第6話
その日を境に、俊熙は私の宮を去った。
挨拶もなく、胸が張り裂けそうに痛んだが、鈴玉が言うには俊熙は配置換えになり、給金が上がることになったらしいので、彼の為に喜ぼうと思う他なかった。
仕事に慣れたら、また会いに来てくれるだろう。
しつこく毎夕、石庭で俊熙を待ち続け、十日が経った。
今日も来れないのか、と諦めて岩の上から降りた時。
宮の陰から待ち望んだ俊熙が歩いてきた。
遂に彼が会いに来てくれたのだ。
「俊熙、久しぶりね!」
手を振りながら駆け寄ると、俊熙は恭しく膝を折った。
その出で立ちを見て、思わず目を丸くする。
俊熙は私が見たことがないほど、
だが今夜の彼は、まるで王宮官吏のような袍を着ていた。
袴の上に長い上衣を羽織り、腰を革帯で締めた俊熙は、私が知っている俊熙ではないようにすら見えた。
いつもは雑に髪を頭上に纏めているだけなのに、今夜の彼は綺麗な髷を結いている。そうしていると、彼の生来の器量の良さが更に際立つ。
よほど今の給金が上がったのだろうか。
喜ばしいようで、寂しい。
「ちょっと会わないうちに、随分雰囲気が変わったじゃないの」
「――今日はお世話になった皆様にご挨拶に参りましたので、礼を尽くしております」
私とお喋りをしに来てくれたわけでは、ないの?
俊熙のぎこちない表情に、私の笑みも消える。
「ご挨拶って?」
俊熙が頭を下げ、低い声で言った。
「本日をもちまして、華王国の王宮を下がらせて頂くことになりました。血縁者のおります、春帝国に引っ越すことに致しましたので。あちらで官僚を目指して、一からやり直します」
(えっ、何……?)
言われたことが、頭の中に入っていかない。
王宮を、やめる?
春帝国?
春帝国は華王国の西にある超大国だ。大陸の南にある島々にも領土がある、巨大な国だ。
皇帝がいるのだがまだ若く、前皇帝の伴侶であった皇太后が実際には帝国を支配しているようなものなのだという。
華王国より歴史も古く、遥かに豊かな国だ。
春帝国に出稼ぎに行く民は多いと聞くが……俊熙がそこに、行ってしまう?
そんなことが、あるはずない。
そう思いたくて、私はひきつる笑顔を浮かべた。
「王宮にもう来ないということ? 冗談よね?」
「申し訳ありません。本日で最後となります」
「どうして、そんなの……」
聞いてない。
聞いてないよ!
そう言いたかったが、出来なかった。
俊熙は私の持ち物ではない。
そんなことを言う権利も資格も私にはないのだ。
けれど、幼い頃から彼は私のそばにいて当たり前だった。近すぎて、息を吸うように当然のこと過ぎて、気がつかなかった。
――俊熙と離れるのが、こんなに心が痛いことだなんて。
彼が大切な人だということに、今更ながら気づいても、もう遅かった。
俊熙は私の傍にいることを、捨てたのだ。
私には彼が仕えたいと思う魅力が、なかったのだ。
そう思うと胸に激しい痛みが走る。
「こんなの急過ぎるわ……。もう会えないの? そんなの、嫌よ」
「お引止め下さるのですか?」
「当たり前よ。行かないでと行ったら、ここに留まってくれる?」
俊熙は答えてくれなかった。
ただ、黙ってその闇夜より尚暗い黒色の瞳で、私を真っ直ぐに見つめていた。
私は胸の前で両手を組み、懇願した。
「お願い、俊熙。どこにも行かないで」
俊熙の視線が下りていき、私の腰の辺りを見た。彼は私の帯からぶら下がる環状の瑪瑙の飾りを指差した。
「その玉環を、餞別として頂けませんか?」
餞別。
ということは、ここを去るのをやめてはくれないのだ。
王宮を去るという決意は硬いようだった。王宮どころか、華王国すらを出て行くなんて。
「本当に、行ってしまうの?」
「はい。もう変えられません。一年間悩み、遂に心を決めましたので」
そんなに前から悩んでいたなんて、知らなかった。そのことにも傷ついた。
毎日石庭で語り合い、私は何でも話していたのに。俊熙は心の内を殆ど明かしてくれていなかったのか。
痺れたように悲しい痛みを抱えながら、震える手で玉環を手に取る。
帯に結びつけている組紐を解いていく。ふと思いついて、提案する。
「もっと良いものが、部屋にあるわ。翡翠のをあげる」
俊熙を失いたくない。
ずっと一緒にいて欲しい。だから私は、浅ましくもどうにか時間稼ぎをしようとしていた。
だが俊熙は惑わされなかった。
彼はきっぱりと言った。
「いいえ。今お付けの物で結構です」
すげなく断られ、仕方なく瑪瑙の玉環を手渡す。
すると俊熙は彼自身が下げている飾りを外しだした。そうしてそれを私に差し出す。
「受け取って頂けますか?」
丸く茶色いその飾りは、木製のものだった。
何の彫刻もなく、王族や上級官吏ならば所有すらしないような、安価なものだ。
けれど私には、差し出されたそれは、黄金にも勝る価値があるように感じられた。
両手で俊熙の帯飾りを受け取ると、胸にしっかりと抱える。
俊熙はだまって私を見ていた。何か言わなくては、彼はもういなくなってしまう。
「私も……、お祖母様が春帝国にいるのよ」
「はい。存じ上げております。機会があれば、お訪ねします」
俊熙は深く息を吸い込むと、予想外のことを言った。
「詩月様。月の宴でご覧になった舞を、私に見せては頂けませんか?」
「舞踊は得意じゃないのよ?」
「存じております」
下手さを知っているなら、安心だろうか。
それも違う気がするけど。
私があの天女の舞を再現しても、何一つ心に響くものはないだろうに。
そう思いつつも、話して聞かせることが出来なかった十日前の悔しさが思い出される。それに別れに際して俊熙が見たいと言うのならば、下手くそであれ、見せてあげたいと思った。
腕に回している私の披帛は、あの舞台で見たような美しいものではないけれど。
そもそも身体の動きが何もかも違うだろうけれど。
それでも私は、あの天女の舞を私なりに再現しようと、懸命に心を込めて踊った。
ほんの短い時間だったが、舞を終えると俊熙は急に
もしや立っていられないほど、滑稽な舞だった?
少し不安になる。
「詩月様。本当にお世話になりました」
「顔を上げて、俊熙」
私の前で彼がわざわざ膝をついて頭を地面につけるなんて、もう長いことなかったのに。それはそれでどうかと思うが。
だがしばらく待っても、俊熙は顔を上げなかった。
その代わり、彼は言った。
「上げられません。立てば貴女を抱き締めてしまいそうで」
聞き間違いかと思った。
息を詰めて続きを待ったけれど、俊熙は無言で跪いたまま。
「お願いよ俊熙、どうかこのままここに……」
尚も懇願する私を遮るように、俊熙は小さな声で呟いた。
「詩月様。いつか、必ず身を立て、名を上げます。貴女のために」
「それは華王国にいては、できないの?」
「申し訳ございません。……必ずまた戻りますから」
俊熙がよその国に行ってしまう。
私の胸は悲しみでいっぱいだった。
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