第29話 減点
どれくらい時間が経っただろうか。
目を開けて窓の外を見ると夜景が光輝いていた。
先生はバスローブを羽織り、窓に沿って置いてあるソファで夜景を眺めている。
私に気づくと、ぎこちない笑顔で「おはよ」と言ってきた。
「夜なのにね。先生、今何時?」
「九時過ぎかな。疲れ大丈夫?」
「うん。スッキリした。五時間くらい寝たかな」
大きく伸びをして起き上がる。
「美穂ちゃんお腹空かない? 昼ご飯たべてないでしょ。ルームサービスとろう」
正確に言うと、深夜の仮眠時間から何も食べていない。
口に入れたものと言えば、先生がテイクアウトしてくれたミルクティーだけだった。
色々ありすぎて空腹を忘れていた。
そう考えると急に強い空腹感と喉の渇きに襲われる。
ベッドの隅に脱ぎ捨てられたバスローブを羽織り、冷蔵庫からミネラルウォーターを出した。
「ルームサービスってすごく高いよね?」
「だから、お金使わせてって」
ミネラルウォーターを一気に喉に流し込む。
思った以上に身体が水分を欲していた。
先生に近づこうとするとメニューを渡される。
予想以上の値段が並ぶ。
「近くのコンビニでいいよ」
「せっかく来たんだから頼もうよ。食べたいの選んで。今から外出るのも億劫じゃない?」
メニューにあるものの中で一番コスパが良さそうで、長時間何も入っていない胃に負担が少なそうな懐石弁当を選ぶ。
それでも大分豪華だ。
値段気にするんだからと言いながら先生は内線で注文してくれた。
ルームサービスが来るため、一度服に着替えた。
遅い夕食を摂った後、二人でソファに座って夜景を眺める。
やはり、なんだかぎこちない。
先生の態度がぎこちないのは私があんな抱き方をしたからか、それとも私がはっきり許すとまだ言ってないからか。
いつものようにベタベタしたり、デレデレしたりしてこない。
先生の態度だけではなく、私もなんだかまだしっくりこない。
何かが抜けている気がする。
さっき先生を抱いた時までは、大野さんのこともあって気が高ぶって気づかなかった。
ひと段落した今、先生と私の間にはなんとも言えないぎこちない空気が漂っていることに気づく。
その空気は気まずさを生んだ。
気まずさを誤魔化すように提案する。
「先生、一緒お風呂入ろう。夜景見ながら入れるのが売りなんでしょ? お湯ためるね」
先生の返事を待たずに浴室入り、バスタブにお湯を溜める。
アメニティの中にちょこんと置いてあるビニール製の白いアヒルをバスタブに浮かべてみた。
このぎこちなさはどうすればなくなるのだろうか。
お互いに原因があるようにも思えた。
一緒にお風呂に入ることでなんとかならないものだろうか。
名古屋でのことを思い出す。
確かあの時は先生との距離が縮まった。
ぎこちなさを解消するために必要なものが何なのか分からないが、あの時と同じ状況を試してみる。
部屋に戻りブラインドを開けた。
ベッドルームからバスルームの中を覗く。
「ホント、お風呂丸見えだね。でも、お湯の量すぐ分かるからいいかも」
先生はやっぱりぎこちなく微笑んだ。
お湯が半分ほどたまったところで先生の手をひき浴室に行く。
服を脱ぎ、先生と向かい合ってバスタブに入る。
後ろから抱きしめるように入らないところが先生の複雑な心境を物語っている。
先生と私の間をアヒルが浮かぶ。
「なんか、アヒルがあったから入れてみたよ」
それ、持って帰れるよと先生は答えた。
バスルームからはガラス越しに夜景が綺麗に見えた。
でも、そんなことよりも、先生の白い肌にそこらじゅうに散らばっている跡の方が気になった。
場所によっては暗紫色になっている。
夢中だったからそこまで強く吸い付いていたとは思わなかった。
それにしても、ちょっと引くぐらいの数をつけてしまった。
そんな先生の身体を見て少し独占欲が満たされ、優越感がうまれたのは事実だ。
キスマークへの視線に気づいたのか、先生は顔を赤くし、伏し目がちで少し恥ずかしそうに口を開いた。
「美穂ちゃん」
「なに?」
「キスはまだ無理?」
上目遣いになる。
その姿に後頭部が痺れる感覚に襲われる。
「たくさん、したと思うけど」
先生の胸元に散らばるキスマークに視線を落とす。
「でもまだ、口にしてない」
先生の言葉と仕草に自分の興奮が急激に最高潮になる。
その興奮の端の方で、私が先生の唇に無意識にキスできなかった事実も急激に大きくなっていく。
それは罪悪感に変化する。
「先生、ごめん。傷つけた」
焦って前のめりになり、先生の頬を両手で挟み、思い切り先生の唇に自分の唇を押し付けた。
指で両耳をさすりながら激しくキスをする。
下腹部のさわさわとした感触が、足の間に滑り込ませた私の太腿をくすぐる。
バスタブのお湯が激しく波打つ。
先生の柔らかい舌の感触。
舌を絡め合い、先生の舌を吸う。
私は唇へのキスを避けたのか?
違う。
そういうつもりじゃなかった。
どうしたらいい?
どうしたら気持ちが伝わる?
そんなつもりじゃなかったって。
大好きだってちゃんと伝わる?
気がつくと私は涙を流していた。
自分の涙に驚く。
先生を傷つけたから?
違う。
そうじゃない。
じゃあなんで。
自分の涙の意味が分からない。
「私が美穂ちゃんを傷つけた」
先生の言葉ではっとした。
私は傷ついてた。
どれだけ辛かったか、苦しかったか、自分が保てなくなるほどに傷ついた。
それをまだ先生に言えてない。
大野さんへの意地で大人になろうと必死で、自分の気持ちを押し殺していた。
先生の前では強気でいた。
苛々して誤魔化した。
本当は傷ついたことを分かって欲しかった。
それで今、限界がきて泣いている。
唇にキスできなかった理由はそれなのか。
それはよく分からない。
気づくと、涙はどんどん溢れ、嗚咽が加わる。
先生から身体を離し、呼吸を落ち着けようと試みる。
「美穂ちゃん。苦しませてごめん」
先生は私の涙の本当の理由を知っている。
先生の胸元にぎゅっと握りしめたこぶしを置く。
嗚咽で背中が揺れる。
背伸びは無理だ。
心の奥に押し込んでいた気持ちを引っ張り出す。
「ホントだよ。どんだけ辛かったか。わかっ、分かってんの?! 馬鹿!」
額を先生の胸元にあてる。
「もう絶対悲しませないから」
「当たり前でしょ?! もう、二度とこんな、気持ち。ヤダよ。先生が、離れていっちゃうって、思っただけで、もう、おかしくなりそうで。辛くて、苦しくて。でもっ、どう、考え、て、も。大野さんの方が、せんせ、いに。ふさわしくって。身を引かなきゃっ、てっ」
その後、堰を切ったように声を出して泣いた。
先生の前で初めてこんなに泣いた。
震える私を先生はぎゅっと抱きしめてくれた。
「本当に、私、最低だね。無理に許さないで」
「だ、からっ。馬鹿じゃないの?! 許すって、い、言ってんじゃん! だ、からっ。これから、私を、安心させ、てって言ってんのっ!」
あの時の不安と苦しみがよみがえり、涙が止まらない。
「どれだ、け、好きって。分かってんの?! 好きにっ、させといて! 馬鹿! 本当にっ最悪っ!」
「愛してる。愛してるから。誰よりも愛してるの伝わってる? 美穂のことが好きでたまらない。何もいらない。美穂がいれば。伝わる?」
「もっと言って。私が、安心するまで言って!」
ダメだ、どんどん泣けてくる。
先生が私の頬に手をあてて、顎を上に向ける。
そのままキスされる。
「美穂の声が好き。顔が好き。真面目なところが好き。私にだけ強気なところも」
キスの合間に言う。
「それだけ?!」
「身体も好き、私のことすごく好きでいてくれることがなによりも幸せ。伝わる?」
「まだダメ!」
先生は少し困った顔をした。
「続きはベッドの上でもいい?」
返事の代わりにキスをした。
先生のキスがなによりも好き。
頭にしがみつき、私の気が落ち着くまで唇と舌を重ね続けた。
時々肌をつついていたアヒルの行方はいつの間にか分からなくなった。
お風呂から上がった後は、今まで着られずにいた勝負下着を身につけた。
涙はさすがに止まったが、目が腫れて酷い顔だ。
こんな顔で誘うことになるとは予定外だ。
「美穂ちゃん。新しい下着すごく可愛い。似合ってる。私、その色好き」
「顔、腫れて可愛くなくてごめんね」
別に目が腫れてないからといって特別可愛いというわけではないのは分かっている。
「美穂ちゃん怒るかなあ」
「何が?」
「泣かせたの私のせいだけど、泣き顔も腫れた目も可愛いっていうか色っぽい」
「馬鹿にしてるでしょ」
「本気だよ?」
先生は私に襲いかかってくると思いきや、優しく抱きしめてきた。
その後もずっと優しくしてくれて、まるでお姫様扱いをされているようだった。
お姫様になったことはないけれど。
先生はベッドの上での女の扱いが上手い。
でも今日は特別だった。
自分の名前と数々の愛情表現の言葉を愛撫とともに浴びせられる。
自分で頼んだけれど、もう分かったからと言ってしまったほどだった。
さっきまで私達の間に漂っていたぎこちなさは結局私の問題だった。
やっと先生に辛かったことが言えて、涙を流せて、先生の腕に抱きしめられていることで、そのぎこちない空気はいつの間にか消えてなくなっていた。
デレデレまではさすがにしなかったけれど、目を細めて愛おしそうに私に向ける大好きな笑顔がもどってきた。
「先生、私さ、こんなに好きになれる人がいるって思わなかった。私って、恋に冷めてるって思ってたんだよね」
先生は嬉しそうに私の顔に頬ずりしてくる。
「全然恋に冷めてるようには見えないけど」
少し得意気に言われた。
「今度増田にでも聞いてみたら? 私が今までどうだったか」
先生の背中を引き寄せて肩に顎を乗せる。
「美穂ちゃんも、絵理子に聞いてみたらいいよ」
「聞いたよ。私に本気なんでしょ?」
「そうだよ。恋人の前でかっこ悪い所見せちゃうの初めて。かっこ悪くてもいい?」
「かっこ悪いって思ったこと一度もない。空気読んでとは思うけど」
「あー、それ、心当たりあるなあ」
先生の反応に少し笑う。
肩に乗せていた顎を離し、先生の顔を見上げる。
「お互い本気ってこんな幸せなことないね」
先生は大好きな笑顔に加え、口元がだらし無いほど緩んだ。
綺麗な優しい笑顔がその口元でちょっと減点される。
私にはその減点された口元が見られた方が幸せだった。
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