第10話
私は叫びも暴れもしなかった。
頭の中は疑問符で埋め尽くされ、何が何だかさっぱり分からなかったから。
私は肌着を奪われると、落ち葉に転がった。
「どうして、俊熙。貴方、本当に俊熙なの?」
こんなに無礼を働く彼を、知らない。
信じ難いけれど、顔も声もどう考えても俊熙そのもの。
彼は私から背を向けたまま、鞄から何やら取り出すとこちらに突き出した。
――折り畳まれた服だ。
「こちらにお召し替えを」
替えるも何も、既に脱がされている。
言われた通りに、その簡素な袍に身を包む。
俊熙のものだからか、丈が全く合わない。
手は袖から出ないし、足は裾を踏みつけている。
私は俊熙の背に話しかけた。
「なぜここにいるの? 俊熙。春帝国に行った貴方が……」
「黒龍国が華王国に対して侵攻を続けていることは、春帝国にも聞こえていました。王都が陥落するのは時間の問題だと、一月前から言われておりました。私は貴女を探しに国境を越えたのです」
「私を助けに来てくれたの?」
俊熙は振り返った。
彼が私と別れた十六の頃より、背が伸びて面差しは細くなっていた。黒曜石の瞳はそのままの美しさで、けれどかつての温かみは今はない。
「呑気な事を仰る。
「も、勿論よ。――それにしても、よくここが分かったわね」
「馬が森の周りをうろついていました。毛並みの良い馬でしたので、高貴な方の馬だとすぐに分かりました。そのすぐ後で、私を誘うように木々に分け入っていく大きな目立つ鳥を見たのです」
俊熙は自分の手を腰に当て、宙を睨んだ。そうして少し考えるような仕草をした後、再び口を開いた。
「見たことがないほど尾が長く、不思議な色の――そうですね、まるで鳳凰のような鳥だったので、すぐに追いました」
鳳凰?
それなら私も見たかもしれない。
だが黙っていると俊熙が続けた。
「ここに案内するような仕草でした。ですが貴女を見つける少し前に、見失いました。――鳳凰を献上できれば、皇帝陛下は喜ばれたかもしれないのですが」
私も、鳳凰をここで見た。
そう伝えようかと思ったが、鳳凰を捕まえる為に置いていかれたら困る。
もしかしたら今の俊熙には、私より鳳凰の方が価値があるのかもしれない。
俊熙は私をしっかりと見つめながら、予言のように言った。
「華王国の王宮は、落ちました」
分かっている。
私の生まれ育った場所は、黒龍国の兵士たちに制圧された。王都は今頃黒龍国の支配下にあるのだろう。
敵兵たちが民家に押し入ったり、略奪行為に走っていないことを、祈るしかない。
「
「どうしてそう思うの……?」
「現国王は人望がない。有能な家臣もいない。周辺の軍閥に呼びかけても、呼応する可能性は低い。軍閥は得てしてすぐに寝返るものです。情勢を読むのに長けています。――価値のないものを守るほど、馬鹿ではありません」
俊熙は長年華王国の王宮に勤めていた。けれど彼の口調は冷たいまでに冷静だった。
その単調さに、かえって現実を突きつけられている気分になる。
「でも……湖東州の軍閥は大きいわ。弟の妃の一族が束ねているの」
まだ可能性はあると信じたい。
決して弟が心配なのではない。
ただ、私の父も祖父も、華王国の国王であり、華王国は先祖が作り上げ、守ってきた国だ。私はそのことを名誉に感じてきた。
たとえ端の宮の王女であったとしても。
「短期的には、湖東州で持ち堪えるかもしれない。ですが早晩自滅するでしょう」
「国王は、……捕まったらどうなるのかしら?」
「妃もろとも斬首でしょう。恐らくその係累も同じ扱いを受けます。結果、華王国は滅びます」
男系子孫を残せば、王統を主張する者がその中から現れる。
女系子孫を残せば、その中から復讐する者が現れるのが、この大陸に登場しては消滅していった王朝が辿った歴史だ。
この華王国を建国した私の先祖も、元を辿ればかつて滅ぼされた王家の女系子孫の男だった。前王朝の最後の王を倒し、国名を華王国と変えて初代国王となったのだ。
長過ぎる袖を、固く握り締める。
はらり、と一枚の枯れ葉が頭上の木から落ちてきた。音もなく地面に舞い降りる。
あらゆるものに終わりは来る。だが、それがなぜ、今なのだ。
「今後、華王国の王女を名乗るのは危険なだけです。特に貴女は血筋が良すぎます。生き延びたければ、その名をこの先使わない方がよろしいかと」
そう言うなり歩き始めた俊熙を、慌てて追う。
財宝を脱ぐと身体は軽くなったが、そう簡単には諦めきれない。
木の根元に落ちている肌着を未練がましく見やると、俊熙は言い放った。
「あんなものを持っていたら、確実に疑われますよ。生きたければ、置いていくべきです」
苦渋の思いで私は肌着から目を逸らした。
少し歩くと、馬が木に繋がれていた。
俊熙が乗ってきた馬だろう。
馬の背に私を乗せる為、彼は私を抱き上げた。
「何を握っているのです?」
俊熙は私の手の中の環飾りに気がつくと、それを片手で強奪した。
その木製の環りを見とめるや、微かに眉根を寄せる。
「俊熙、これを覚えている?」
俊熙は答えてくれない。
無言で環飾りを返してくれると、私を鞍に座らせる。
続いて俊熙も後ろに跨った。
「ねぇ俊熙、貴方今までどうしていたの?」
振り返ると俊熙は私の手を馬の鞍に誘導した。
「説明は後に致します。本来、瑞獣の森に長居してはいけません。不可侵の神聖な森なのですから」
この森は瑞獣である四霊の住処だという伝説がある。
古来より、神仙山脈に人は足を踏み入れてはならない、とされていた。
だが非常事態だったのだ。四霊も許してくれると思いたい。
俊熙は馬を走らせ、森の外を目指した。
森を出ると荒涼とした険しい山道が続いた。
山肌に沿って作られた簡素な道はとても細く、一歩間違えれば片側に広がる崖に転がり落ちそうなほどだ。
遥か下まで切り立つ崖の下を見つめていると、気が遠くなりそうだった。
時折、目を凝らすと崖下に布切れが落ちていた。
最初はそれが何だか分からなかったが、やがて察した。
それは、崖から落ちて不運にも命を落とした者達の亡骸に違いない、と。
ここから落ちれば、誰からも引き上げてもらえないのだ。
「……俊熙、ほかに道はないの?」
恐ろしくて、身体が小刻みに震える。
生きた心地がしない。
こうして俊熙に助けてもらったのに、みっともない。
王都の民が、黒龍国の兵たちに放火や掠奪をされているかもしれない。そんな時に、王女である私が、崖が怖いと震えるなんて許されない。
鞍を握る手に力を込め、震えを止めようとしても、上手くいかない。力を入れると、余計に大きく腕が震えるのだ。
俊熙は少しだけ馬を山肌の方に寄せた。
「国境を越える道は幾つかありますが、これが一番早く、短いのです。難所続きですが、村も点在していますし」
「そうなの? こんな不便な所に住む人もいるのね」
「貴女は王女でしたから、何もご存じないのです。恵まれた身には、過酷な旅になりますから、お覚悟を」
その口調には間違いなく棘があった。
彼が下男として王宮にやったきた九歳から十六歳まで、多くの時を共にした筈なのに、今の俊熙からはその名残を感じることができない。
彼がいなければ、今頃森で鳥達の餌になっていただろう。命の恩人だけれど、俊熙がどういうつもりで私を春帝国に連れて行こうとしているのか、分からない。
とは言え、ここで置いていかれたら確実に死ねる。
山を登りきると、俊熙は馬首を後ろに向け、来た道を振り返った。
険しく荒々しい山道の下に、緑豊かな森が広がり、さらにその先は華王国の小さな村々が見える。
「この山の頂が国境です。ここを越えれば、華王国ではなくなる」
俊熙はわざわざ振り返って、私に華王国を見せてくれているらしい。
鞍から手を離すと、指が痺れている。背を伸ばしてよく眼下を見渡す。
王宮はここからは到底見えない。
大切な人々の安否もわからない。
「ここからは貴女は、華王国王女の李 詩月ではなく、春帝国の蔡 珠蘭として生きて下さい」
「蔡……珠蘭?」
蔡は俊熙の苗字でもあった。
「私の親戚の一人が、華王国の広砂州におりました。彼女の名前です。去年亡くなりましたが、戸口(戸籍)の調査は三年に一度ですから、当面ばれたりはしないでしょう。そもそも華王国は戸籍の管理が杜撰ですから」
戸籍調査は徴税の為に行われる。
各世帯の構成員とその人数を調べるのだが、存否しか問義されない。地方にいくほどその手法や結果はいい加減で、実態とは乖離しているのが常だった。
そしてそれは脱税や横領にも直結していた。
父が長年解決に頭を悩ませていたこの問題が、逆に私の身を助けるとは。
「珠蘭は十六歳でしたが、貴女は十分そのくらいに見えますので、心配ありません」
「俊熙は今、春帝国の帝都に住んでいるの? お願い、帝都に私も連れて行って貰えない?お祖母様がそこにいるの」
「……住所はお分かりですか?」
祖母は春帝国から華王国に嫁いできた後、王妃だった娘――私の母が亡くなり、嫁ぎ先が没落すると、春帝国に戻ったのだ。
春帝国の帝都にある、実家の旧親王邸に身を寄せたと聞いている。
分かる、と頷くと俊熙は首を縦に振った。
「帝都までは険しい。途中で根をあげないで下さいね」
「鈴玉は、王都を出るときに落馬してしまったの」
「きっと、無事ですよ。端の宮の王女の侍女にまで、黒龍国もわざわざ手出しはしないでしょうから」
「お兄様とは、行き違いになってしまって、お連れできなかったの」
「貴女は今は、自分が生き延びることだけを、お考え下さい」
そう言うと俊熙は馬首を再び元に戻し、山を越え始めた。
まもなく私たちは頂を越え、呆気なく国境を越えた。
その先は、険しい景色が広がっていた。
急峻な崖が続き、その麓には吸い込まれそうなほど深い青色の湖があり、崖を侵食している。
顔を上げれば晴天に突き刺すように、高い山々が連なり、行く手を阻んでいる。
まさか、あれを越えて行く?
気が遠くなりそうだ。
崖を下りるのは、心臓に悪かった。
馬が幾度も脚を滑らせ、その度に砂利が転がり落ちて行く。
「俊熙、怖い……」
歯の根が合わない中で、つい弱音を漏らす。
「下をご覧にならないで。いっそ目を瞑っていて下さいませ」
試しに瞑ってみたが、視界を失うのは余計に恐ろしい。
あとはただ、風にはためく馬の
崖を降りるとそこから先は草原だった。
幅の広く、浅い川が流れている。
俊熙は馬から降りると、水筒に水を汲み始めた。
私も馬を降り、彼を追う。
俊熙は川岸で水筒に溜めた水を、ゴクゴクと飲み始めていた。
私が追いかけてきたことに気がつくと、彼は水筒を口から放し、それを私に差し出してきた。
無我夢中で飲んだ。
私たちをここまで懸命に連れて来てくれた栗毛の馬も、川に鼻先を突っ込み、必死に水を飲んでいた。
草原を進むと、小さな村があった。
簡素な木造の家屋が点々と並び、痩せた山羊の群れが村に放し飼いにされている。
霧が漂い、どこか陰鬱な雰囲気を醸し出している。
中には殆ど崩れ落ちそうな家もあり、さすがに住人はいないだろうと思って見ていると、中から中年女性が現れ、軒先の鳥達に穀物の粒を撒き始めた。
鳥達は餌に集り、女性はそれを無表情に見つめている。
髪は後ろで一纏めにし、何の装飾もない。
膝丈の羽織ものを一枚、肩から掛けているだけで、腰帯は耳が裂け、糸が猛烈に飛び出ている。
胸元が露わになっているが、気にする素振りもない。
ふとその女性が顔を上げ、私達に気づく。
数秒ほど見つめたあと、取り立てて関心もなかったのか、何事もなかったかのように彼女は家に戻った。
俊熙は馬を一軒の家屋の前で止めた。
周辺の建物に比べれば、少し大きなもので、扉が外れた入り口の脇に、「宿」と書かれた古びた看板が出ている。
すぐに中から男が出てきた。
かなり色が薄く、茶色く畝る長い髪を、頭の上で纏めている。
「兄ちゃん達、国境越えかい?」
馬から降りると俊熙は答えた。
「そうだ。行きも世話になった」
俊熙の目の前まで来た男は、目を見張った。
「ああ、一昨日泊まってくれたお客さんか! もう帰るのかい。忙しないことで」
男の視線が馬上の私に移る。
目が合った瞬間、男はニタリと笑った。
「女連れで帰るのかい。兄ちゃんみたいな色男が、こりゃまた、意外だねぇ」
男はつかつかとこちらへ歩いて来ると、私の手を取り、馬から降りるのを手伝ってくれた。
近くで見ると、男の顔に細かな皺が刻まれ、皮膚がとても厚く硬そうだ。この地で生きる過酷さを垣間見た気がする。
幾つくらいだろう?
三十代半ばといったところか。
男は私の足が地面についても、しばらく私の手を握っていた。
「可愛いね。歳はいくつだい?」
「に、にじ…」
「十六だ」
間髪容れずに俊熙が口を挟む。
「へへへ。俺と二つ違いか。ここいらじゃ、あんたみたいに白くて、柔らかそうな頰の子はいないよ」
衝撃だった。
十八歳には、とても見えない。
私たちが与えられた部屋は、二階だった。
一階は経営者の私的な部屋と、食堂兼受付の広間から成り、二階に狭い廊下と客用の部屋が四つ。
どうやら客は他にもいるようで、隣の部屋からは赤ん坊の泣き声や、大人の話し声が漏れ聞こえる。
各部屋に扉などなく、窓の格子は破れており、風も吹きさらしだった。
家具は簡素な卓だけで、寝台などあるはずもない。
藁を積み上げた木枠が部屋の隅にあり、俊熙がそこを指差した。
「ここで暫く身体を休めていて下さい。私は馬の世話をしに行きますので」
藁の束を前に、私は硬直してしまった。
それは、藁に乗れという意味だろうか。
それとも、藁はどけるのだろうか。
「何をなさっているんです……?」
戸惑って結果、部屋の隅に座り壁にもたれた私を見下ろし、俊熙が呆れたように溜め息をつく。
「貴女は知らないだろうが、貧しい民は藁を寝台にします」
知らなかった……。
そのことを恥じ入りつつ、藁束に乗り上げる。
カサカサと藁が音を立てて、乾いた草の匂いが忽ち充満する。
藁はちくちくと手や足首に刺さり、決して快適ではない。
ただ確かに、お尻をしっかりと支えてくれて、座り心地は悪くない。
俊熙が部屋を出て行くと、私は身体を横たえた。
埃だらけの天井の梁が見え、耳の下に藁が刺さって痒い。
(休まなきゃ……)
目を閉じても、ちっとも緊張は解れない。
私は、なんと隔絶された恵まれた所にいたのだろう。
端の宮は、外界から遮断された、実に贅沢な箱庭だったのだ。
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