第26話
俊熙が貸してくれた黒い毛皮の襟巻きは、とても暖かかった。
昼過ぎに邸をでると、俊熙が門を出るところまで私を見送ってくれた。
「早めに帰ってくるからね!」
笑顔で手を振ると、俊熙は無言で頷きながら手を振り返してくれた。
大通りは大変な賑わいだった。
通り沿いに植えられた
所狭しと屋台が立ち並び、殆どどの屋台にも客が並んでいて盛況だった。
あちこちから煮炊きの湯気が上がり、人口密度の高さも手伝い、寒さも忘れる。
井戸の横の一際大きな
「ごめんね! 待ちきれなくて買っちゃったのぉ」
合流すると花琳は私に詫びた。
どうやら桃饅頭のようで、甘い香りが私の方にまで漂う。
花琳は
下に裳を履くのではなく、袖付きの長衣を羽織って身体に巻き付け、腰で縛ったものだ。
緑や赤色の生地を重ね、美しい。
「深衣もお似合いですね。宮城できているものと違って、新鮮です」
すると花琳はふふっと笑った。
「深衣は襦裙より身体の締め付けが少ないのよ。勿論、今夜たくさん食べるためよ」
麗質と二人で笑ってしまった。
私たちはお喋りをしながら、目ぼしい屋台に並んで食べ物を買っては、食べ歩いた。
麗質は熱い酒を片手に、普段はあまり話さない、家族のことを話してくれた。
「母がね、最近結婚しろと煩いのよ」
「あなた、婚約者がいたでしょ。官吏目指して
る」
花琳が蒸し芋を頬張りながら、相槌を打つ。すると麗質は眉をひそめた。
「もう何年も目指し続けているのよ。あの人、郷試すらまだ一度も受かっていないのよ」
郷試とは、州単位で実施される科挙の試験だ。
春帝国の官吏登用試験である科挙は、数段階の試験に合格しなければならない。
「幸い、父は次の郷試も突破出来なかったら、婚約を破棄しようと言ってくれてるの」
「まぁ。厳しいのね。科挙って三十過ぎてからやっと受かる人ばかりなのに」
「私も受けてみたいわ」
ぼそり、と麗質が呟いた。
花琳が芋にむせたのか、咳き込みながら言う。
「えっ? まさか科挙を?」
麗質は飲み干した小さな盃を見下ろしながら、言った。
「そうよ。だってどうして男しか受けられないのかしら。女だって官吏になることができるべきよ。男だって宦官になって後宮にすらいるじゃないの」
花琳は何言ってるの、と流していたが、私は麗質の発言に驚かされた。
私は科挙を男しか受けられないことを、おかしいとすら感じたことがなかった。だが麗質は違ったのだ。
感心していると、花琳が私に聞いてきた。
「ところで蔡侍従って、休暇の時は何しているの?」
「ええと……。そうですね、仕事してました」
昨日の様子を思い出しながらそう答えると、二人は同時に反応した。
「仕事!?」
「はい。梅屋の涼粉を食べながら、書類を読…」
「涼粉!? 随分季節外れなものを食べるのね」
だって、売っていたのだから仕方がない。
夕方近くになると、更に人出が増えた。
見世物も増え、通りに設置された臨時の舞台上で、舞が始まる。
大きな銅鑼の音に合わせて、龍を象る長い張りぼてを被った男たちが、前から順番に跳躍する。そうすると大きな一匹の龍が、本当に宙を泳いでいるように見えた。
年越祭に詰めかけた人々は、それぞれ家族連れや友人どうしなど、色々な組み合わせだった。
だが不思議なことに、若い男女で来ている人たちはなぜか必ず手に小さな
取っ手つきの筒状の籠に、蓋が被せてあるものだ。
(――あ、まただ。あの二人も籠を手にぶら下げている)
向かいから歩いてくる男女も、男の方が籠を手にしている。
「あの小さい籠って何ですか?」
隣を歩く二人に尋ねると、花琳が活き活きと教えてくれた。
「あれはね、小籠に蒸し餅米が詰まっているのよ。竹を組んだ籠に入っているから、とてもいい香りがするの」
「炊いているんじゃなくて、蒸しているんですか?」
「そう。餅米を半日くらい水に浸けた後、蒸すのよ。華王国にはなかった?」
私がなかった、と答えると麗質が口を挟んだ。
「春帝国でも、お祭りの時にしか見かけないわよ。でもね、年の始まりに愛し合う男女が一つの籠餅米を分け合ってお互いに食べさせると、その年はずっと一緒にいられるって言い伝えがあるの」
「なるほど!」
だから男女が一つの籠を持っているのだ。
大通りには、屋台で買ったものを座って飲食する為の場所も準備されており、ひらけた場所に簡易な木の長椅子がいくつか並べられていた。
付き合いたてのような、若く初々しい男女がその一つに腰かけ、籠を開けている。
女は籠に手を突っ込むと、米を指先で掬い上げ、恋人の口に運んだ。
「あの人、手で食べているけど…」
「ええ、籠入りの蒸し餅米は手で食べるのが習わしなの。普通に炊いた米と違って、そんなに手にも付かないのよ」
米を手で食べるなんて、信じられない。
面白いなぁ、と純粋に感じた。
これが文化の違いというものだろう。
屋台巡りをしている内に、気がつけば空が赤くなり始めていた。
雲ひとつなかった空に、分厚い雲がかかり、雲を赤く染めている太陽を隠している。
寒さで冷たくなっている手で熱々の
甘く柔らかいフワフワの生地が口いっぱいに広がり、身も心も暖かくなる。
次の一口では中から肉がゴロゴロと出てきて、噛むほどに肉汁が溢れ、濃厚な風味が鼻腔に広がる。
生地の甘さと肉の塩っぱさという、二重奏が堪らない。
「珠蘭ったら、美味しそうに食べるわねぇ。今度、私が包子を作ってあげるわ!」
「本当ですか? ……楽しみにしてます!」
照れ臭く感じつつも、美味しさと温かさに頰が緩む。
気がつけば空からひらひらと雪が舞い降りていた。
暗くなりかけた街路樹にぶら下がる、無数の灯篭の明かりがぼんやりと浮かび上がり、その間を白い小さな雪片が舞う。灯篭のすぐ近くを舞い落ちる短い間だけ、雪片が明るく輝き幻想的だ。
寒さも一層増し、私たちはそろそろ帰ることになった。
自宅の方向が違う麗質や花琳と別れると、三人で歩いてきた大通りを今度は一人、逆流する。
雪は止みそうになかったが、混雑ぶりは相変わらずだった。皆、雪などものともせず、祭を楽しんでいるのだ。日没が近いからか、気温は更に降下してきた。毛皮の襟巻きを顎先まで上げ、何とか暖を取る。
一人になると急に寒さを感じるから、不思議だ。
顔にかかる雪を避けようと俯いて歩いていると、正面から来た人と肩がぶつかった。
私の方が軽かったらしく、転びそうになる。同時に相手がさしていた傘が、地面に転がる。
「失礼っ…」
手を貸そうと差し出しながら詫びかけてきたのは、思いもかけない人物だった。戸部侍郎の梓然だ。
緑色の長い袍の上に、毛皮の縁取りがされた羽織を着ている。
「珠蘭じゃないか」
彼はさっと周囲を見回した後で、私を覗き込んだ。
「一人か?」
「いいえ、さっきまで麗質さんと花琳さんと一緒でした」
それより、戸部侍郎殿こそ、お一人か。
「もう帰るところなんです」
「そうか。――傘は持っていないのか?」
「持ってません。走って帰ります」
すると梓然は落ちていた傘を拾い、私に手渡した。
「それならこれを使うといい」
「そんなことをしたら、戸部侍郎様が濡れます」
「私の自宅はここからすぐ近くなのだ。気にするな」
私の滞在している家もすぐ近くです、と言いたいがそんなことで張り合っても仕方がない。
どう遠慮しようかと迷っていると、梓然はあらぬ角度から私を説得し始めた。
「君は妙に色白で痩せている。雪に濡れたりしたら、寝込むんじゃないか?」
言葉を選ばないところは、相変わらずのようだ。
宮城だろうが街中だろうが、梓然は梓然だ。
梓然は私の右手を取ると、その中に傘の柄を押し付けてきた。
「天下の春帝国宮城に勤める女官だろう。体調管理も仕事のうちだぞ?」
そう言うなり、梓然は私に反論の機会を与えることなく、雑踏の中に去っていった。
梓然の傘を借りて歩き始めると、やがて私はある屋台の前で足を止めた。
蒸し餅米の屋台だった。
若い男女の客たちが列をなして並んでいる。
店主は湯気の立つ竹の小籠を、次々と売り捌いている。
周囲に誰も知り合いがいないことを確認すると、私はその列の最後尾に並んだ。
私以外の客は皆、男女の組み合わせなので少し肩身が狭く、恥ずかしい。
――誰に買うの?
――誰と食べるの?
自問しながらも、気づけば私は蒸し餅米を購入していた。
買った小籠を、隠すように抱えて一路、家へと急いだ。
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