するにも、後宮よりよほど良い環境なのだろう。




 皇帝の私的な旅である為か、温泉宮に出かける一行は少人数だった。

 先頭は騎乗した禁軍兵士たちで、その後ろに皇帝の馬車や宦官たち、二人の妃たちの馬車、そして女官たちが続いた。

 皇帝の世話をするために宦官も連れられており、俊熙は馬に乗って皇帝の馬車の前を走っていた。

 女官たちが相乗りする馬車は狭く、座り心地が悪かった。席があるわけではなく、皆で詰めて板敷きの車内に座るのだ。

 馬車は軽量化の為に開口部が大きく作られており、窓からは絶えず冷たい風が吹き込み続け、頰に叩きつける。

 毛皮の襟巻きを隙間なく首に巻きつけてもなお、身体の芯まで温まらない。


「早く温泉で温まりたいわ」


 車内のあちこちから、そんな声が上がった。


 馬車は何度か休憩を挟み、なだらかな山を登り始めた。

 早朝に出発し、時刻は昼過ぎになっている。

 窓の外を見ると、真上から差し込む日の光が、木々の葉を透かしてチラチラと揺れ、眩しい。

 森の木々は深緑や黄緑、橙や黄色など、実に彩り豊かに広がっている。枝葉を伸ばす森の小径を進むのは、まるで色彩の洪水を浴びるようだった。

 やがて山の中腹にさしかかると、辺りに薄っすらと霧が立ち込め始めた。


 馬車が温泉宮に到着し、門の前に止まると私たち女官は大慌てで外へ出た。単純にそれ以上車内にいたくなかったというのもあるが、ここからまた仕事が始まるからだ。

 温泉宮は黄色い瑠璃瓦が乗る口の字形の建物で、細長い建物が四つ、東西南北に並んでいた。

 離宮である為、ここには役人が常駐しており、私たちの馬車は袍を纏った男性職員や、揃いの橙色の襦裙を着た女官たちに出迎えられた。

 建物の真ん中に温泉があるのか、温泉宮の建物周辺からは絶えずもくもくと白い霧が漂っている。

 皇帝が馬車から姿を現すと、温泉宮の役人たちは一斉に頭を下げた。そうしてその全員が示し合わせたように同時に叫ぶ。


「皇帝陛下万歳、万々歳!」


 皇帝に続き、別々の馬車に乗っていた晶賢妃と冪䍦べきりを被った黄貴妃が下車する。

 冪䍦は高貴な女性が外を出歩く時に、顔を隠す為に被る布だ。頭から腹部近くまでの長さがあり、体型隠しにも便利だったらしい。

 最近はあまり流行していないが、もしかしたらお腹をあまり見られたくないから被っているのかもしれない。

 冪䍦をかぶっていても、貴妃のお腹がふっくらしているのはよく分かったが。




 離宮の中は暖かかった。

 四つの建物に囲まれているのは、温泉を使った中庭であり、広い中庭のお陰で向かいに建つ建物が見えず、離宮内のどこにいても大変な開放感があった。

 早速馬車から晶賢妃の部屋に、荷物の運びだしを行う。

 晶賢妃の宝石が入る螺鈿細工の収納箱を両腕に抱え、離宮の中に入る。私の後には大型の長持を背負った俊熙が続く。

 建物正面入り口に立つ衛兵は、一人だった。


「皇帝陛下がいらっしゃるのに、警備は随分薄いのね」


 離宮とはこんなものなのだろうか。

 素朴な疑問を背後の俊熙にぶつけると、彼は私と目が会うなりスッと視線を逸らし、そうですねと呟くだけだった。


「毎年こうなの?」


 重ねて質問をすると、俊熙は肩を竦めた。


「量より質ですよ。たくさんいればいいわけではありませんから」


 今回は少数精鋭でやってきた、というのだろうか。

 通り越しざまに入り口の兵を見上げる。

 彼は手に持つ槍の柄元で、敷石の上を這う虫を潰していた。

 ――足元にも警戒を怠らない、心強い兵なのかもしれない。

 そう思いたいが、何かが違う気がして仕方がない。


 荷物の搬入が済み、妃たちに茶が運ばれてくると、皆で中庭を散策することになった。

 中庭を流れる小川は温泉で、中庭に出ると周囲の温度が高く、暖かい。木々の間から煙が立ち込める景色は、実に幻想的だった。

 庭園は七色に光る玉石の小径がめぐらされていた。

 玉石を踏みしめると、その音も涼やかで美しく、流れる川のせせらぎと相まって、実に耳に心地いい。

 普段は常に緊張感を緩めない晶賢妃も、玉石の道を歩きながら、軽く目を閉じ、ゆったりとした雰囲気だ。

 その穏やかな横顔が少し意外で、尚且つほんの少し親近感を覚える。

 後宮では見られない、別の一面を見た気がする。

 後宮では誰もが、仮面を被り、側面すら見せないのだ。

 中庭には花々が咲き乱れていた。

 暖かな気候のせいか、本咲きとはいかないまでも、牡丹や芍薬、菊などの鮮やかな花々が開花して、その色で目を楽しませてくれる。

 途中には築山もあり、所々に小さな灯篭が置かれている。くねくねと意図的に曲がる道は、中庭の奥行きを演出するのに一役買い、まるで広大な庭園の中にいるような錯覚すらした。

 所々に流れる小川は、小さな滝のようになっている箇所もあった。

 手を伸ばして晶賢妃が滝に触れようとするので、麗質が間髪を容れずにそれを止める。


「熱湯かもしれません。先に私が」


 躊躇なく滝に手を入れると、麗質は微笑んだ。


「人肌程度の湯のようです」


 それを受けて晶賢妃も滝の流れに手を濡らし、花咲くように笑った。






 日が沈むと、女官たちも交代で入浴が許された。

 浴場は敷地の奥にあり、妃専用の浴場の隣に女官用の浴場があった。

 脱衣所には屋根があったが、湯船は屋外にあった。

 大きな石造りの湯船には湯が溢れ、周囲は木の高い塀に囲まれている。塀の前には岩が積み上げてあったり、低木が植えられており、圧迫感がない作りになっていた。

 女官用でさえ広く感じるのだ。妃専用の浴室とは、どんなに立派なのだろう?


 湯船に浸かると、不思議な気持ちになった。湯を手で掬い、ポタポタと水面に落とす。

 華王国には温泉に入る習慣がなかった。


「温泉かぁ……」


 ただの湯にしか見えないが、麗質の説明によれば、地下深くで熱され湧き出たものなのだという。

 普通の火で沸かした湯と違い、より長時間身体を温めてくれるらしい。

 手足を伸ばし、温泉によく浸かる。

 水面から漂い、上へと揺れていく湯気が、隣の妃専用の浴場とを隔てる塀を這っていく。隣からは何の物音もしない。

 よく見れば塀の一部が途切れ、代わりに低木が植えられている。隙間なく茂る葉のおかげで、向こう側はここからは見えない。

 冷えた身体が芯から温まるようで、湯船に一旦入ると抜け難い。


「そろそろ出るか」


 気合いを入れるために、あえて口にする。

 仕事の合間に交代で入浴しているのだ。あまりのんびり湯に浸かる時間はない。

 湯船から上がって震えながら身体を拭き、単衣を羽織る。

 その時だった。

 隣の浴室から、複数の女性の声が聞こえてきた。

 もしや貴妃か賢妃のどちらかが、入浴しに来たのだろうか。どちらだろう。

 素朴な疑問を感じ、帯を締めながら隣に耳をそばだててしまう。


「黄貴妃様、広いですね!」

「さぁ、お腹を冷やしてしまわれないうちに、速く湯船に入りましょう」


 どうやら黄貴妃が侍女たちを連れて来たようだ。

 私は賢妃のもとに戻ろう、と扉に向かう。

 扉に手をかけた次の瞬間、急に扉が開いて廊下から俊熙が現れた。


「えっ……!?」


 どうして女官用の浴室に、宦官の俊熙が登場するのか。

 驚いて声を上げようとすると、素早く俊熙が人差し指を立てて、私の口元に寄せた。

 無言で牽制するように私を睨み付け、俊熙はそのまま私を押しのけるように中に入ってきた。

 わけがわからず、狼狽えている私を通り越し、俊熙は大股で浴場の端まで進んだ。そのまま低木をかき分け、枝の間に視線を投げて動かない。

 少しの間、私は俊熙が何をしているのか全く分からなかった。

 だが数分あとに、やっと気づいた。


 ――俊熙は黄貴妃がいる浴場を、覗いているのだ。


 あまりの驚愕に、すぐには声が出ない。

 そろりそろりと後ろから近づくと、彼の隣に立つ。

 俊熙は漆黒の瞳を極めて真剣に見開き、木々の隙間から懸命に隣の浴場を覗いていた。

 私は若干震える声で尋ねた。


「な、何をしているの?」


 まさかと思うが、黄貴妃の裸を覗いている……?


「しっ! ……大事なところですから、お静かに」


 一体何が大事なのか、と口を開く直前、隣の浴場から短い悲鳴が上がった。

 するとそれとほぼ同時に俊熙が身体を低木から離し、積み上がっている岩を駆け上った。

 そのまま岩を蹴り上げ、妃専用の浴場とこちらを隔てる塀をのりこえる。

 続けてバシャン、という大きな水の音が聞こえた。

 どうやら塀の向こうには丁度温泉があり、俊熙はそこに落ちたらしい。

 状況を確認するために急いで私も低木をかきわけ、向こう側を覗き見る。

 すると単衣を纏ったまま、温泉に浸かる人物――お腹が大きいから、きっと貴妃だ――の頭を何者かが押さえつけ、水中に沈めようとしていた。


(なんてことを――!)


 頭の中が怒りで真っ白になる。

 貴妃を襲っているのは、体格からして男だった。

 黒っぽい、丈の短い袍を着ている。

 やがてすぐに俊熙が追いつき、男の首回りに後ろから腕を回し、貴妃から引き剥がす。

 だが浴場には不届き者がもう一人いたらしく、横から現れた男が湯船で咳き込む貴妃に駆け寄り、彼女の頭を抑えて無理やり水の中につけ始める。


「黄貴妃様に何をする!」


 怒鳴りながら、私も必死で岩を駆け上り、手にしていた桶を男に投げる。桶は見事男の背にぶつかり、男は貴妃を離した。

 桶の当たった場所がよほど痛かったのか、飛び上がって肩甲骨の辺りを押さえ、ピョンピョン飛び跳ねている。

 すると貴妃が振り返り、ドスのきいた声で男に言った。


「おめぇ、誰に頼まれてこんなことした?」


 耳を疑った。

 いや、正確に言えば、目も疑った。

 そこにいたのは、貴妃ではなかった。

 ただの背の低い、小太りの中年男だった。

 腹の出た中年が、単衣を纏って髪を複雑に結い上げて湯船に浸かっているのだ。

 貴妃に扮していた中年男は単衣を脱ぎ、それを自分を襲っていた男に頭から被せ、床に抑えこんだ。

 その隣では、俊熙によってもう一人の男が取り押さえられている。

 貴妃の侍女二人は浴場の隅に肩を寄せ合って集まり、目を両手で覆いながらも俊熙と中年男の様子を見ていた。


 俊熙は低い声で言った。


「見事に引っかかったな。門下侍中が捕まり、焦ったか」


 床に額を押し付けられたまま、男は呻いた。


「くそっ。貴妃はどこだ!」

「狙われていると分かっていて、お連れする筈がないだろう」


 中年男が頭上の簪を抜いてその鋭利な先を、捕らえられた二人の目の前にちらつかせた。


「いくらで雇われたんだ? 倍額を支払うから、雇い主を教えろ。言わなければ、これで首に穴が空くぞ」


 男たちは黙っていたが、視線を彷徨わせ、明らかに戸惑っている。

 すると俊熙が提案した。


「四倍。いや、それぞれ五倍支払う。身の安全も保証する」


 男の一人が少し視線を上げた。どうやら興味を持ったらしい。


「言えば助けてくれるのか?」

「約束しよう」

「翰林学士の劉 宇航ユーハンだよ。皇太后の叔父の」


 驚いて岩場から滑り落ちそうになる。

 皇太后の叔父が、貴妃を狙った?

 それは貴妃が身重だからだろうか。


「よく言ってくれた」


 俊熙が口角を上げ、左右の手を組んだ。

 そうして腕を大きく振りかざし、男の後頭部に打ち下ろした。

 男は気を失って、床に伸びた。






「これはどういうことなの? 皇太后の叔父が、黄貴妃様を暗殺しようとしたの?」


 帯で男を縛り上げ、妃専用の浴場に放置して廊下をすたすたと歩く俊熙に、必死でついていく。

 彼の袍の裾からは、ぼたぼたと水滴が垂れている。


「その通りです。火が足元に燻り始めて、燃える前に動いたのでしょう。――それにしても、まさか貴女が入浴中とは思いませんでした。上がる所で本当に良かった」

「貴妃たちの侍女も今回のことを知って、協力していたの?」


 俊熙は歩く速度を全く緩めず、答えた。


「そうです。彼女たちは、第一皇子の件を決して忘れたりはしない。貴妃の御子が狙われることは、分かっているのでしょう」


 第一皇子は病死と言われている。

 だが貴妃に近い人たちは、そうではないとずっと思っていたのだ。

 襲撃者の証言を思い出す。

 とどのつまり、第一皇子の死に関しても、劉氏か皇太后が黒幕だったと言いたいのだろうか。

 温泉で温まったはずの身体に、寒気が上っていく。

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