第38話 紅茶の香り

九月の半ば。

看護研究はさらに忙しくなり、他の研究メンバーが出勤していなくても遅くまで残ることが多くなった。

休みの日も研究のために出てくることが増えた。

南先生といつから会ってないんだろう。

身体も心も疲れてきている。

こんな時は南先生に抱かれたくてたまらない。

でもそれはシフトの関係でしばらく叶わなかった。



日勤の終礼が終わった後、師長から声をかけられる。

「青木さん。仕事終わったら師長室来てくれる?」

「はい」

ああ、そうだった。

そろそろ研究の進捗を報告してと言われていた。

研究は順調とはいえないから気が重い。

そのことで怒られるとかは無いけれど、色々な指摘を受けるのは気分がいいものではない。

残務を片付け、看護研究のファイルが入ったUSBメモリーを持って師長室へ向かった。

師長と研究の話をした後、諸々の修正をするために遅くまで残るのは免れないだろう。

今日は何時に帰れるだろうか。

師長室のドアをノックし部屋に入る。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。そこかけて。そのチョコは青木さんの、とりあえず食べてて。お茶持ってきていいから。ちょっと来月のシフト切りがいいとこまでやっちゃう」

ありがとうございますと一度休憩室へ行き自分のお茶のペットボトルを持ってきた。

チョコレートを食べながら師長の仕事が終わるのを待つ。

いつも思うけれど、日勤後のチョコレートは本当に美味しい。

「お待たせ。食べながらでいいから」

「はい」

食べながらと言われたがチョコレートに伸ばす手を止める。

「小児科に欠員が出るの。だから、来年度希望すれば異動できる。青木さん異動する気ある?」

小児科で働く小さい頃からの夢。

すっかり忘れていた自分に驚く。

驚いてすぐに返事できなかった。

でも、行きたい。

「異動したいです」

師長は少し寂しそうな笑顔で「分かった」と言った。

「ありがとうございます」

「ううん。おめでとう。ずっと希望してたものね。前の師長さんから聞いてた」

私が二年目の時に今の師長になった。

「病棟としては大きな痛手だよ。青木さんと増田さんが今年度末でいなくなるって。あなた達が病棟支えてくれてるからねえ」

「すみません。でも、それだったらどうして」

「多分ね、私もそろそろ辞令が出ると思うの。それにタイミング良く欠員出たし。私がいる間に行かせてあげないとね。二人が頑張って育ててくれたおかげで、鈴木さん達も頼もしくなったでしょ? だから送り出せるのよ。応援してるから」

「ありがとうございます」

夢が叶ったことを真っ先に南先生に報告したかった。

でも、しばらく勤務や私の研究のせいで会えない。

次に会えるのは来月の先生の誕生日だ。

その時に報告して、一緒に喜んでもらいたい。

先生はきっと喜んでくれる。

きっと病棟が離れるから寂しいとか言い出すにちがいない。

絵理子さん達と違って院内なんだから我慢してって言おう。

寂しいがる先生の顔が思い浮かび、師長の前なのに思わずにやけそうになってしまった。



師長室を後にし、隣にある休憩室のドアノブに手をかける。

テレビの音が微かに聞こえる。

誰かまだ残っているみたいだ。

ノックをし扉を開く。

「おつかれさまです」と声をかけながら部屋に入る。

「おつかれ」

ソファに大野さんが座っていた。

「おつかれさまです」

改めて声をかけ、パソコンが置いてあるテーブル席に座った。

大野さんのことで色々あったけれど、あれ以降は普通に仕事できていると思う。

当の大野さんが私と南先生のことを知らないのは大きい。

「青木さん。研究?」

「はい。ちょっとやってこうと思って。他のスタッフはまだステーションですか?」

「ううん。さっきみんな帰った。私達がラスト。ねぇ、青木さん紅茶好き?この間美味しい紅茶見つけたの。青木さんも飲まない?」

「え、いいんですか?」

「一人で飲むより二人の方が美味しいじゃない?」

そう言うと、大野さんはソファから立ち上がる。

自分のロッカーから黒い紅茶の箱を取り出す。

「ティーバッグなんだけどね、コットンでできてるの。高級感あるよね。っていうか実際いいお値段なんだけど。他のスタッフには秘密ね。青木さんのマグカップって、この白いの?」

「はい、そうです」

大野さんはこの紅茶を夜勤の仮眠時間の終わりにこっそり飲んでいるという。

休憩室はベリーとバニラが合わさった上品な良い香りで満たされる。

「はいどうぞ」

紅茶の入ったマグカップを受け取る。

「ありがとうございます」

大野さんはさっき座っていたソファに戻った。

「あの、帰らないんですか?」

「今日、ちょっと疲れちゃって。四日勤、休、四日勤のラストなのよ。師長さん鬼だよね。休憩しないと帰れないわ。でも、邪魔しちゃったら帰るよ?」

「全然、邪魔じゃないです。私も煮詰まっちゃって、すぐ研究できそうにないので」

「そういう時は休んだらいいよ。全然思いつかないよね。すごく分かる」

紅茶は香りと同じ、ベリーとバニラの風味がした。

「すごく美味しいです」

「よかった。最近の私のお気に入り」

ティーバッグの黒と黄色のタグを見たけれど、今まで目にしたことのない銘柄だった。

「青木さん」

突然名前を呼ばれる。

「はい」

「小児科異動おめでとう。さっき師長さんから話あったんでしょ? ずっと希望してたって聞いたよ?」

大野さんは微笑んでいた。

「ご存知でしたか」

「一応、主任なので。師長さんから先に話聞いてるの。よかったね」

「ありがとうございます」

「あー、正直、まっすーと青木さんいなくなるの痛いなあ」

大野さんはマグカップをテーブルに置き、ソファの背もたれに背中をあずけて伸びをする。

「そうですか?」

「そうよー。だって、病棟引っ張ってくれてるのあなた達じゃない。何言ってるの」

「そうなんですね」

「すごく頼りにしてるのよ? いい中堅がいる病棟はいい病棟だよ。にしても痛いなあ」

「まだ、できないことの方が目立ってて、自分の良さとか全然分かりません」

大野さんが呆れた顔をする。

「青木さんはいい看護師だよ。素直だからこれからもどんどん伸びる。いつも落ち着いてて、誰にでもフラットなところがいい。これってなかなかできないのよ?」

大野さんに褒められて照れくさかった。

そして大野さんは一呼吸置いて続けた。

「ホント、そういうところ、綾と真逆だよね」

「?!」

「青木さんってさ、南先生と付き合ってるんでしょ?」

何も言えなかった。

「大丈夫。別にいじめたりしないから」

大野さんの表情は穏やかだった。

「ご存知だったんですね」

「うん」

「いつ知ったんですか?」

「綾から振られた時」

「なんか、すみません」

大野さんは少し吹き出す。

「謝ることじゃないよ。っていうか、こっちが謝らないとだね。あの時、綾ってまだ恋人いないって思ってたんだ」

ごめんねと少し寂しそうに言った。

しばらく無言でお互いマグカップに口をつける。

大野さんとの間に生まれているであろう緊張感をベリーとバニラの香りがほどよく緩和させている気がする。

「青木さん。ついでにさ、私の言い訳、ちょっと聞いてもらえたりする?」

「言い訳って……」

あの時の言い訳?

「ちょっとだけ聞いてよ。誰にも話せてないのよ」

「……聞きます」

「ありがとう」

私と綾のこと知ってるよねと前置きをして大野さんは話はじめた。

「私さ、綾を捨てて結婚したんだ。『結婚して子供産みたい。みんなから幸せって言われたい、でも綾のことは愛してる』って捨てたの。酷いでしょ?」

「……」

「でもさ、結婚してすぐ後悔したの。これが綾を捨ててまで欲しかった幸せだったのって。綾といた時に感じてたことが幸せなら、その幸せはどこにもなかった。そう思うとさ、周りから『幸せだね』って言われても何も意味がないんだよ。そのくせにね、綾といた時よりバカみたいに楽なの。それもショックだった」

大野さんは両手の中にあるマグカップを見つめていた。

「私がしたかったのはさ、綾と結婚することだったんだ。後になって気づいた。なんでそれに気づかなかったのかな。今も後悔してる。結局、私は綾だけじゃなく結婚相手も傷つけたんだ。最低なことした」

「……最低だなんて」

「最低だよ。離婚した後、綾に謝ろうと思ったんだけどね、私が綾を捨てたから今更都合よすぎるって思って連絡できなかった。時間が経って忘れてたつもりだったんだけど。急に異動になって。会っちゃうとダメね。好きな気持ちがまた出てきちゃって。でも綾、すごく素っ気なかったし全然手応えなかった。だから余計にね……」

南先生は、大野さんのこと全然相手にしてなかった。

会ったりしてたのかもしれないといまだに少し思っていた。

「去年の大晦日にね、他のスタッフから青木コールのこと聞いたの。それで、綾が青木さんのこと好きなのすぐ分かった。その時もう付き合ってるって思わなかったから急がなきゃって。それでね、色々思い付いてすぐ行動したわけ。でも、綾、途中ですごい顔して出てった。その辺、聞いてるよね」

私はうなずいた。

「にしても、綾ってさ青木さんのこと必死に守るのね。私を振る時、絶対相手の名前言わないの。私も意地で聞かなかったけど。言っちゃった方が自分にとっては都合いいはずなのにね。青木さんに嫉妬するよ。私と別れてから随分経ったけど、その間にさ、綾、自分の本当に大事な人の守り方身につけたんだね」

大野さんは一度紅茶に口をつけると、ため息とともに口をひらく。

「あの時よりもずっといい女になってるの。嫌になるよ。ホント」

その言葉は私を切なくさせ、胸の奥を締め上げる。

そうさせるのは私も大野さんも南先生のことが好きだから。

南綾乃を愛してるから。

「大野さんは、恋したりってなかったんですか」

「うーん。なくはなかったけど続かないねえ。若い時の勢いとか勇気ってこの年になると無くなるのよね。安全を選んじゃう。めんどくさくなっちゃったり。」

大野さんは紅茶が濃くなったのか、ティーバッグをマグカップから出した。

「幸せなことにさ、一人で生きていける術を持ってるじゃない私達って。だから、よっぽどのことがない限り一人の方が楽になったりするのよ」

大野さんは今三十七歳だ。

そんな年というわけでも無いと思う。

「だからさ、綾に行っちゃうんだよ。昔愛してくれた人なら、今もすぐに好きになってくれるんじゃないかって。新しい人とまた関係構築するのも正直勇気がいるし疲れちゃう。年って嫌ね」

年を理由に諦めるなんて、大野さんはそんな人じゃない。

そんなのもったいないと思う。

「大野さん。私、看護師として、すごく大野さんのこと尊敬してます。気分で仕事する人じゃないし。経験年数ずっと下のスタッフにも中堅にも声かけたり。何より謝ったりできるのってすごいと思います。だから、その、そんな大野さんなら素敵な人と出会えるって私、思うんですけど」

大野さんが異動してきた時から、私の憧れの看護師は大野さんだ。

今まで憧れの看護師はいなかったのに。

だからこそ、あの時とことん苦しんだ。

自分が勝てる要素が一つもなかったから。

「青木さん優しいね。田村さんも褒めてたよ」

「そんなことないです。南先生が大野さんに夢中になってたの分かります。すごく」

「綾は私と付き合ってた時よりも夢中だよ。青木さんに。まぁ、でも、しばらく恋はいいかなあ」

「南先生のことですか?」

「やあね、違うわよ。さっきも言ったじゃない。めんどくさくなっちゃっただけ」

大野さんは眉をひそめて笑った。

「そういえば、何年つきあってるの?」

「もうすぐ三年です」

「そんなに付き合ってるんだ! 綾のこととか相談できる人いるの?」

「少ないですけど、います」

「それなら良かった。私も相談できる人、一人でもいたら違ったのかな」

「誰もいなかったんですか?」

「うん。いなかった。青木さんにはじめて言った。性別変えてさ、彼氏って誤魔化して言ったことはあるけど、本当のことは言える人いなかった」

私には増田と絵理子さんがいる。

話せるだけじゃなくて心配してくれる。

誰もいなかった大野さんは、南先生と付き合っていた頃から今までずっと一人で抱えていた。

不安や苦しみだけじゃなくて、楽しかったり幸せだったことも誰にも言えなかった。

私だったらそれに耐えられるのだろうか。

「青木さん。綾のこと頼むね」

「……はい」

大野さんはマグカップに残った紅茶を飲み干してソファから立ち上がろうとする。

「あ、あの。大野さん!」

なぜか慌てて呼び止めてしまった。

何を言おうとしたのか一瞬戸惑う。

大野さんは少し不思議そうな表情で私を見ている。

よく分からないけれど、伝えたいと思った。

うまく伝わるといいけれど。

「大野さん、あんまりめんどくさがらないでください。大野さんは私の一番の憧れの看護師なんです。大野さんと初めて仕事した時からずっとそうなんです。初めてできた憧れの看護師なんです。それに、一番の憧れはずっと大野さんで、これからもずっとそれは変わらないです」

「ありがとう。嬉しいよ。じゃあ、帰るね。邪魔してごめんね」

そう笑顔で言った大野さんは気のせいかもしれないけれど、少し照れていてちょっとすっきりした表情をしていた。

「あ、綾って呼んだこと、南先生に内緒ね。今日だけはね、ちょっと意地張りたかったんだ」

意地悪く笑ってそれだけ言うと大野さんは自分のマグカップをすすいでから休憩室を後にした。


時間の経過か、嗅覚が慣れたのか。

ベリーとバニラの香りは微かに感じるほどに薄くなっていた。

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