第26話 大人になる時
夜勤明け、大野さんと一緒に帰りたくなくて委員会の仕事を理由に休憩室で一人残る。
大野さんに帰り際、「緊急入院あったけど、夜勤スムーズだった。ありがとう。青木さんのおかげだよ。心強かった」と言われた。
そんな声かけを後輩にできる大野さん。
看護師として、すごく尊敬してしまう。
こんな看護師が同じ病棟にいることが嬉しいとまで思わされた。
実際に委員会の仕事はあるのだが、明け独特の疲労感と、色々なことが思い浮かんでできるはずもなく、ソファでボーっしていた。
南先生は当直の後そのまま外勤だった。
いまだに確認してしまう自分がいる。
そのまま自宅に帰るのも億劫だった。
気晴らしに買い物に行こう。
すっかりソファに根を張った重い腰を無理矢理上げて休憩室を後にした。
休憩室には一時間ほどいた。
さすがに大野さんは帰宅しただろう。
更衣室へと続く廊下を俯き加減で一人歩く。
廊下の床の模様をぼんやりと追う。
もう十一時近く。
他の病棟の明けの看護師達も皆帰宅しているのだろう。
誰もすれ違うことがなく、更衣室しかない地下の廊下は静まり返っていた。
「美穂ちゃん」
突然名前を呼ばれる。
驚いて顔を上げると南先生が目の前に私服姿で立っていた。
「え。先生、外勤じゃなかったの?」
まさかこんな所にいると思わず、いつものように接した。
「この間、絵理子に代わってって言ったの。だから明日土曜日で外来ないから明日も一応休み」
「そうなんだ」
「あのさ。私に少し時間くれないかな。ちゃんと話したいから。嫌かもしれないけど。お願い。聞いて」
「先生、ここじゃ誰か来るかもしれないから」
「別に来てもかまわない。美穂ちゃんお願い。そうじゃないと私。もう」
南先生の目が潤む。
先生の顔を見ていられなくて足元に視線を落とす。
綾の話聞いてあげて
そうやってみんな大人になっていくんでしょ
棚橋先生の言葉が浮ぶ
大人になりたい。
それで、少しでも南先生に近づきたい。
でも、こんなことで自分は変われるのだろうか?
変われたとしても、今の状況は変わるのだろうか?
けれど。
今の状況や私自身に多少なりとも変化をつけるにはこれしかなかった。
「分かった。着替えてくるから。車なんでしょ。その顔、誰かに見られたら困るでしょ。車まで行くから。先行ってて」
顔を上げると南先生の頬に涙がつたっているのが見えた。
日中でも薄暗い病院の立体駐車場。
いつも先生が車を駐めているあたりに向かう。
すぐに先生の車が目に入る。
車に近づき、後部座席の扉を開ける。
「隣、来てくれないの?」
「今は、まだそこに座れない」
ルームミラーから先生の顔が少し映る。
目が赤く生気がない。
こんな先生初めて見た。
「博美とっ。ごめん。こういう所だよね。私のダメなところ」
先生は力なく俯く。
「どんな呼び方でもいいから。先生が私に言いたいこととりあえず聞く。話してよ」
正直なところ、先生のそんな姿は見たくなかった。
「大野さんとのこと。昔、どういう関係で何で別れたかもう一度詳しく話すから」
先生は話してくれた。
ちょっと前は絶対に聞きたくないと思っていたけれど、覚悟を決めて聞いた。
大野さんのことを先生は本当に愛してたのが分かった。
別れを切り出された先生のことを思うとこっちが苦しくなった。
「美穂ちゃん。今の私だと、本当に軽々しく聞こえると思う。でも、私、美穂ちゃんのことが誰よりも大切で愛してる。だから。別れたくないの。本当に私、馬鹿なことしたよ。あの時、キスされて、昔の自分に戻っちゃったの。大野さんと別れたことがどこかでまだ納得いってなかったんだと思う。今まで押さえてたそういう気持ちが一気に溢れて我を忘れた。言い訳だけどその時のこと伝えたかった。そんな気持ちで美穂ちゃんと付き合っててごめんなさい。でも、私、美穂ちゃんじゃなきゃダメなの。美穂ちゃんじゃなきゃ立っていられない」
運転席のシート越しに先生が手をぎゅっと握りしめているのが見えた。
「仕事で普通だったじゃん」
「そう見えるんだ。失敗続きだよ。絵理子に心配されるくらい。ていうかその前に絵理子にすっごい怒られたし。今は口聞いてくれない。増田さんからも」
南先生は小さくなっている。
棚橋先生って怒るんだ。
自分のために何か一役買って出てくれた気がした。
「先生」
私も、気持ちを伝えよう。
「先生、私、別れたいって一言も言ってないよ」
先生が顔をこちらに向けて私を見る。
「私ね、先生のこと許したいと思ってる。でも、どうやったら許せるか分かんないんだよね。うやむやにしてもいいかとも思った。でも、多分、先生、大野さんのことまだ好きなんだと思う。だから、また何かあったら先生、揺れると思う。前にも言ったと思うけど、私、大野さんに一つも敵うところないんだよ。今回のことで、私、自信が全然なくなった」
先生の目つきが変わる。
目に力が入った。
「これから大野さんと会う約束してるの。ちゃんと終わらせるために。だから。それ、聞いててて欲しいの。それでダメだったらまた考える」
先生の必死な気持ちが伝わる。
「聞くって先生の隣に座ってるってこと?」
「まさか。そんなことさせないよ。スマホ、通話にしておくから車で聞いてて」
「私、隣で聞いててもいいけど。彼女って言ってくれた方がいいかもよ」
私も腹を括る時かもしれない。
そうしたら先生を許すことができるだろうか。
「大野さんは美穂ちゃんの上司でしょ。これから仕事し辛くなるのは良くないから、大野さんに美穂ちゃんのことは言わない」
「言った方が早いんじゃないの?」
じゃあ、どうやって私の信頼を回復させるの?
「美穂ちゃんとのことを言うのは最終手段。その手を使う前にできることは沢山あるから」
「棚橋先生の時はすぐ言ってたじゃない」
今は棚橋先生の時と違って先生の置かれている立場が比較にならないほど悪い。
今こそ最終手段を使う時ではないのか。
でも、先生は少し笑って言う。
「美穂ちゃん気づいてないんだ」
「何を?」
「私にとって、美穂ちゃんの身に危険が及ぶことが緊急事態で最終手段を使う時なんだよ。今回は私のことでしょ?だから最終手段使う時じゃない」
目を細めて微笑んだ。
その表情に胸の奥が締め付けられる。
「かっこつけないでよ」
「美穂ちゃん守る時くらいはかっこつけさせて。今回は私の問題だよ」
やっといつもの先生になってきた。
少しホッとする。
「あ、あと。美穂ちゃん、仕事全然できないとか信頼されないとかいうけどさ、結構できると思うよ?」
「気休めならいいよ」
「気休めじゃないよ。大分前だけどさ、急変あったじゃない。松本先生が暴れてたやつ。あの時、私がどんだけ助かったか分かってる?」
「そうなの?」
「行ってみたらさ、呼吸と循環維持してるし、ルート入ってるし、挿管もすぐできる状態だったし。何より、美穂ちゃん冷静にナースに指示してるし。あの鈴木さんが二分カウントちゃんとしてたんだからさ!」
先生があんな状況なのに色々見ていたのに驚いた。
そして先生から初めて仕事のことで褒められた。
「松本先生落ち着かせられなかったけど」
「それは私の仕事だよ。あの後みっちり絞っといた」
「先生は落ち着いてるし、挿管もあっという間にやってたし」
先生は呆れたように言う。
「美穂ちゃんが介助についてくれてたから落ち着いて考えられたし上手くできたんだよ。自信持ってよ。私は美穂ちゃんの仕事、信頼してる。絵理子も美穂ちゃんと増田さんには一目置いてるって言ってた」
普段、仕事のことで褒めることがない先生からこんなにも熱心に褒められると恥ずかしくなった。
「でも、大野さんはやっぱりすごい」
「あのねえ、大野さんは何年仕事やってると思ってるの?美穂ちゃんの三倍やってるんだよ! 逆にできて当たり前なの」
先生の言葉に少しだけ心の余裕がうまれた。
余裕がうまれたのは、自信が少しもどってきたからなのかもしれない。
誰の言葉でもなく、先生からの少しの言葉ですぐに自信を取り戻せてしまう自分が少し恥ずかしい。
そして、やっと先生の言葉が自分の心に響くようになってきた。
「学会直前なのにこんなの煩わしいね」
余裕が出てきたから言えた言葉。
その言葉に先生は優しく微笑む。
「何言ってるの。煩わしいのは学会の方だよ」
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