胸の高鳴りと予想外の事故
「ふふっ、だめよ、もう……!」
「いいだろ、別に……お前だってその気になってるくせに……」
「やぁん……」
人気のない暗闇の中でもつれ合い、話をしている男女。
有栖と同じ浴衣姿の二人は、同じソファーの上で体を寄せ合っている。
貸し出し用の毛布を二人で分け合い……というより、体を隠すように使う彼らは、イチャつきというぬるい表現よりも一歩進んだ絡み方をしていた。
「そういうこと、禁止されてるでしょう? 見つかったらどうするのよ……?」
「大丈夫だって、誰も来やしないさ……」
「っ……!?」
無音の暗闇の中では、二人の囁くような話し声もよく通って聞こえる。
拒むような口ぶりをしている女性の方もまんざらではない表情を浮かべており、男性からの熱烈なアプローチを楽しんでいるようだ。
しゅるりと音を立てて着物の胸元を緩めた女性が、その中に男性の手を受け入れる。
見えないところで唇を重ね合わせ始めた二人の姿を目にした有栖は、小さく息を飲むと咄嗟に物陰に隠れて口元を両手で押さえた。
(こ、こ、こ、これって、そういうこと、だよね……? どどど、どうするべき、なのかな……?)
有栖だって無知というわけではない、あの男女が何をしようとしているかくらいわかっている。
人目につかない場所で、こっそりと体を重ねようとしているあの二人の行動は間違いなくこの施設の規約違反ではあるが、かといってそれを職員に報告すべきかどうかは迷いどころだ。
別に直接迷惑をかけられたわけでもなければ、見せつけるような真似をしているわけではない。
彼らはちょっとしたスリルを味わいながらお楽しみに興じようとしているだけで、他の利用客をどうこうしようとしているわけではないのだから。
となれば、一番いいのは見て見ぬふりをしてこの場から立ち去ることだろう。
下手にチクったと思われて恨みを買うのは嫌だし、自分が見なかったことにすればどうにでもなることだ。
そう思いながら、この場から立ち去ろうとした有栖であったが……その前にもう一度、息を殺して男女の姿を覗き見し始めた。
ごくりと生唾を飲み込みながら、柱の陰に隠れて二人を覗き見る彼女は、どうして自分がこんなことをしているのかわからずにいる。
ただ、どうしても抗えない魔力のようなものを感じていて、自分はそれに従ってしまっているのだということは何となく理解できていた。
「んっ、ふっ……!」
「ふふふ、いいねえ……! お前も乗ってきてるじゃん」
「あなたの方こそ、随分と盛り上がってるみたいだけど?」
「お互い様だろ? 細かいことは気にせず、楽しもうぜ……!」
遠巻きに見ている上に大事な部分は毛布で隠れている状況だ、全部が全部を目にすることなんてできない。
ただ、あのカップルが唇を重ね合わせ、さらに舌まで絡めたキスをしていることは有栖にもわかった。
どくん、どくんと心臓が脈打つ。
吐息が荒くなり、熱を帯び、段々と甘さを持つようになってくる。
むっつりすけべはどっちだと、先ほど心の中で零に対して発した罵声がブーメランのように戻ってきていることを有栖は感じていた。
こういう時、何も見なかったことにしてこの場を離れるのが正しい行動であるはずなのに、自分は覗き見という最低の行為に手を出してしまっている。
これじゃあ、零に何も言えないな……と思いながら、高まっていく男女のボルテージに比例して、有栖の体もまた熱を帯び始めた、その時だった。
――カンッ、ガコンッ!!
「っっ!?」
「えっ、誰っ!?」
有栖の背後にある自動販売機たちが大きな音を響かせる。
何らかの動作によって響いた音だったのだろうが、無数の自動販売機たちが一斉にガコガコという盛大な音を鳴らしたことで、その音量はかなりのものになっていた。
行為に夢中になっていたカップルも流石にその音に驚き、入り口の方を見やる。
その視線の先に自分がいることに気が付いた有栖は、大慌てで逃げ出そうとしたのだが――
「あっ!? うっ、つぅ……!!」
――慌て過ぎたせいか、反転して駆け出そうとしたその瞬間に足首を捻り、その場に倒れ込んでしまった。
ズキズキと痛む足を擦りながら、あまりの情けなさに涙目になっている彼女の下へと、浴衣を着直したカップルが歩み寄ってくる。
「だ、大丈夫? 怪我してない?」
「あ、え、えっと、そ、その……」
「ご、ごめんね。その、私たちが驚かせちゃったみたいで……」
どうやらカップルたちは、有栖が自分たちの大人な行為を偶然目撃した拍子に驚いて足を捻ったと思っているようだ。
まさか彼女が自分たちのことを暫く覗き見していたとは思っていない二人は、規約違反どころか完全に公序良俗に反する自分たちの姿を目撃された上に怪我をさせてしまったと思い込んでいるせいで有栖にぺこぺこと頭を下げている。
「あ、歩ける? 人を呼んでこようか?」
「え、えっと、お、お願い、できますか?」
「ああ、わかった! あ、その……この施設の職員じゃなくって、君の連れでもいいかな……?」
「は、はい。大丈夫です。その、マッサージルームにいると思いますから……」
なんとも気まずい空気が流れる中、カップルの男性の方が有栖に許可を取ってからマッサージルームへと駆け出していった。
マズい行為をしていた彼からしてみれば職員を呼びたくないだろうし、有栖の友人を頼るというのもおかしな話ではないだろう。
そうして、女性の方と二人きりになってしまった有栖は、彼女に対する罪悪感と緊張感、そして女性恐怖症によってパニック状態になりつつあった。
もしも自分が彼女らの行為を覗き見していたことがバレたらどうなるのかと、嫌な妄想ばかりが頭に浮かんで思考がまともに働かなくなる中、女性の方が気まずそうな表情を浮かべながら言う。
「あの……お願いだから、私たちがしてたことは誰にも言わないでもらえる? 必要だったらその、口止め料も渡すから――」
「あぅ、あ、うぁ、う、あぅあ……」
手にした財布の中から、福沢諭吉の肖像が描かれている紙幣を取り出そうとする女性。
覗き見までした上にお金まで貰うわけにはいかないと思いながらも、パニック状態にあるせいで上手く話せずにいる有栖が声にならない呻きを漏らし続けていると――
「有栖さん! 大丈夫!?」
「あっ、れ、零、くん……!」
突如として背後から響いた零の声に、ビクッと反応する有栖。
女性の方も大慌てで万札をしまい、有栖と同様に駆け付けた零の顔をおっかなびっくりしながら見つめている。
「か、彼、君のお友達……だよね?」
「は、はい、そうです……!」
有栖を心配しているが故に険しい表情を浮かべている零を伴って帰ってきた男性の問いに対して、有栖は肯定の意を示した。
おそらくは自分が足を捻って歩けなくなっているということしか知らないであろう零は、そんな彼女の下へと大股で歩み寄ると、脚と背中に手を伸ばし、ひょいと小さな体を持ち上げてみせる。
「すいません、ありがとうございます。あとは俺がやるんで、大丈夫です」
「そ、そう? それじゃあ、よろしくね……」
「あの、お願い、ね……?」
男性の方は零に、女性の方は有栖へともごもごとした様子で挨拶をしてから、足早にこの場から立ち去ってしまった。
彼女が言う、お願いというのは口止めをよろしく頼むという意味なんだろうなと思いつつ、零と二人きりになった有栖は、彼にお姫様抱っこをされている状況に赤面しながら口を開く。
「……ごめん。また迷惑かけちゃって……」
「何言ってるの! そんなことより、足は平気? どんなふうに捻ったの?」
「だ、大丈夫だよ。そんなに腫れてないし……骨折とか、そこまではいってないと思うから……」
まさか、さっきのカップルの情事を覗いていて、それがバレそうになって大慌てで逃げようとしたら足を捻った……などとは言えない有栖は、適当に零の追及をごまかしつつ、彼に怪我の状態を伝える。
ただただ有栖のことを心配している様子の零は彼女の言葉に安堵すると、大事そうに有栖の小さな体を抱えたまま、ラウンジの方へと歩きだした。
「とりあえず、足を冷やそう。スタッフさんに言えば、氷くらい貰えるでしょ」
「あ、うん……」
どくん、どくんと心臓が脈打つ。顔の赤みが引かず、零の腕の中に抱かれている感覚に胸の高鳴りが止まらないでいる。
先ほどのカップルのキスを思い出し、いつもより近くに見える零の険しい表情を目にして小さく息を飲んだ有栖は、胸と下腹部を手でぎゅっと押さえながら、無言を貫き続けるのであった。
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