第27話

 俊熙のやしきの前までくると、私はあっと声を上げてしまった。

 邸の前を通る道路を、傘をさした俊熙がこちらに向かって歩いていたのだ。彼は私を見るなり、駆け寄ってきた。


「暗くなってきたので、お迎えに行こうかと思っておりました」


 彼は私がさす傘を見上げて、瞬いた。


「その傘は?」

「戸部侍郎の梓然に借りたの」


 すると俊熙の表情が途端に曇った。


「梓然に、ですか?」

「一緒にいたわけじゃないわよ? たまたま鉢合わせしたのよ」


 俊熙はそうですか、と適当な相槌をうった。

 二人並んで邸の門まで歩くと、私はあっと声を上げた。

 門が飾り付けられていたのだ。

 布製の煌びやかな飾り布や、「迎春」と大きく刺繍がされた垂れ幕が、門に鋲で打ち込まれている。

 垂れ幕の端の飾り紐が風でひらひらと波打ち、美しい。

 その飾り付けに心が躍る。


「正月らしくていいわね。俊熙が飾ったの?」

「久しぶりに新年の飾り付けをしようと思いまして。今年は一人ではありませんし」

「ありがとう」


 私のために行事を盛り上げようとしてくれたその行為が、とても嬉しい。

 心がじんわりと温かくなって、笑顔で俊熙を見上げると彼も少し照れ臭そうに微笑み返してくれた。

 門扉を豪華にしているのは、俊熙の邸だけではない。

 周囲の家々も、それぞれ意匠を凝らした演出をしている。

 斜め向かいの家は子どもがいる家庭なのか、まだ手習いを仕立ての幼い字で、『迎春』やら『百福』やらと書かれた紙が門に貼り出されており、可愛らしい。


「皆、新年を迎える準備が万端なのね」


 ふと心の中に隙間風が吹く。

 私はこんな浮かれたことをしていて良いのだろうか?

 華王国は国が三分割状態に置かれ、年越しを祝える環境にない人々は数え切れないほどいるだろう。

 私には楽しんだりする資格はないかもしれない。


「どうなさいました?」


 黙り込んだ私を訝り、俊熙が顔をじっと見てくる。


「ご不安なのは分かります。でも少しでも今は忘れて、明るく過ごしましょう」

「うん、そうね」


 答えながら思った。

 こんな時に一人きりでなくて、本当に良かったと。




 その日の夕食は二人で作った。

 年越しを迎えながら食べるので、かなり遅めの夕食だ。

 主食は水餃子だった。

 年越に食べるものと言えば、私の故郷の華王国では餃子だったが、それはここ春帝国でも変わらないらしい。

 私にとっては初めての餃子作りだったが、俊熙が事細かに横から段取りを教えてくれるので、案外簡単にできた。

 ただし、皮を作るのは難しかった。たかだか皮、されど皮だった。

 一枚の円形の皮を作るのが、こんなに難しいとは正直なところ、思っていなかった。

 厚さも形も、大きさも統一するのが難しく、すぐに破れてしまう。しまいには皮作りは俊熙に一任してしまった。


 二人で包んだ餃子を、大きな鍋に入れる。

 ぐらぐらと煮えたぎる水面に、餃子が浮かんできたら、調理完了だ。

 焼いた鳥や野菜炒めと共に、水餃子を卓に並べる。

 水餃子のタレも、俊熙がにんにくを摩り下ろして作ってくれた。

 茹でた餃子をそのタレにつけて、頬張る。

 箸を進めながら、俊熙は話しだした。


大家ターチャは水餃子がお好きなんです。きっと今頃、たくさん召し上がっている」

「知らなかった! 後宮で仕事をしていても、陛下にはお会いする機会があまりないのよね」

「そうかもしれませんね。まぁ、内廷の端の方にもほぼいらっしゃらないですが」


 それは錦廠の位置する場所のことだろうか。


「錦廠に行ってからは、あまり陛下とお会いできないの……?」

「いえ、私は毎晩お会いしております」

「どういうこと? 毎晩錦廠に陛下がいらっしゃるの?」

「内緒です」

「何、なぜ内緒なの? 俊熙、あなた錦廠で何しているの?」


 箸を持ったまま卓を大回りし、俊熙の真横に座る。すると彼は大仰に仰け反った。


「ちょっと、近いですよ。そんなにくっつかないで下さい」

「何よ、失礼ね」

「失礼とかじゃなくてですね…」

「錦廠に来ない陛下と、毎晩なぜお会いしていたの?」


 顔を覗き込むと俊熙は目を逸らし、そっぽを向いてしまった。


「色々と仕事や雑用があるからです」

「仕事は掃除だと言っていたのに」


 俊熙はそれには答えず、コップを手にすると茶をごくごくと飲んだ。

 飲み終わって溜め息をつくなり、その漆黒の瞳が流れるように私に向けられる。

 その瞳がなんだか急に色っぽく感じられ、ほんの少し私はたじろいだ。

 反射的に遠ざかるように横にずれ、俊熙と距離を取る。


「ねぇ、錦廠の人って昨日ここに来た人みたいに、休暇中でも皆仕事をしているの?」

「――あっ。水餃子がもう最後の一つですよ?」


 露骨に話を逸らされた。

 見れば確かに餃子は残りあと一つだった。

 それに釣られたわけではないが、俊熙は何やら私に言いたくないことがあるみたいだった。

 しつこく聞くのもどうかと思われたので、追及を諦めて水餃子に手を伸ばす。

 モグモグと食べていると、俊熙が実に綺麗に笑った。


「美味しいですか?」

「うん、美味しいよ」

「また一緒に作りましょう」

「そうしましょう。私、特にこのタレが好きだよ。――舐めちゃいたいくらい」 


 本当に小匙こさじにつけて舐めようかと思い立ち、小匙に手を伸ばす。すると俊熙が素早くタレの小皿を私の前から奪い、卓の端に置いた。


「お行儀が悪いですよ。おやめなさい」


 仕方なく小匙を下ろす。

 俊熙は微かに苦笑しつつ、言った。


「それもまた作って差し上げます」

「お願いね」


 二人で食べる年越しの夕食は、和やかだった。



 明くる朝、つまり正月の朝は外から聞こえた爆発音で目が覚めた。

 あちこちから、何か空洞状のものが破裂するような音がする。

 しかも一度や二度ではなく、それが延々と続く。

 これは華王国でも同じだった。

 新年のお祝いは、各家庭が庭や通りで爆竹を鳴らすのだ。

 簡素な襦裙に着替えて階下に降りると、俊熙が待っていた。


「庭で爆竹をします。ご覧になります?」


 勿論、と答えると俊熙は青竹を持って外へ出た。

 前庭にこしらえた小さな焚き火に、節と節の間に切り込みを入れた青竹を放り込む。

 私たちが安全のために焚き火から離れると、青竹が破裂音を立てて次々に弾ける。


「凄い音ね!」


 両手で耳を塞ぎ、苦笑する。

 こうして爆竹の音で、年の始まりに邪気をはらうのだ。

 あちこちから上がる爆竹の音が完全に聞こえなくなるまで、私たちはそうして庭先に立っていた。

 俊熙が焚き火の後片付けを始めると、私は何気なく空を見上げた。

 そこには見慣れないものがあった。遥か上空、青空に筋を描くように、白っぽい何かが悠然と飛んでいる。


「俊熙、あれ何かしら?」


 しゃがんだまま顔を上げた俊熙に、より分かりやすいように空を指差す。


「ああ、あれは瑞獣雲ですよ。四霊のいずれかが、神仙山脈から別の神仙山脈に移動する時に発生する雲です」

「あれが……」


 話には聞いたことがあった。だが華王国の王宮からは見えたことがなかった。

 じっくり観察していると、それが白ではなく時折煌めく銀色だと分かる。

 銀色の細い何かが、空を北から南に横切るように飛んでいるのだ。


「飛竜の群れなのかしら?」

「そうかもしれません。新しい年に、新しい住処へ移るのでしょう」


 飛竜たちが遠く南の空の彼方に飛び去ってしまい、その銀の輝きが見えなくなっても、たなびくような細く白い雲が上空に残された。

 私はしばらくの間、その幻想的な名残りの雲を見つめていた。




 その後は、酒を飲んでゆっくりと過ごした。

 酒のアテは、なんと飴だ。

 歯固め用の飴である、膠牙餳こうがとうをたべ、健康を願うのだ。


 俊熙は結構な速さで酒を飲んでいった。

 小上がりに腰を下ろし、私が話す麗質や花琳の話を聞いている。彼は自分のことはほとんど話さなかった。

 そのうち酔っ払った俊熙は、頰杖をつきながら、空いた方の手で盃をあおった。

 首を傾けて下から私を見上げる俊熙のやや充血した瞳が、非常に艶っぽく見える。

 私も酔いが回り、気が大きくなってきたところで、ついに例の話題を切り出す。


「あのね、実は昨日、お祭りでお土産を買ってきたの」


 昨日帰宅後に棚の上に置きっぱなしにしていた、竹の小籠を手に取る。

 俊熙のそばに戻ると、おずおずと小籠を差し出す。緊張で微かに籠が震えている。

 俊熙が頰杖をついていた顎を、手から離した。


「それ、まさか籠餅ですか?」

「それ、あの。そうなの。華王国にはなかったから。だから、買っちゃったの」

「いや、そうじゃなくて。昨日買われた物ですよね。 もうお米がガチガチなのでは?」


 俊熙は竹の籠から視線を離さなかった。受け取ろうと手を伸ばしてはくれない。

 そのまま差し出し続けても意味がないので、私は俊熙のとなりに腰を下ろした。


「あのね、俊熙」


 続きを言うより先に私は籠の蓋を開けた。

 筒の中にはぎっしりと餅米がはいっていた。

 勇気を出して、言うしかない。


「あの、……い、一緒に食べない?」


 俊熙は黙っていた。

 私は中指と人差し指を籠に入れ、餅米を掬おうとした。ところが、米は冷えて互いにくっつき、上手く取れない。


「あれっ。かた……」


 一晩置くのは無理があったか。

 悪戦苦闘していると、俊熙が笑った。


「不器用ですね」


 籠の中から手を離すと、俊熙の手が伸びてきて指を突っ込んだ。

 彼は器用に三本の中指で餅米を取り出すと、そのまま手のひらで軽く丸めて食べてしまった。


(そうか、手で握って形を整えて食べるのか。そういえば、祭の人たちもそんな風に食べてたっけ)


 また一つ、春帝国の文化を学んだ。


 ――違う、そうじゃなくて。

 この餅米は、食べさせ合うことに意味があるのだ。

 籠に詰められた米は、平らな面が崩れたお陰で、もう取りやすそうだ。

 どきどきと心臓が鳴る。

 緊張しつつも、再度指先を籠に突っ込む。今度は上手く掬えると、少しの間身体が固まってしまった。手掴みの米を誰かに食べさせるのは、なかなか勇気がいる――。

 俊熙がこの言い伝えを知っていようと、いまいと、私は彼と二人で食べたかった。

 戸惑って見上げると、漆黒の瞳がどこか蠱惑的に私に向けられている。

 薄暗い居間で見るその美しい瞳からは、目を離すことが出来ない。


「俊熙、食べて……」


 そのまま手を、俊熙の口元に近づけていく。拒絶を恐れて、微かに手が震える。

 あまりの緊張に、息が止まる。

 俊熙は私を見つめたまま、私の手首に触れ、自分の口元に引き寄せた。

 俊熙の薄い唇が開き、私の手の中の餅米を口に含む。その瞬間、彼の唇に私の指先が軽く触れた。

 思わず引っ込めそうになるが、俊熙の手が私の手首を掴む力は思いのほか強く、動かせない。

 俊熙の柔らかく湿った舌が指に当たり、身体がかっと一瞬で熱くなる。

 手首が解放されると、私は竹筒を握りしめた。

 今度は俊熙に食べさせてもらわないといけない。

 でもそんなこと、何て言って頼めばいい?

 困った私は悩んだ挙句、筒を俊熙に突き出した。

 俊熙の手が筒に入り、餅米を掬う。

 その手が筒から引き上げられる瞬間を、私は逃さなかった。

 俊熙の手首をそっと掴み、自分の口元に更に引き寄せる。

 そうして彼の指先に乗る餅米の塊に、唇を寄せる。

 俊熙の手に唇が触れないよう気をつけながら餅米を口に含む。すると俊熙が呟いた。


「……男女が餅米を分け合って食べる意味を、ご存知ですか?」


 そういうと俊熙の指が私の唇をなぞった。

 びくりと体が震える。それを見て俊熙が薄く笑う。

 俊熙は私の耳元に口を寄せ、囁いた。


「詩月王女様は、宦官の私をからかっていらっしゃるので?」


 否定する為に首を左右に振るが、指をまだ私の唇から離してくれない。


「華王国を私が去る時、玉環を交換しましたね。――あの意味も、ご存知でしたか?」


 知っていた。

 いや正確に言えば、後から知った。

 あれは将来を誓い合う印なのだ。

 私が黙っていると、ようやく俊熙の指が口から離される。

 口に入った餅米をやっと咀嚼して飲み込む。

 その後で、私は俊熙をまっすぐに見つめて答えた。


「交換したことを、後悔したことは一度もないわ」


 私たちは束の間、言葉なく互いを見つめ合った。

 やがて俊熙は急に私の頰を両手で挟み、そのまま顔を近づけると私の唇に噛み付いた。


(なに、どうしたの?)


 私は咄嗟に、俊熙が怒ったのかと思ったが、一瞬後で違うと気づいた。

 それは、口づけだった。

 かなり乱暴な上に性急で、強く唇を押し付けてくるので、上半身が後ろに倒れそうになる。

 腹筋でなんとか転倒を堪えるが、幾度も唇の角度を変えられ、頭が朦朧としてくる。

 おまけに俊熙の唇は酒の味と香りがした。

 それに酔うように、私の頭の中が心地よさに霞みがかってくる。

 ぐらり、と俊熙の身体が傾くと、彼はそのまま崩れるように突っぷした。

 そうして横になったまま、動かない。


「えっ、ちょっと俊熙? どうしたの?」


 肩を揺するが反応がない。

 うつ伏せに横たわる彼の顔は横を向いており、覗き込むとなんと安らかそうに目を閉じている。


「寝ちゃったの!?」


 深い呼吸に合わせて、背中が上下している。

 戸惑う視界に、卓上に転がる数本の酒瓶が映る。

 あれたけ飲んだのだ。酔いつぶれてしまったのかもしれない。

 さっきまでの胸の高鳴りが、急になりを潜め、拍子抜けする。

 小上がりに転がる俊熙の横にしゃがみ込み、その顔を見つめた。

 石英を彫り上げたような美しい肌と鼻梁に、指を滑らせたくなる衝動に駆られる。

 私を置いて華王国を出て行ってしまった俊熙が、今はここに――こんなに近くにいる。

 見つめていると、胸から想いが溢れて仕方がなかった。

 あまりに苦しくて、ついそれを口にしてしまう。


「俊熙、あなたが好き」


 顔の横に投げ出された手に、そっと触れる。

 記憶を辿ると、私の傍にいつもいた頃、俊熙の手はもっとたおやかだった気がする。

 端の宮の石庭に座り、二人で話していた頃。石像に寄りかかって肘をかけ、拳を握っていた俊熙の手は、もっと白かった気がする。今ほど筋肉質ではなかった。

 私は改めて俊熙の全身を眺め倒した。

 手だけでなく、身体つき全体が、昔の方が線が細かった。

 私は小さな声で呟いた。


「ねえ俊熙。――あなた本当に宦官なの?」


 膝の近くに転がっていた小籠を取り、蓋を閉めておく。

 勿論返事はない。


「こんな所で寝たら、風邪を引いちゃうよ」


 少し大きな声を出して呼びかけるが、反応はない。

 仕方がない。二階から布団を持ってこよう。

 私は近くに置かれていた膝掛けを広げ、俊熙に掛けた。

 その後で一旦部屋に戻り、布団を抱えて降りてくると、俊熙の身体の上にかけてやった。



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