零、ヴァンパイアになる

「……ん、あれ……?」


 大きな、とても大きなベッドの上で、有栖は目覚めた。

 天蓋付きのキングサイズベッドに相応しい豪勢な部屋の光景を見回した彼女は、ぼうっとした頭を押さえながらふるふると左右に首を振る。


 いったい、ここはどこなのだろうか? 自分はどうして、こんな場所にいるのだろうか?

 最後の記憶は何だったかと暗い部屋の中で意識が途切れる前の自身の行動を振り返ろうとした有栖であったが、そんな彼女の耳に馴染みのある声が響いた。


「目を覚ましたんだね、有栖さん」


「あぇ……?」


 その声に反応した有栖が顔を上げれば、そこには普段とは少し違う格好をした零の姿があった。

 薄いランタンの明かりに照らされる彼の姿を目を細めて見つめた有栖は、今の零が放つ妖しい色気に背筋をゾクリと震わせる。


 中世の貴族が纏っていた礼服を思わせるその出で立ちは、背の高い彼と非常に高い親和性を見せている。

 黒を基調とした上着には所々に黄金の装飾が施されており、それが服を着る者に高貴さを与えているように見えた。

 左肩からは血のようなワインレッドカラーのマントが伸びており、ファー付きのそれは零のことを優雅に彩っている。


 そこで有栖は自分があまり美しいとはいえないぼろぼろのドレスを着ていることに気が付き、感じていた困惑を更に強めた。

 何もかもが理解できないと思いながらも、彼女は何か事情を知っていそうな零へと声をかけようとしたのだが――


「ごめんね、有栖さん。あんまり乱暴なことはしたくなかったんだけど……」


「れ、零くん……!?」


 瞬き一つの間に音もなく有栖の傍に移動した零が、左手を彼女の頬に添える。

 何よりも大切で愛しいものに触れるような慈しみと、それが故の罪悪感が滲んでいるその手から彼の複雑な感情を読み取った有栖は、近い位置にある零の顔を見てはっと息を飲む。


 赤よりも深い、紅だった。

 満月を思わせるような円であった。


 ブラウンであるはずの零の瞳は妖しい紅に染まっており、ルビーのような美しい輝きを放っている。

 その瞳に、紅の満月を思わせるような彼の二つの眼に自分の姿が映っていることを見て取った有栖が言葉を失う中、零は悲しみと愛情を入り混じらせた声で彼女へと語り掛け始めた。


「愛しているよ、君のことを。心の底から大切に想っている。だからこそ、君を失うなんて耐えられない。俺は、君と永遠に共にあり続けたいんだ」


 それは愛の告白であり、懺悔でもあった。

 ただならぬ雰囲気の彼が何を思ってこんなことを語っているのかがわからない有栖であったが、この状況に自分が胸の高鳴りを覚えていることにも気付いている。


 ゾクリ、ゾクリ……と、込み上げてくる興奮が自分の気持ちもまた零と同じであることを主張していることを理解した彼女は、自分を真っ直ぐに見つめる彼の言葉を耳にして、口から甘い息を漏らした。


「……大丈夫、痛くなんかしないよ。ほんの少し、違和感があるだけさ。それで全部が終わる、そして……始まるんだ」


 吸血鬼だ、と有栖は思った。

 今の零が何かに似ていると考え続けていた彼女は、その正解に辿り着くと共にごくりと息を飲む。


 多くの物語や伝承において、中世の貴族として正体を隠しながら若い娘の血を吸い続けた怪物、ヴァンパイア。

 零が何故、そんな怪物になってしまっているのかはわからないが……彼が今、何をしようとしているのかはわかる。


 不思議と恐怖はなかった。拒む気持ちも微塵も湧いてこなかった。

 どくんっ、と心臓が大きく高鳴った次の瞬間には有栖は覚悟を決めていて、一歩前に踏み出すと共に彼の胸の中に飛び込んでいく。


 小さな彼女の体を優しく抱き締めた零は、そっと有栖の頭を撫でると……体と心の芯を蕩けさせるような甘い声で囁いてみせた。


「ありがとう、有栖。安心して、全てを俺に委ねてくれ……」


 初めて彼に呼び捨てにされたこと、甘い囁きで語り掛けられたこと、優しく抱き締められていること……その全てが有栖の胸を高鳴らせ、吐息に熱を帯びさせる。

 ゆっくりと彼女の顔を傾け、首を露出させた零は、細く華奢な有栖の首筋に顔を寄せると……二本の鋭い牙を突き立てた。


「あっ、ああっ……!!」


 甘く恍惚とした有栖の声が部屋に響く。

 ヴァンパイアと化した零に血を吸われている彼女の口から溢れているのは悲鳴ではなく、嬌声であった。


 急所である首に牙を突き立てられているというのに、痛みは一切感じていない。

 むしろどこか心地良くて、夢見心地で……零と自分が混じり合っていることを強く実感した彼女の吐息は、幸せの熱を帯びている。


 彼に血を吸われ始めて、どれだけの時間が経っただろうか?

 一分? 二分? 数時間経ったようにも思えるし、十秒にも満たない短い時間のようにも思える。


 そうして、濃密な交わりの儀式を済ませた零は、ゆっくりと有栖の首筋から牙を抜き、彼女の瞳を見つめた。

 有栖もまた彼の顔を見つめ返すと共に、自分が生まれ変わっていくような不思議な感覚に目を細める。


「……おいで、有栖」


「はい……!」


 零に優しく手を引かれながら語り掛けられた有栖は、夢遊病者のようなぼうっとした声で返事をする。

 巨大な姿見の前まで連れて来られた彼女は、そこに映る自分の姿を目にすると、恍惚とした笑みを浮かべた。


 吸血鬼は鏡に映らないという言い伝えを聞いたことがあるが、あれは嘘だったのだろう。

 現にこうして、自分も零もこの鏡に映っているのだから。


 零と同じ、紅の瞳になっている自分の姿を目にした有栖は、彼に血を吸われたことで自分もまた吸血鬼になったということを理解する。

 人間などとは比べ物にならない無限の命を持つヴァンパイアへと変わった有栖は、先の零の「永遠に共にあり続けたい」という願いが現実のものとなったことに胸の高鳴りを強めた。


「これからずっと、ずっと……永遠に一緒なんだね、私たち……」


「ああ、そうだよ。俺と君は、共に永久を生きるんだ」


 全てを受け入れた有栖の囁きに応えた零が指を鳴らす。

 そうすれば、彼女が纏っていたぼろのドレスは跡形もなく消え去り、代わりに漆黒のウエディングドレスが彼女の身を包んだ。


 純白の花嫁とは程遠い、妖しい花嫁姿。

 だが、これでいい。今の自分には、これほど相応しい衣装はない。


 夜の闇の中でしか生きられない零の花嫁となった自分には、白だなんて色は眩し過ぎる。

 彼が愛し、彼を包み込む闇と同じこの漆黒こそが、自分に相応しい色なのだ。


「綺麗だよ、有栖。今、この世界に君以上に美しいものなんて存在していない。君は世界の何よりも美しい俺の花嫁だ」


 愛の囁きと共に有栖の唇を人差し指でなぞった零は、そこに口紅代わりに真紅の血を塗っていく。

 紅と黒、今の彼と同じ色合いの出で立ちとなった有栖へと熱い眼差しを向けた彼は、彼女を抱き寄せながらこう言った。


「この闇の中で共に生きよう。永遠に、愛し合って生き続けよう」


「はい……! ずっと、一緒に、愛し合って……!」


 招待客も神父もいない。自分たち以外の誰も必要としない。

 漆黒の帳の中でお互いの愛を確かめ合った二人は、永遠の時を生きる誓いを交わすべく唇を寄せ、そして――







「う~ん……ふにゃ……? れい、くん……?」


 けたたましい目覚ましの音で目を覚ました有栖は、寝ぼけ眼を擦りながら今の今まで傍にいたはずの零の姿を探した。

 キングサイズのベッドも、豪華な中世風の洋室も消え去り、代わりに出現した社員寮の自室の光景を暫しの間ぼーっと見つめていた彼女は、やがて今まで自分が見ていたものが全て夢であったことに気が付くと込み上げてきた羞恥に顔を真っ赤に染め上げる。


 ぼんっ、と音がしてしまいそうなくらいに顔を熱くし、同様を呼吸にまで表してしまっている有栖は、ばくばくと脈打つ心臓の鼓動を抑えるように左胸に手を当てながら、大きく深呼吸をした。


 どうして自分があんな夢を見てしまったのかはわかっている。

 昨晩、梨子から蛇道枢のハロウィン衣装制作のための参考として零にヴァンパイアの衣装を着せた際に撮影した写真が送られてきたからだ。


 梨子が選んだ衣装が良かったこともあるのだろうが、恵まれたスタイルとやや怖めの顔を持つ零は吸血鬼のコスプレを見事に着こなしてしまっていて、二期生に一括送信された写真を見た時は全員が驚いたものだ。

 あの天でさえもからかうのを忘れて零の姿に見惚れていたといえば、その破壊力も想像がつくだろう。


 寝る前に送られてきたその写真を見て、ヴァンパイア特有の妖しさというか、色気というものを感じてどきどきと胸を高鳴らせながらベッドに潜った自分は、そんな彼のことを夢にまで見てしまったようだ。

 だが、しかし……だからといって永遠の愛だとか永久を共に生きるだなんてのは、明らかに行き過ぎだ。


「はぅぅ、あぅ……」


 そっと、夢の中で彼に噛まれた首筋を撫でた有栖は、当然ながらそこに何もないことを指先で感じ取って安堵すると共に……僅かな無念さを覚えた。

 あれが夢であることはわかっているのだが、万が一にもそうじゃなかった時、自分は……という思いを抱いた彼女は、それを振り払うかのように大きく頭を振る。


「どうしよう、暫く零くんの顔、見れないかも……!」


 あんまりにも恥ずかしい夢を見てしまったから、暫くは零の顔をまともに見られない気がする。

 というより、この夢を忘れることなんてできるのだろうか? とそれこそ永遠に自分の胸に刻み込まれてしまった夢の中の出来事を思い返した有栖は、再び込み上げてきた羞恥をごまかすようにして布団に潜り、ぎゅっと瞳を閉じるのであった。




 


 ……なお、騒動の原因となった梨子は零から「何勝手に人のコスプレ写真を同僚に送りつけてんだ」とブチギレられ、締め上げられ、何度目かわからない絶縁宣言を食らって号泣したそうな。


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