第5話

 清雅国へ旅立ち、急転直下のとんぼ返りをしてから、およそ一月後。

 私が華王国の王宮に再び戻ると、女官たちの態度は少し予想外なものだった。

 彼女たちは国王やその取り巻きの目を盗んでは、私のもとにかわるがわる現れ、私の手を握った。


「詩月様、破談となり本当に良うございました」


 彼女たちは声を震わせ、私の出戻りを喜んでくれたのだ。とりわけ年長の女官は目に涙すら溜めていた。


 だが、弟の国王だけは違った。

 まだ十一歳の彼は、己の外戚でもある宰相を連れ、ドスドスと床板を踏みならして登場した。

 おそらく、床の螺子ねじが何本か飛んだに違いない。

 王宮についたばかりで、土埃だらけの衣を脱ぐ間もない私は、苛立ちながらも弟の前に跪いた。


「まるで疫病神ではないか! 姉上はまさか清雅国の国王を、呪殺したのではないでしょうね?」

「まさか! 違います」


 その後も国王は癇癪が治らない子どものように甲高く喚き散らした。

 思い描いた計画通りに事が進まず、怒りが収まらないようだった。


 長時間馬車に揺られて、心底疲れ切っていた私は、それこそこの不出来な弟を呪い殺したい思いでいっぱいだった。





 私が出戻ってから、一年が過ぎた。

 相変わらず私の宮はひっそりとしていて、寂しかったけれど、いくつかの変化があった。

 まず右将軍の匡義カンイーが時折、私を訪ねてくれるようになった。

 彼は我が華王国の長年の敵、黒龍国に遠征に行って帰還するたび、私に手土産を持って来てくれるようになった。

 それは珍しい果物だったり、玉で作った小像だったり。

 そしてもう一つの変化は、私が子ども時代を終えたことだ。

 華王国では、一人前の女になった暁には、髪を結い上げ、紅を差すようになる。

 それと同時に、女官が書物を携えてやってきて、大人の女性に必要な様々な情報を教えてくれた。

 その内容に私はひっくり返った。

 そうして、なぜ十三歳だった私が隣国の老いぼれ変態国王に嫁がずに済んだ際、女官たちが涙したのかを、理解した。

 遅まきながら。

 そして夫となるはずだった清雅国王が天に召されたことを、改めて天に感謝した。


 王都では日に二回、時刻を告げる鼓が鳴らされる。

  日の出と共に叩かれる暁鼓ぎょうこと、日没の暮鼓ぼこだ。

 夕暮れ時に石庭で語り合う俊熙との時間も相変わらずだったが、私が十四歳になると俊熙は暮鼓が響くや否や、帰るようになった。

 年頃を迎え、人目が気になるようになったらしい。




 私の日課はといえば、幽閉の身の兄に、手紙を書くことだった。兄が捕らえられたのは私が十歳の時だから、もう四年も続けている。

 兄からは半年に一度くらいしか返事が来ないが、私からは週に一通は送るようにしていた。

 兄にとっても、これが数少ない慰めの一つになっているだろうから。


 今日、鈴玉リンユーが言った面白いこと。

 匡義が遠征の最中に見た、可笑しな出来事。

 私が今、好きな食べ物。

 何でもいいのだ。

 私はただ一人の家族との、繋がりを持ち続けたいから。

 それに兄のいる冷冷宮は、名ばかりでなく本当に寒い所なのだという。隙間風がいつも吹き込み、日もろくに当たらないのだ。

 私の手紙が、せめて兄の暖となっていればいい。



 十一の月を迎えると、王宮の女官達は俄かに忙しくなった。

 毎年秋の暮れには、宮中で主催される盛大な祭りがあるのだ。

 宮中ばかりでなく、王都の市井でも目抜き通りで祝われる、月見の宴だ。

 地方に住む貴族たちや、普段は国王との対面が許されない官位の低い官吏まで、一堂に会して王宮で行われる、一年で一番賑やかな催しだ。

 私も出席を許されるので、鈴玉と私も何を着て行こうか、今年の女官達の舞はどんなだろうか、などと話に花を咲かせた。






 宮中の皆が待ち望んでいた、月見の宴。

 その年の宴の日は、朝からよく晴れ、まさに祝いにうってつけの天候だった。


「この襦裙じゅくんになさいませ!」


 宴のために意気揚々と鈴玉が衣装蔵から持ち出してきたのは、薄紅色の美しい衣だった。上に羽織るさんも刺繍が施され、上等なものだ。

 細い絹の糸を絡ませて細かな模様を編み上げた、長尺の披帛ショールまで合わせ、いつになく気合の入った組み合わせだ。

 どれも見覚えがある。

 私が昨年、危うく隣国の変態国王に嫁がされそうになった折、持参する為に作って貰ったものたちだ。

 長らく大事に保管し過ぎて、箪笥の中の防虫剤である竜脳香の匂いが染み込んでいる。


「箪笥の肥やしにしておくのは勿体無いですから、潔く使いましょう」

「そうね。そうしましょう」


 珍しく着飾ると、私は宴に向かった。


 月見の宴は国王の家族が日頃過ごす内廷という一角ではなく、王宮の外廷で行われる。

 静かな内廷を出て、政務が行われる宮がいくつも建ち並ぶ外廷にでると、既に人がたくさん集まっていてすこぶる賑やかだった。

 今宵の宴の為に、あちこちの宮の外壁に赤い灯篭が吊るされ、花々が飾られている。

 宴の会場は月桃閣という、儀式の為に使われる建物で、外側に張り出した大きな舞台の周りを囲うように別の宮が建ち、女達はその欄干に特設された閲覧席から宴を見られるようになっていた。


 どこからか茉莉花の香りが漂っている。

 篝火に照らされたにれの木も、色とりどりの吹き流しで飾られ、綺麗だった。

 やがて王宮の妓女たちが、たてぶえや二胡の演奏を始めた。

 着飾った年若い官吏たちが、それに合わせて舞を踊りだす。

 面をつけているので、誰なのかが分からない為か、近くの席の女官達が「あの舞手は誰かしら」と騒めく。

 毎年、年少の官吏から舞手が選ばれ、本番までは誰なのかが秘匿される。人々はそれが誰かを、競って当てるのだ。

 少し離れた上座に座る弟を見ると、彼は舞にはさも興味がなさそうに、目の前の盆に積まれた饅頭を鷲掴みにし、次々に口に放り込んでいる。

 最近、体型も饅頭みたいになってきている。中は餡でいっぱいなのかもしれない。


 次に始まったのは、弓遊びだった。

 楡の木に下げられた餅入りの筒を、弓の得意な者が射る。射落とせた餅を、射手は貰えることになっていた。

 これには本来国王も参加するのたが、弟はまだ幼いということを理由に、それを辞退していた。

 今年はもう十三歳になるのだから、そんな言い訳は見苦しいのだが、それを諌める忠臣はいないのか、彼は今年も弓を握らなかった。


 宴で最も盛り上がるのが、女官たちによる月の舞だ。

 舞台一面に、手間のかかる夾纈きょうけち染めで色とりどりに仕上げた敷布が広げられ、その上を女官達が舞う。

 女官達はまるで月のように白く輝く衣を纏い、金や銀の糸を縫い込んだ披帛を羽衣のように優雅に舞わせる。

大きく広げた披帛が、空中を舞う様は、恍惚としてしまうほど美しい。

 女官の足取りはどこまでも軽やかで、不思議なほど重さを一切感じさせない。

 指先までしっとりとした洗練された踊りが繰り広げられるその隣では、これまた天上の鳥のような美声を持つ女官が、詩を歌う。

 それらが合わさって渾然一体となり、月桃閣の舞台が本物の月の世界に一変したかのようだった。

 それは芸術を極めた者たちだけが達成できる、完成された一つの不可侵な世界だった。




 なんて素晴らしい宴だったんだろう!

 内廷に戻り、侘しい宮に帰ってきても私の心は興奮覚めやらなかった。

 頭上の華美なかんざしもそのままに、庭に出て俊熙を探す。

 一刻も早く、彼にもその様子を語りたかった。

 俊熙は宴を見られる身分ではなかったから。

 だが俊熙は現れなかった。

 暮鼓の時刻はとうに過ぎている。彼はもう、帰ってしまったのかもしれない。


「今日はお喋りしていないのにな」


 話したいことがたくさんあるのに、その相手がいない。

 うずうずしながら、待ちぼうける。

 暗くなった静かな石庭に一人座り込んでいると、急に孤独を感じる。


(今日はもう、来ないんだな。すれ違ったのかもしれない)


 しばらく待った後、宮に戻ろうと腰をあげる。

 歩き始めると塀の脇に、背の高い人影が見えた。

 俊熙だ。


「俊熙、待ってたのよ!」


 急いで駆けつけると、彼はどこか虚ろな目をしていた。


「私、宴に出てきたのよ。舞が本当に素晴らしかったんだから。あとね、すっごく美味しいちまきが出たから、こっそり持って帰って来ちゃった」


 帯から下げた巾着を開け、中からちまきを取り出す。笹の葉に包まれたちまきは、気をつけて持って帰ってきたからまだ綺麗な形を保っていた。


「貴方のよ」


 差し出すと俊熙も微笑を浮かべ、両手でそれを受け取ってくれた。彼が手を下ろした時、袖からふわり、と香の香りがした。

 記憶にある限り、俊熙が衣に香を焚いていたことなど、今まで一度もなかった。

 珍しいな、と思って一歩近づく。

 灰色の簡素な上衣にズボンを履いただけの簡素な衣服は、飾り気ひとつない。なのに香だけははっきりと匂うのだ。


「俊熙、今日は良い香りがするわ」


 何気なくそう言うと、俊熙の微笑が瞬く間に消えた。彼は目に見えて頰を引きつらせた。

 俊熙は硬い声で言った。


「申し訳ありませんが、……今日は疲れているので帰ります」

「そう? わざわざ来てくれたんじゃないの?」


 私が首を傾けると俊熙は一歩退いた。

 なんだか、私に近寄って欲しくないみたいだ。

 よく見ると顔色も悪い。


「どこか具合でも悪いの?」


 覗き込むように下から見上げると、俊熙は片手で私を押しのけた。

 それはたいした力ではなかったが、そんなことをされるのは初めてだったので、私は目を丸くして驚いた。

 押しのけた俊熙自身も、自らの行為に驚いたようにはっと目を見開き、すぐに手を引っ込める。


「どこも悪くありません。ただ、今夜の私は詩月様と話す資格などないのです」


 ええ、何それ、と尋ねる間もなく、俊熙は顔を背けて走り去ってしまった。

 私は虚しい気持ちで、長いこと庭の隅に立ち尽くしていた。

 何かが、変わり始めていた。

 子どもの頃から一緒だった俊熙が、少しずつ知らない顔を見せ始めていた。

 私と彼の関係は、綻び始めていたのだ。


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