クリアウォータータウンズメモリー
岡崎昂裕
第1話 地下都市モルグ
「止まれ、ヴィクター!」
真っ黒なスーツに身を包んだ長身細身の男の前に躍り出したのは、細身に似合わない大口径の銃を構えた女だ。
男は立ち止まった。
黒いスーツケースを足元に下ろし、両手を挙げた。
「誰かと思ったら、ショーン、ショーン・ウエスギじゃないか。また来たのかい?しつこいねえ君も」
失笑。
「黙れ、ヴィクター・ホリデイ。ランドルフ!手錠をかけて!」
ヴィクターの背後にいた、ショーンの相方で、新入りのランドルフ・コーラルが間髪入れず肉薄し、チタン合金の手錠をかけた。
まだ、ハイプからモルグに転籍させられたばかりで、手柄を焦っている若者だった。
明日にでもハイプに戻りたいという態度が、前面に押し出されていた。
「OKです、ショーン警部補。連行しましょう」
ショーンは、ヴィクターの鼻面に銃を突きつけて、
「乗れ」
と顎で車を指した。
ヴィクターは鼻面に笑みの皺を寄せ、
「ショーン、いつからそんなに険しい顔をするようになったんだい?眉間に皺を寄せるのは止めた方がいい。今はまだ若いからいいが、三十歳も半ば過ぎたら、彫刻刀で削ったように、皮膚に谷間が刻まれるのだよ。特に、豊齢線や眉間にできた皺は、実年齢を五歳も十歳も老けさせる。せっかくの美人が台無しじゃないか」
せせら笑うようにショーンに告げた。
「大きなお世話よ。さっさと車に乗りなさい!」
冷静を装っているが、緊張の面持ちは隠せない。
ショーンは銃把でヴィクターホリディの背中を小突いた。
本当は、
(こんなに簡単に連行できる相手ではない)
ことを最も良く知っているのが、彼女だ。
ヴィクターは、薄笑いを浮かべたまま、ビクとも動かない。
「やれやれ、ショーン、撃ちたかったら撃ちたまえ。君も知ってのとおり、私は忙しい身でね。これから大切な取引先との商談があるのだが、死んでしまったらそんな鬱陶しいビジネスから解放される。君が私を楽にしてくれるのなら、それはそれで構わないし、むしろ感謝してあげるよ」
この減らず口が、ショーンは大嫌いだった。
思わず、このダンディな犯罪者の股間に、思い切り膝蹴りを喰らわせた。
「うおう!」
で、退散させてもらうよ」 その言葉を聞いて、ランドルフが逆上し、 「黙って言われた通りにしろ、このチンピラがっ!」 ヴィクターの横っ面を叩いた。 「たかがモルグのチンピラ風情が、調子に乗ってんじゃないぞ!」 背丈はあるが痩身のヴィクターに、マッチョなランドルフの一撃は見ている方が気の毒だ。 が、 「ダメよ、ランドルフ、彼に触らないで!あたしが連行する!」 ショーンの顔は青褪めている。 「何を言っているんだ、ショーン!今まで、ずっと長い時間、たかがこんなチンピラに手をこまねいていたんですか?だからいつまで経ってもモルグ担当から抜け出せないんですよ!さっさとこいつを牢にぶちこんで、一緒にハイプに帰りましょう!」 勝ち誇ったランドルフの表情が、何故かドス黒く見えた。
「さあ乗れ、チンピラ!」
もう一度ヴィクターのコメカミ辺り一撃を叩き込もうとした、ランドルフの拳が止まった。
勝利に酔いしれていたはずの彼の顔面は、小さな水滴に覆われている。
汗の粒だった。
「君は、ランドルフくんというのかね。随分と大口を叩いていたが、あれ?手が震えているよ」
くっくっくっ、と含み笑いし、ヴィクターは手を振った。
「折角頂いた腕輪だが、私には似合いそうもないので、外させて貰うよ。誰か、他の御仁にでもプレゼントしてくれたまえ、青二才のランドルフくん」
手錠が、
ちゃりん
と軽い音を立てて、ランドルフの足元に落ちた。
「ヴィクター、動くな、動くなといっている!」
ショーンが中空に威嚇射撃した。
しかし、ヴィクターは意に介する気配もない。
ランドルフは、手品を始めてみた子供のように茫然としている。
「ショーン、彼は相棒としてはこれまでの連中の中で最も使えないようだな。どうだね。警察官など辞めて、私の手伝いをしないか。この世の快楽の全てを、君に教えてあげるよ。同じことを前にも言ったか?」
ヴィクターは片手でランドルフを軽々と突き飛ばし、スーツケースを拾い上げた。
「ショーン、ガッカリしたよ。前にも言ったかもしれないが、少しは学びたまえ。私を捕まえたかったら、もう少しましな相方を連れてくるべきだと思うし、ふたりできた時点で策が稚拙だ」
唐突に、ヴィクターの前の空間が、渦を巻き、裂け目を作った。
「でないと、次は君を殺すことになるかもしれない。面倒くさい虫にたかられるのは、本当は好きじゃないんだ。もし君が親友の娘でなかったら、とっくに始末しているところだよ、ショーン」
「あんたは、パパの親友なんかじゃない!」
悲鳴のように叫んだショーンを尻目に、ヴィクターは空間の裂け目にゆっくりと進んだ。
「それでは、またね、かわいいショーン」
毒の色のような紫色の瞳に、タップリと嘲笑を浮かべ、ヴィクターはショーンを見た。
と、裂け目に入ろうとした瞬間!
「ダメ!ランドルフ!」
ショーンの声は届かなかった。
「待ちやがれ、このチンピラ!」
震える足を踏みしめて、ランドルフはヴィクターに飛び掛った。
「逃がさねえぞ!」
が、痩身のヴィクターは、巨躯のランドルフに掴みかかられていながら、平然と歩む。
「いいねえ、根性のある新人くん。折角だから、いいところに連れて行ってあげるよ」
「なんだと?」
と訊き返したランドルフは、裂け目の向こうを目の当たりにした。
「な、な、な、なんだあれは、ぎゃぁあぁぁーーーーーーーっ!!」
「うろたえたまえ、もっとうろたえたまえ、新人くん。楽しいぞ、あっちの世界は」
哄笑を残し、ヴィクターは裂け目の奥に消えた。
ランドルフを引きずって。
ショーンは、敗北に打ちひしがれ、悔し涙を流しながら閉じて行く裂け目を見守った。
(くそっ!だからひとりで来たかったのに!ランドルフの奴!)
タレコミは事実で、ヴィクター・ホリデイは現れた。
ただ、そのタレコミを最初に受けたのがランドルフだった時点で、無視したかった。
執拗にヴィクター・ホリデイを付け狙うショーンを罠にかけるトラップだと思ったし、ランドルフのように将来有望な若者をヴィクター・ホリデイの餌食にしたくなかったからだ。
だが、ランドルフは手柄を欲しがった。
命に代えても欲しがった。
それほど、モルグ、地下都市は息苦しい世界なのだ。
「だったら、今夜決めるわよ」
ショーンはそう彼に告げた。
やるんだったら、やる。
久しぶりのヴィクター情報だったのだ。
逃す手はないのかもしれない。
不安を振り切って、今夜ふたりで張り込みに入った。
ランドルフは、分厚く暖かい手で、ショーンの肩を握って肩もみしながら、
「警部補、俺、聞いてますよ。ヴィクター・ホリデイが警部補にとって、どれだけ憎むべき敵なのか。だから、仇討ちの手伝いができるんだったら、全力を尽くすって思ってました。そしたら、偶然にも今日のタレコミじゃないすか」
思い返せば、ヴィクターの言葉が引っかかる。
「少しは学びたまえ」
やはり、今回のタレコミはヴィクターのトラップだったのだ。
悔しくて悔しくて、涙が止まらなかった。
誰一人応援のいない捜査。
腐ったモルグの警察署に相応しい夜だった。
「捜査中に失踪、と。まあ、いつものことだし、気にすることはないぞ、ショーン・ウエスギ」
平然としている上司、コーネルの態度に、ショーンは憤懣やる方なしの態で、
「どうして新人のランドルフが、ヴィクターの出現場所を知っている情報提供者のタレコミ対象になったのか、腑に落ちません」
「彼には彼の情報屋がいたんだろう」
「ふざけないでください、コーネル部長!上から転勤してきたばかりの彼に、モルグの情報屋なんかつくわけないでしょう!」
上司のデスクに、ガン!と拳を叩きつけ、
「いいですか、コーネル刑事部長。まるで、ヴィクターに餌をくれてやったような気分なんです。それに奴は、私たちが知らない空間通廊を利用しているんですよ!許可されていない場所に、許可されない方法で通廊を作っている!それだけでも十分犯罪だというのに……」
いきり立ってまくし立てるショーンに、
「何をいってるんだ、ショーン?」
「何を言ってるって……」
「君は、一体何の話をしているんだ、ショーン」
薄笑いを浮かべたコーネルは、
「空間通廊?何のことだ?それは単なるうわさで、開発途中で放棄された計画じゃないか」
ショーンは動揺を隠せなかった。
「何を言ってるのか、聞きたいのはこっちよ!空間通廊は確かに閉鎖されたけど、つい半年前まで物資移送に使われていた……、私は目の前で、ランドルフがヴィクターにその空間に引きずり込まれていく姿を目撃者したんですよ!何もない空間に、あの」
必死で訴えるショーンを見返すコーネルの目には、微塵の光も見られない。
「ショーン、随分疲れているようだね。どうだ、休暇でも取らないか?この半年働き詰めで一日も休んでいないんだろ?どうだ、ハイプのママに、顔を見せに帰ったら」
と笑った。
どうかしてる、この町の警察は。
眉根をピクリと震わせ、ショーンはコーネルから視線を外し、署内の面々を眺め回した。
昨日まで感じなかった特別な違和感が、彼女を押し包もうとしている。
「君は、他の連中のように、ハイプでしくじって落ちてきた者とは違う。君はゲストなんだ。何しろ、あの伝説のヒーロー、オータムボーイの愛娘なんだからねえ」
コーネルの言葉に、署内のあちこちから忍び笑いが漏れ聞こえた。
これは嘲笑なのだ。
そうショーンは感じた。
「たった今から、休暇を頂きます」
踵を返し、ショーンはツカツカと足音を立ててデスクに戻ると、バッグを提げて出入り口に向かった。
「ごゆっくり、ショーン」
「土産を楽しみにしているよ、ショーン」
「勝手にいなくなったランドルフのことなんか、気にするな」
同僚たちからかけられる、温かな慰めのような言葉。
(これはすべて虚飾だ)
ショーンは脅え始めていた。
「ショーン、それでも君は戻ってくる。必ずここに戻ってくるんだ。分かってるだろ?」
肩越しに飛んできたコーネルの言葉に、ショーンはキッ!と振り向いて、
「ええ、勿論帰ってきます。ヴィクター・ホリデイを私の手で殺すために!」
だが、ヴィクターは殺せない。
赴任したその日に、署長の言葉からそう感じ取った。
「奴は悪党だが、モルグのVIPだ。誰しもが彼を畏怖し、尊崇し、そして彼のおこぼれに預かろうと媚びる。彼を敵に回すことは、モルグそのものを敵に回すことだ。そこのところを、よく理解しておいてくれたまえ、ショーン・ウエスギ。ここはモルグだ。ハイプとは違う」
ハイプに向かう弾丸エレベーターの乗り場、グランドホールに向かう途中の通路は、モルグ第一街区のメインストリート。
いつものように人ごみでごった返していた。
あちこちから流れ漂ってくる様々な匂いは、食い物のそれに饐えた腐臭が混じる。
雑菌が有機物を壊していく臭い。
甘い香りの中に中に、強いアンモニア臭と苦々しい鼻の奥を突き刺すような、不気味なにおいが混じる。
(死の臭いだ)
嗅いだことがないのに、ショーンはいつもそんな気がしていた。
どこかしこから、敵意を孕んだ視線を感じる。
それもいつものことだ。
この町に来てから半年も経つが、慣れたという感覚はいまだにない。
常に誰かに監視され、探られているような気がした。
モルグの警官だから?
違う。
(わたしが、オータムボーイの娘だからだ)
部屋に寄って、着替えや携帯用の化粧品を持って出てくるべきだった。が、
(ハイプで買えばいいし、ママのを借りてもいい。早くこの町から出なきゃ)
いざ出る決心をすると、一秒でも長くここに留まりたくない。
そんな町だ。
何か空気中のネバネバした毒々しい悪いものが、体全体に纏わりついてくるような、喩え難い嫌悪感。
グランドホール入り口の検問に辿り着いた。
ハイプの人間は出入り自由だが、モルグの住民は、一部しか移動を許されていない。
そういうルールだ。
検問所に、見たことのある顔がいた。
(あれは……)
名前は知らないが、Gと呼ばれている見知った男。
第一街区から第二街区へと通じる回廊の途中で、ミルクとホットドッグを売っている男だ。
初めて赴任した日、朝食を食べていなかったせいで腹がペコペコだった。
その時に、あまりにいい匂いをさせていたので、彼から二本も買って平らげた。
「お嬢さん、モルグは初めてかい?」
「ええ。わかる?」
「そりゃあわかるさ。だって、そんな垢ぬけた格好している若いスタイルのいい、しかも美形の女なんて、モルグにいるわけねえだろう。一番人気のキャバレーには、いい女がいなくもないが、あんたみたいにキリッとしてなくてね、酒とドラッグと煙草で内臓がくたびれてるから、不健康なのさ。だけどあんたは違う。まあ、いわゆるピュアだ。俺たちモルグどもが知らない、ピュアな娘さ」
と、冗談ぽく笑った。
それが下卑てなくて、ショーンは彼のことが少し好きになった。
赤髪の巨躯、おっとりとした容貌で、いつも優しい笑みを浮かべ、それがモルグに似つかわしくないというので、頻繁にチンピラからちょっかいを出されていると知った。
赴任して数日後、チンピラたちがGに言いがかりをつけ、屋台を守ろうとする彼を殴ったり蹴ったりしている姿を見た。
「やめろ!警察だ!」
それを追い払ってやったことで、ふたりの仲は打ち解けたものになっていった。
その彼が、ハイプへのエレベーターホールにいる。
場違いだった。
「G、どうしたの?」
ショーンの方から声をかけた。
「どこか行くの?モルグから出るにはパスがいるのよ。知ってると思うけど」
Gはショーンを見返り、細い目を益々細くしてにっこりと笑い、
「やあショーン、待っていたよ」
「待ってた?あたしを?」
「ああ、そうさ」
と、Gは頷き、
「パスなら持ってるよ、ショーン。さあ、一緒に行こうか」
ショーンはハッと身構えた。
「まさかあんた、ヴィクターの仲間じゃないだろうね!」
突然の大声に、周囲にいた群集の視線がショーンに集中した。
警備兵たちが、ショックガンをホルスターから抜きつつ駆け寄ってきた。
「どうした、何があったんだ?」
ショーンはIDのスイッチを押した。
すると空中にショーンの姿とプロフィールが映し出された。
「これは失礼いたしました、ショーン・ウエスギ警部補!この男を連行しますか?」
警備兵が銃の筒先でGを指し示すと、
「いいの、私の勘違い。彼はただの旅行者よ」
ショーンの言葉に安堵したかして、検問所付近は再び元の喧騒に戻った。
Gは静かに佇んだままだ。
「答えて。あなたはヴィクターの関係者なの?」
Gは否定も肯定もせずに、
「ショーン、ハイプに行く前に、ちょっと付き合ってくれないか?」
「付き合えって、どこへ?」
探るように、ショーンはGの双眸を見据えた。
そのふたつの瞳の奥に、何が隠されているのか。
Gは微動だにしない。山のような巨躯は、一切呼吸すらしていないかのように静かだった。
「ミッドタウンに」
ボソリとGか答えた。
ぴくり
とショーンのコメカミが震えた。
「なんですって?」
Gは薄く笑って、
「一緒に行って欲しい場所があるんだ。頼む、悪い話じゃないんだ。付き合ってくれないか、ショーン」
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