第9話

 暁鼓が打ち鳴らされ続けている。

 非常事態に気づいた民達で、通りは大混乱だった。

 荷車が衝突しそうな勢いで通りを行き交い、人々が忙しく走り抜ける。

 迷子になったのか、幼児が大きな口を開け、辻端で泣き叫んでいる。両手でボロボロの人形を胸に抱きしめて。まるでそれが、唯一縋れるもののように。

 その光景に心が痛むが、私は兄の元に向かうことを優先し、幼な子から目を逸らした。


(これでは、私や家臣達を見捨てて逃げた弟のユンと、大差ないわ)


 自分の中の、黒い気持ちに嫌気がさす。

 私はこの時感じた罪悪感を、生涯忘れないだろう。


 王都を北上するにつれ作りの建物は減っていき、やがて目に見えて閑散とした区画にたどり着く。

 地面に敷き詰められた通りの石畳は大半が欠け、馬が走る度に欠片が舞い上がる。

 古びて朽ちかけた建物が、累々と続く。

 時折吹く風が砂埃を立て、地面を霞ませる。

 更に進むと石畳が砂利と土に変わり、膝ほどまでの雑草が歩みを邪魔するようになった。

 王都の北側は酷く寂れているのだ。


「あれが、冷冷宮でございます」


 義明がその筋骨隆々とした腕を持ち上げ、一軒の建物を指差す。

 そこにあるのは、年季を感じさせる、八角の形をした三階建ての楼だった。

 私は今まで、冷冷宮に近づくことすら許されていなかった。

 その宮を前に、胸が一杯になる。


「お兄様が、ここに……!」


 馬を滑り降り、一目散に宮に駆け出す。

 履いている長い裳の裾に雑草が纏わりつき、歩きにくい。足元でくつに絡まる裳が煩わしく、片手でまとめ上げる。

 宮に上がる石の階段は割れ、グラついた。

 義明がすぐ隣にきてくれる。


「いつもは入り口に沢山の衛兵が居るはずなのですが」


 最早彼らも一人残らず逃亡したのか、私たちは誰に言い咎められることなく、正面扉の前に立った。

 塗料が剥げ、棘が剥き出しになった木の扉に、手を掛ける。

 蝶番が軋む音と同時に、扉が内側へと開く。

 私はゆっくりと中に入っていった。


「寒っ……」


 同行する兵士の一人が、思わずのように呟く。

 その名の通り、冷冷宮は異様に寒かった。

 おまけに寒いだけでなく、暗かった。

 兄は腹違いの弟から王位を簒奪しようと画策していた、との疑いをかけられて以来、もう私と十年も会っていない。

 私は無実だと信じている。

 濡れ衣を着せられ、こんな場所に十年も追いやられているのだ。

 私たちは次々にくしゃみや咳をした。

 まるで倉庫のように、埃っぽいのだ。

 まともに掃除がされていないのだろう。

 住むもののいない、四霊廟すら毎日清掃されているのに……。

 これでは、兄が健康でいられる筈がない。

 一階には大きな部屋と、木箱が積まれた倉庫、そして奥に炊事場があるだけだった。

 焦る気持ちのまま、二階に上がる。

 二階に上がるとすぐに部屋があり、その奥に大きな寝台が見えた。


シェン殿下の部屋か?」


 義明が首を傾げる。

 寝台の上には、白い紗の薄布が天蓋から床近くまで垂れているので、良く見えない。

 ここに、兄が?

 私は寝台に駆けつけた。

 最後に会ったのは、十年も前のことだ。

 あれから随分顔もお互い変わっただろう。

 興奮のあまり、薄布を捲り上げる手が震え、息が上がる。

 だが、そこには誰もいなかった。


「お兄様。――お兄様は、どこ?!」


 丁度三階を見に行っていた兵士が戻ってくる。


「上階にも誰もいません!」


 私たちは皆で顔を見合わせた。

 鈴玉リンユーが不可解そうに言った。


「既にどこかへ御身を移されたのでしょうか」

「分からん。いずれにしても、ここはもぬけの殻だ」


 義明は首を左右に振ると、外を指した。


「一刻を争います。仕方がありません。我々も王都を出ましょう」


 兄を、連れて行くことが出来ない。

 兄が、何処かに行ってしまった。

 黒龍国の手に兄が落ちれば、ただでは済まないだろうに。

 失望と絶望に胸を塞がれながら、義明の手を借りて何とか馬に乗った。





 王都を出る門は逃げ出そうとする人々でごった返し、脱出するのに時間を要した。

 ようやく外に出た私たちが振り返った時、王都のあちこちから火の手が上がっているのが見えた。

 火の付いた矢が射られ、宙を舞う。既に夜は明けていたが、燃えながら空を飛ぶ矢の揺れる炎が、まるで王都を襲う生き物の尾のように見える。

 黒龍国の軍隊が、押し寄せていた。



 私たちは西州の離宮を目指した。

 そこにも近衛兵達が常駐していたし、何よりまだ黒龍国軍の手が迫っていないはずだった。

 だが西州に向かうために通る近道の関所はすでに敵兵達に抑えられてあり、仕方なく別の道を選んだ。

 だがその道も既に敵の手の中にあった。

 まもなく私たちは黒服に白龍の刺繍がされた軍服を纏う、敵国の兵達に見つかり、雨あられと矢を射られた。

 半減した人数の中、命からがら西州に辿り着くと、既に離宮は敵の手に落ちていた。


 丘の上に立つ木造の離宮からは、狼煙のろしのようにドス黒い煙が上がり、美しかった瑠璃瓦は割れ散り、建物を囲うように立っていた楡の木は炎に包まれていた。

 目標だった場所が燃え盛る様子を、呆然と遠巻きに見つめるしかない。


「だめだ! こうなったら、春帝国に向かいましょう」


 義明が苦渋の決断をし、私たちは炎をあげる代わりに朽ちていく離宮を尻目に、方向転換をした。

 春帝国には私の祖母が今住んでいる。

 義明はそれを知っているのだ。

 もはや、隣国の祖母を頼るしかない。

 春帝国へ向けて走り出すと、離宮を張っていた敵兵に気づかれた。

 あっという間に距離を縮められ、そこからが地獄だった。

 同じ馬に乗る義明の背にその内の一本が当たり、彼は落馬した。

 鈴玉の叫び声がし、振り返ると彼女の乗る馬の脚に矢が刺さり、馬が崩れる。


「鈴玉!」


 自分の乗る馬を止めようとすると、鈴玉は両手をついて地面にから起き上がり、絶叫した。


「来ないで! 逃げて下さいっ!!」


 その渾身の願いに、従う他ない。

 歯を食いしばり、前を見据える。

 疾走する馬の手綱を固く握り締め、後はただ、運を天に任せた。





 どのくらい時間がたったのか、分からない。

 私は一度も振り返らず、駆け抜けた。

 馬の鞍に何万回も叩きつけられ、尻の感覚は既に麻痺している。まるで尻など存在しないかのように。

 春帝国と華王国の間には、神聖な森があった。

 四瑞獣が住むといわれている、不可侵の森であり、特にその中で血を流すのはご法度と言われていた。

 その森の中でなら、追っ手に殺されることはないだろう。

 国境越えの為に、私が敢えて選んだのが、神聖な森だった。

 森の中に入っても、私はただ前へと走った。

 森を抜け、祖母の元へ行くのだ。

 だが、方角すら分からない。


「逃げなくちゃ……」


 馬を失い、森の中を走り、転んだ。

 そうしてもう、起き上がれなくなった。

 私も力尽きたのだ。

 うつ伏せに転がっているので、鼻の下に落ち葉が入り込み、呼吸がしにくい。

 どうにか転がり、仰向けになると少しは楽になった。

 右手が背中の下に挟まったが、もう動かす気力がない。

 森は静かだった。

 この先、春帝国と華王国の間には、山脈が横たわる。

 もはやそれを従者なしに私が一人で渡り切れるとは、思えない。

 肩に掛けた布の鞄が、腹の上から滑り落ちる。

 兄からの手紙が、カサカサと音を立てた。

 手紙はいつも決まり文句で締めくくられていた。

「詩月。お前はいつも顔を上げ、笑顔でいておくれ。お前の周りにいつも、笑顔が満ちているように。それが私の一番の願いだよ」


(でもお兄様、もう笑う力もありません……)


 視界が霞んで行き、瞼が重く下がっていく。

 今はただ、纏う衣がひたすら重かった。



 意識が戻ったのは、何かに襟元を引かれたからだ。

 温かく、柔らかな何か。

 額に羽衣のような滑らかな物が当たる感覚があり、私は薄っすらと目を開けた。

 まず視界に入ったのは、丸い目を持つ、小さい頭だった。

 その大きさからして、隼か鷹かと一瞬思ったが、すぐに違うと気づく。


 隼や鷹などより身体つきが細いし、羽毛が長い。

 何より、色がおかしい。

 夕焼けのような橙色をしているのだ。

 長い尾を引きずるようにして歩き、その尾は日光に照らされた玻璃のように、きらきらと七色に輝いている。

 こんな動物を、見たことがある。絵の中で。


「ほ、鳳凰……?」

 

 目を剥いて喘ぐ。

 私を見下ろし、襟をつついているのは間違いなく、私が毎日廟の中の絵でその姿を眺めていた、鳳凰だ。

 その大きな緑色の瞳はどこまでも穏やかだ。


(ああ、天からのお迎えがついに来たのかしら?)


 非常に穏やかな高揚感に満ち、その中で再び意識が途切れた。




 次に無理やり目覚めさせられた時、事態は一変していた。

 低い男の声がした。


「おい、起きろ」


 私は銀色に光る黒い剣の鞘で、頰をはたかれていた。

 間違いなく、ここは天国などではない。

 白い霧が森の中を漂う中、その男は私の顔の泥をを乱暴に拭う。

 黒龍国の兵だろうか?

 虚ろな目で服を確認するが、男が纏うのは灰色の袍であった。

 大きな鞄を背負い、まるで旅人のような出で立ちだ。

 抵抗する力もなく、されるがままになっていると、男は私が纏う帯を斬り裂き、襦裙を脱がせ始めた。挙句に胸や腹周りを、男の手が無遠慮に撫で回す。

 まさかの展開に、ようやく抗議の声を上げる。


「や、めて」


 その時、男は私の名を確かに呼んだ。


「全部ここで、お捨て下さい。――貴女には重過ぎます。詩月様」


 茫洋として合わなかった焦点が、ようやく合う。

 私の衣服を脱がせようとするこの男は、誰なのか。

 私を見つめる男の顔を、見つめ返す。

 それは、思いもかけない人物だった。

 石英のように白く、滑らかな肌。

 彫刻のように整った顔立ち。

 絹糸のように艶のある黒髪。

 そして何より、その漆黒の双眸の持ち主は私が知る限りただ一人だけ。


俊熙ジュンシー……?」


 実に六年ぶりの俊熙が、そこにはいた。

 別れた時より更に背が伸びていたが間違いなく、彼だ。

 その精悍さが増した面立ちを、喘ぎながら凝視していると、彼は無表情で呟いた。


「ここで王女として死にたいですか? それとも全てを捨てて、生き抜きますか?どちらかをお選び下さい」


 投げ掛けられた問いが頭に入って来ず、しばし絶句する。

 動く体力も話す気力もないし、何より起きていることが理解出来ない。


「死……、」

「死にたいのなら楽に逝けるよう、私がお手伝い致します」


 俊熙の黒い瞳が、ひたと私に注がれ離れない。久々に再会した幼馴染みが、まさか死の使いだったとは。

 身体がぐらつき、上半身が倒れて再び地面に崩れ落ちる。

 危うく木の幹に頭をぶつけるところだった。

 俊熙はゆっくりと立ち上がり、惨めに横たわる私を睥睨した。

 冷たさすら感じるその美しい漆黒の瞳から、目が離せない。

 俊熙は剣を動かし、無様に転がる私の眼前にかざした。


「お選び下さい。貴女は王女様か、ただの詩月ですか?」


 悲しさと恐ろしさでいっぱいになり、剣先に目を釘付けにしたまま、片手で破れた帯を弄る。

 帯からぶら下がる玉飾りを探り当てると、私はそれをギュッと握りしめた。

 俊熙がなぜこんなことをするのか。


「やめて、お願い……」

「――ここにおいていかれるほうを望まれますか?」

「私、――死にたくない」


 俊熙は私の襦裙を掴むと、それを肌着ごと剣で一気に斬り裂いた。

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