第19話 聞きたくない話
「綾、ご飯ちゃんと食べてるの?」
「食べてるわよ」
「ホントに? 昔よりももっと痩せた気がするけど」
「歳とったからじゃない?」
「作ってあげようか? 前みたいに。前と一緒のとこに住んでるの?」
「間に合ってるし、今住んでるのは別のところ」
「つれないなあ。やっぱよそよそしいなあ。昔はもっと頼ってくれたのに」
「五年以上前のはなしでしょ。」
「じゃ、久しぶりに飲みに行かない? 二人で。近況報告しようよ。あ、あの店にしようよ! 昔よく行ったビストロ。久しぶりに一緒に行きたいな」
「学会近いから無理」
「来年の三月だっけ? 綾ならなんとかなるんじゃないの? 演題とかってもう出して通ってるんでしょ?」
「英語でやるから準備が色々と大変なの」
最初は大野さんのからみにぶっきらぼうに対応し、先生はのらりくらりとかわしていた。
不安はあるもののそういう南先生の対応を見ていると安心できた。
けれど、大野さんが異動してきて一ヶ月ほどが経過して、最近二人のやりとりが少し変わってきた。
「ねぇ、この指示なんだけど。ちょっと変だと思って。先生のカルテに書いてあったことと違う。一応検査結果も確認したけど、明日減量するよね?」
「ああ、ホントだ。指示変えてなかった。すぐ直すね。注射オーダーまだ間に合うか。気づいてくれてありがとう。ごめんね変な指示出して。助かった」
「ううん。大丈夫」
「他、変な所なかった?」
「他は完璧。さすが南先生」
南先生の肩に大野さんの手が置かれる。
大野さんが南先生に向ける笑顔に何か特別なものを感じた。
すごく自然でお互い何でもわかり合っているみたいなやり取り。
南先生があんな風に話すのは病棟で見たことがなかった。
仕事で強い信頼関係があるような。
昔からの戦友みたいな。
一緒に苦労して乗り越えてきた過去があるような。
私はまだ、仕事上で南先生からあんな風に信頼を得ることができていない。
「南先生と大野さんってなんか、長年連れ添った夫婦みたいだね」
あえて頭に浮かべないようにしていた単語を同僚が代わりに言った。
認めたくないけれどその言葉が一番しっくりきている。
同僚が続けて言う。
「言葉に出さなくても分かり合ってるみたいな感じするよね」
悔しいけれどそう思う。
「そうですね」
無理やり言葉を口にした。
逆立ちしたって大野さんには敵わない。
私が大野さんの経験年数になったとしても同じレベルになれるなんて到底思えない。
仕事はまだまだ全然うまくできない。
子供っぽくて、嫉妬深くて、先生のことをまだ全然分かってなくて。
南先生からの信頼もなくて。
止めよう。
仕事中は考えるの止めよう。
そうでないと、また泣き出してしまう。
でも、どうしても認めざるを得ない。
私よりも大野さんの方が南先生に釣り合っている。
そして多分、いや確実に大野さんは南先生のことが好きだ。
南先生を見る目は愛する人を見る目だ。
もしかしたら、こういう不安とかを南先生に話して、南先生ととことん話せばいいのだと思う。
でも、南先生は今大切な時期だ。
私なんかの面倒なことで振り回したくない。
煩わせたくない。
大野さんならきっと南先生が安心して仕事に専念できるようにするはずだ。
こんな時期に自分の一方的な不安を先生にぶつけることなど絶対にしない。
そう思うと自分から南先生に連絡できなくなっていった。
数日後、先生から夕食に誘われた。
泊まれないけど少しだけでも会いたいと連絡が来た。
自分から連絡できなかった私は嬉しくて切なくて胸が息苦しくなる。
南先生が私に会いたがっている事実に目の奥が熱くなる。
「何食べたい?」
先生の車で移動する。
先生の優しい声に胸の奥を掴まれるような感覚がする。
「先生は?」
「美穂ちゃんと一緒なら何でもおいしい」
「それ一番困る返事だね」
「言えてるね」
微笑む先生の横顔を見て、何故か悲しくなった。
私はこの助手席に座る資格があるのか。
突然そんな考えが湧いてきた。
「この間さ、絵理子が増田さんとデートしたうどん屋行ってみる?」
「あの人達、デートでうどん食べに行ったの?」
「うどんって言ってもちょっと小洒落てるみたいよ」
「そこにする」
「了解」
運転している先生に話しかける。
「先生って棚橋先生とけっこう話するの?」
「うん。医局に二人だけの時とかね。大体お互いの惚気話してる」
「変なこと言ってないでしょうね?!」
「絵理子は変なことばっか言ってるかもね。増田さんの知られざる顔を知っちゃった。きっと美穂ちゃんビックリするよ。私の口からは言えないけど」
「なんか、私、すごい不安なんだけど。先生、ホントに言ってないの?」
「絵理子ほどは言ってない。と思う」
「え! ちょっと恥ずかしいよ!」
先生が楽しそう笑っている。
棚橋先生と増田の話で少し気が紛れた。
出てきたうどんは先生が言ったようにイメージしていたものとは違った。
店内はカフェのような雰囲気だし、うどんもどんぶりではなくキレイなボウルに入っていた。
これはうどんなのかなといったことを話しながら先生との夕食を楽しんだ。
帰りの車の中、先生が話を切り出した。
聞きたくない話だった。
「美穂ちゃん。やっぱり誤解してるよね。博美とのこと、美穂ちゃんに全部話す。だから聞いて」
今日、もしかするとこの話をするために先生は私と会ったのではないか。
「ヤダ。聞きたくない」
先生の口から大野さんの名前が出ると動悸がするほどに不安になる。
「知ってほしいの。もう終わったことだって分かって安心してほしいから」
先生は安心させるためと言う。
それでも拒絶する。
「嫌だよ」
「どうして聞きたくないの?」
先生の口調はすごく優しかった。
その答えを喉の奥から絞り出す。
「だって、聞いたら、大野さんの方が先生と釣り合うって認めちゃうから」
先生は路肩に車を停めて私の手を握る。
「釣り合う釣り合わないじゃないと思う。どれだけ相手の幸せ願えたり、相手の幸せのために自分が努力できるかだと思う」
先生は続ける。
「博美はさ、私にとってそういう相手じゃないの。昔は本当に好きだった。ずっと一緒にいたかったよ。でも、博美は私を選ばなかった。それは私にとってすごくショックなことだったし、博美にはそういう意味でよりを戻すのに信頼を感じられる相手じゃないのよ」
握ってくる先生の手が私を切なくさせる。
「そういう相手は美穂ちゃんだから。信じてくれる?」
先生のことは信じている。
でもこれは、先生を信じることで拭えない不安の種類だと思う。
どうすればこの不安は拭えるのか。
全然分からない。
私が幼いからなのか。
私がもっと大人になれば拭えるのか。
「私、南先生や大野さんみたいに大人になれなくて。なんか。恥ずかしい」
先生は握っていた手を離し、私の髪撫でる。
「美穂ちゃんさ。私のこと好き?」
「……好き」
「背伸びしなくていいから。美穂ちゃんは大人じゃないって嫌かもしれないけど、そういうところかわいいって思うよ」
運転席から身を乗り出し、私の顔を覗き込んで言う。
「かわいくて、大好きでいつも大変なんだから。付き合ってしばらく経つのにね」
そのまま先生は唇を重ねてきた。
なぜか今日は先生の言葉が全く心に響かなかった。
いつもは先生の言葉で色々な不安がどこか消えてしまうのに。
そのことが余計に私を不安にさせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます