第31話

 年が明けると、数日ごとに少しずつ寒さが緩み始めた。

 冷たい空気の中にも、時おり日中は日差しの暖かさを感じられる。


 長期休暇が終わり、宮城に戻ると外廷の雰囲気は一変していた。

 門下侍中であった呉氏は宮城内の監獄に捕えられた。

 大きな顔をして宮中で幅を利かせていた貴族派官僚たちは鳴りを潜め、何やらこそこそと己の進退について話し合うようになった。

 一方で皇太后は相変わらず後宮を我が物顔で、主人の如く闊歩していた。

 後宮の中は表面上は何ら変わりなかったが、一部の者たちは後宮にいる妃嬪の一人である、呉昭容という女性の陰口を叩き始めた。彼女は門下侍中の親戚だったからだ。


 不穏な空気を察した呉昭容の侍女たちは、廻廊ですれ違う時は、手摺りの端にへばりつくように道をあけ、素早く進路を譲るようになった。

 そしてそれは単なる変化ではなく、一大事変の前触れであった。



 長期休暇が終わり、忘れかけていた仕事にも再び慣れだして一週間ほど経った頃。

 黄貴妃が懐妊したとの噂が、そこかしこから流れるようになった。

 貴妃は長いこと体調不良で宮に篭り、他の妃嬪たちの集まりに参加していなかった。

 だが貴妃専属の医官が後宮に置かれるようになると、皇帝や貴妃が彼女の妊娠を隠したがっているのでは、と周囲から勘ぐられるようになったのだ。

 ついには専属の毒味係が貴妃の部屋に置かれるに至り、これは流石に他の妃嬪達の不興を買った。通常、毒味は御膳房で行われ、妃嬪達に配膳される前に行われる。

 数多いる妃嬪全てに専属の毒味がいては、毒味が何人いても足りない。


「貴妃は皇后に次ぐ位の妃なのだから、目くじらをたてるようなことではないわ。誰も今は皇后に冊立されていないのだから、貴妃は後宮にいる妃嬪の中では、最上位の方よ」


 陰で不平不満を漏らす女官や侍女を、そうたしなめるのは晶賢妃だ。

 聞けば、残る二人の妃――淑妃と徳妃までもが、それぞれの侍女たちに「貴妃の特別扱いが目に余る」と愚痴を言っているらしい。


「これは単に公平性に欠くという問題ではないわ。この後宮にいる誰かが、貴妃に毒を盛ろうとしている、と疑っているということよ」

「失礼しちゃうわ」






「……って、みんな怒っているのよ。どうにかすべきだわ」


 私は明天殿横の小道を歩きながら、隣を歩く俊熙ジュンシーに言った。俊熙は冷めた目で、私をじろりと見た。


「なぜそれを私にお話しされているのですか?」

「あら、だって貴方なら皇帝陛下にそれとなく伝えられるでしょ?」

「それより、夜中に外をふらつくなと申し上げませんでした?」


 確かに他の女官たちはとうに寝ている時刻だ。

 日は沈んで久しく、見上げれば夜空には月が煌々と輝いている。


「ふらついてないわ。私はただ、寝室の外に立っていただけよ」

「では、なぜこんな時刻に外にいらっしゃるのです?」

「寝付けなくて、出たのよ。相部屋だから何度も寝返りを打ったりすると、他の女官たちを起こしてしまうから。でも外に出て良かったわ! 休暇が明けて宮城に戻ってから、俊熙に全然会えなかったもの」


 にっこりと笑顔を見せたが、俊熙は冷めた表情で言った。


「お可愛らしい顔をされても、誤魔化されませんよ。就寝時刻は守って下さい」


 つれない俊熙にがっかりしてしまう。

 しかし、私が寝付けないのは半分は俊熙のせいなのだ。


「貴方が錦廠きんしょうから内侍省に戻されるっていう噂を耳にしたの。本当?」

「根も葉もない噂ですよ。部下の不行き届きの責任を取った私が、元の内侍省には戻れません」

「そうなの……」

「なぜ貴女が落ち込むんです。鬱陶しい」

「鬱陶しい、ですってぇ!?」

「もう寝室にお戻り下さい。また襲いますよ」

「わ、分かったわ! 今すぐ部屋に戻るわ」


 踵を返し、俊熙と別れる。

 一旦建物の中に引き返した私は、正面にある小さな通用口の前にある簾の陰に隠れた。そこから顔を出して、俊熙の様子を伺う。

 俊熙はそのまま北に真っ直ぐ向かった。

 宦官の宿舎は北東にある。どの役職についていても、彼らは一箇所に固められているのだ。

 暗闇にのまれ、見えなくなっていく俊熙の背中を見ながら、深いため息をついた。

 皇太后と近い貴族派官僚の重鎮が失脚し、官吏の不正を取り締まる御史台は、門下侍中の摘発を取っ掛かりに、皇太后の叔父である劉 宇航ユーハンの周囲も捜査を始めているのだという。


 一方で貴妃が懐妊されたとの情報が出回っている。半信半疑の者もまだ多かったが、私は事実なのだろうと思う。

 なぜなら、思い返せば新年の休暇に入る少し前に、麗質リージィが帯を手直ししていたからだ。皇帝に命じられたと言っていた。

 あれは、多分お腹が膨らみ始めた黄貴妃の為に、妊婦用に圧力がかからないよう、帯を太くしていたのだろう。

 皇帝は口が硬く、腕が確かな麗質に頼んだのだ。


 この先、どうなっていくのだろう。霧で見えない道を進んでいるようで、恐い。





 仕事場である明天殿の脇に植えられた桃の木に、可憐な白い花が咲き始めたころ。

 春の足音を感じさせる季節は、宮城で行われる科挙の季節でもあった。


 年が明けて宮城に戻って二週間後のことだった。

 私は首席女官に呼ばれ、大和門の前に行った。

 そこには既に花琳ファリンもいて、若い女官十人ほどが呼ばれ、大和門の前に整列させられていた。

 まだ朝は気温が低いため、皆冷気に頰を赤く染めている。

 首席女官が彼女たちの顔を見ながら、大きな声で言った。


「もうすぐ科挙の最終試験である、殿試がいよいよ行われます。貴女たちには、今日はその準備を手伝ってもらいます」


 花琳をはじめ、集められた女官たちが黄色い声を上げ、色めき立つ。

 静かにしなさい! と首席女官が叱責するが、あまり効果がない。

 不思議に思って前に立つ花琳に尋ねる。


「どうしてそんなに喜んでいるんですか?」

「やぁね、当たり前じゃない! 運が良ければ高級官僚と知り合えるのよ?」


 話が飲み込めない私のために、花琳が説明してくれた。

 科挙は数段階に渡る試験がある。

 予備試験が州ごとに数段階に分かれて行われ、まずは州毎の成績上位者が選ばれる。

 州単位で行われる試験をくぐりぬけると、次は帝都で開催される省試を受けなければならない。

 省試を受けるだけでも、大変狭き門を突破する必要がある。

 その省試を晴れて合格した者たちが、官吏候補生となる。

 最終試験は宮城で皇帝立会いのもと、実施される殿試になるが、これは順位決めのためだけの試験だった。

 殿試は不合格者を出さない。

 つまり、省試に合格するということは即ち、官吏への切符を手にしたも同然だった。

 その為省試に合格すると、突然地域の有力者たちがお祝いの品を持って、合格者たちのもとに挨拶に来るのだという。

 官吏は大多数が貴族の推薦により採用され、その子弟が独占する。

 貴族階級にない者たちが朝廷の一員として食い込むのは、春帝国でもそれほど大変なことなのだ。


 行政組織である三省六部のうち、官吏の人事を担当するのは吏部である。官吏登用試験を管轄するのも吏部であるが、その吏部は答案や試験関連の事務で忙殺されるため、その他の雑務のために、毎年若い女官が駆り出されるのだという。

 花琳はふふっと笑った。


「殿試のあとは、宮城で祝宴も開かれるの。余興として女官が舞を見せるんだけど、舞の後に合格者たちと一緒に宴に参加していいのよ。この時、殿試合格者と頑張って親しくなって、射止めるのよ」

「そんなに上手くいきますか?」

「大丈夫。毎年、何組か夫婦ができるんだから!」


 ようやく女官たちの騒ぎが下火になると、首席女官は大きく咳払いした。

 そうして何やらびっしりと墨で書き込まれた書類片手に、矢継ぎ早に指示を出し始めた。


「花琳、試験会場の物品搬入係を担当しなさい」


 花琳が絶句した。

 祝宴係ではないようだ。

 次に首席女官は五人の女官の名を呼んだ。


「祝宴の舞を担当しなさい」


 五人が快哉の声を上げ、それに対して花琳は切ない表情を浮かべる。

 冷静に見れば、特に見栄えの良い女官を上から五人選んだようだった。割と露骨である意味、切ない。


「珠蘭は試験会場の設営係を担当しなさい」


 各人が仕事を割り振られると、皆命じられた殿舎に向かった。

 私は試験が行われる、集智殿に向かった。

 集智殿は外廷にある。




 集智殿は四角い陶板が床に敷き詰められており、仕切りがほとんどなく、中はだだっ広かった。

 既に前方には長卓がいくつか並べられ、その間を官吏たちが忙しそうに動き回っている。

 近づくと見覚えのある人物がいた。

 戸部侍郎の梓然ズレンだ。

 無駄遣いがないか、見張りにきたのだろうか。

 梓然は私と目が会うなり、大股でこちらに歩いてきた。


「珠蘭、もしや試験会場設営の担当か?」

「はい。そう命じられました」

「それは頼もしい。設営の監督は私だ」


 なぜだ。

 戸部がどうしてしゃしゃり出てくる。

 私の疑問は顔に表れていたらしく、尋ねずとも梓然は説明してくれた。


「実は今回、私は試験監督に選ばれたのだ」


 梓然はそう言うと大判の紙を広げ、卓や灯籠の配置図を見せてくれた。

 どうやら搬入担当が運び込む物品を、この通りに配置していかなければならないらしい。

 それぞれの卓上にはすずりや筆も置かなくてはならず、位置と本数、そしてその種類も決まっていた。

 まだ物品搬入が一部しか済んでいないため、私たちはまず前方に並んだ卓の支度を始めた。

 一台ずつ両手で揺すり、卓のガタつきがないかを調べる。ガタつきがある場合、粘土を脚の下に詰める。


「ここまで徹底するんですね」


 膝を床についてガタつきを直しつつ、何気なく呟く。すると卓上に紙を配っていた梓然が、答えてくれた。


「殿試での順位は、採用後の役職に直結するんだ。官吏人生をどう開始できるか、つまり一生の出世進退が決まると言っても、過言ではない」


 丁寧に粘土を詰めていると、梓然が隣に膝をついた。

 私の左手の粘土を奪い、塊ごと長卓の脚に押し付ける。


「ほんの少しのガタつきが、試験結果を左右する」


 再び腰を上げると梓然は先頭の卓から一冊の冊子を持ってきた。

 それを私の前で広げて見せてくれる。

 表と裏には格子模様の布が貼られた硬い表紙がついており、中の長い紙は蛇腹式に折り畳まれていた。

 紙面には細かいマス目が描かれている。


「これが答案用紙だ。指定字数を超過しても足りなくてもいけない。尚且つ、一発勝負だ。字の美しさも問われる」


 受験生には、下書き用の紙が配布される。その枚数も決まっており、更には下書きすら回収され、採点対象になるのだという。


「大変なんですね」

「いやいや、殿試までくれば楽なものだ。もっと大変なのは、その前に行われる省試だな」


 梓然は陶板の床の上で粘土を練りながら、どこか懐かしむように言った。


「省試は過酷だ。試験の間は何日も会場に缶詰になる。不正防止の為に、下着に至るまで検査されるし、饅頭の中まで調べられる」

「みなさん、合格する為に必死ですもんね」


 それを勝ち上がり、殿試で首席となった梓然は天才だったのだろうと、改めて実感する。

 梓然は粘土をこねる手を止め、ふと宙を見つめた。


「その殿試で、かつて白紙回答をした者がいたと言われている」

「えっ、本当ですか? なんて勿体ない」


 梓然の双眸がゆっくりと動き、私を見た。


「君のいとこの、蔡 俊熙だ」

「えっ?」


 なぜ俊熙の名がここで登場するのか、分からない。

 激しく瞬きをする私に、梓然は顔を寄せて小さな声で続けた。


「前回――三年前の省試を首席で合格したのは、蔡 俊熙だった。だが彼の名は、殿試の合格者名簿である金傍には乗らなかった。理由は公にはされていないが、白紙回答したというのが専らの噂だ」

「そんな……、どうして?」


 以前俊熙は一度だけ科挙を受けた、とは言っていた。だがまさか殿試まで来ていたなんて。


「何も回答出来ないほど、よほど三年前の殿試の問題が難しかったのでしょうか?」

「たしかに三年前の殿試は首席に誰も選ばれなかった。だが、俊熙は省試を首席で通っているのだから、何も回答出来なかったとは考えにくい。――しかも、省試は身体試験もある。男しか受験できない」


 梓然はそこで言葉を切った。

 ――だから。

 男しか受けられないはずの省試を、当時俊熙は受けられていた。

 少しの沈黙の後、梓然は言った。


「彼が宦官として皇帝に採用されたのは、殿試の直後だ。そもそも彼はなぜ宦官となる道を選んだんだ?」

「私も知らないんです。私はずっと華王国にいたし、本人にはとても聞けなくて」


 俊熙のことをもっと知りたい。けれど本人は踏み込まれたくない理由があるのかもしれない。

 何しろ、自分からは話してくれないし。

 梓然は呟いた。


「省試と殿試の僅かな期間に、何かがあったんだろうな」


 殿試を蹴ってまで、俊熙は宦官に?

 なぜ、俊熙は宦官になることを決心したのか。

 私は立ち入って聞くことが出来ないその疑問を、今まで彼の前では打ち消していた。

 でも謎は膨らむばかりだ。

 梓然は手にしている回答用紙で、口元を周囲から隠すようにして、言った。


「蔡侍従から、何か錦廠の話は聞いたか? 本当は陛下が、悪行を重ねるおおもの官僚を摘発する為に、錦廠に蔡侍従を異動させたのではないか?」


 どうやら俊熙の仕事に疑問を抱いていたのは、私だけではないようだ。


「俊熙は仕事の話を家でしないんです」

「家庭に仕事を持ち込まない主義なのだな」


 もやもやと考えながら会場設営を手伝っていると入り口付近が突然賑やかになった。

 見れば卓や椅子を抱えた官吏たちが、ぞろぞろと入ってくるところだった。男性達に混ざり、花琳もいる。

 花琳は両手に布の大袋を抱えていた。

 私を見つけるや、真っ直ぐにこちらへやって来る。


「ちょっと、聞いてよ! 折角綺麗なかんざしをつけて、とびきりの披帛ショールを掛けてお洒落をしてきたのに、衣が汚れる力作業ばっかり!」


 唇を尖らせながら、花琳は袋の中からどさどさと墨と蝋燭を出した。


「良い男は一人もいないし、ひとづかいが荒いのよ! 珠蘭の担当には梓然様がいらっしゃるのよね。妄想し放題じゃないの。ある意味、羨ましいわ」

「妄想なんてしませんから……!」


 花琳は万春殿日誌の読みすぎだ。一体、どんな妄想をしているのだか。


「おおい、女官どの。お喋りは後にしてくれ! また倉庫にもどるぞー。まだまだ仕事は終わってないぞー」


 長卓を運び入れた他の官吏たちが、花琳を呼び戻す。花琳は私にだけ見えるように、目をグルリと回した。


「やれやれ。じゃ、行ってくるわ。お互い頑張りましょう」


 長卓だけで、全部で三百台あるのだ。

 気が遠くなる……。



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