感謝


「本当に……ありがとうございます! あなたのお陰で、くるめいスペシャルセットを無事に手に入れることが出来ました!」


「いえ、大したことはしていませんよ。本当に望む人の元にグッズが渡って良かったです」


 それから数十分後、本日2回目の行列に並ぶという行為を終えた界人の腕の中には、お目当ての品であるくるめいスペシャルセットが抱かれていた。

 自分と同じく目当ての品であったそれを購入した謎の少女に頭を下げて感謝する界人へと、彼女は軽く手を振って応えた後、マスクの上からでもわかる浮かない表情になりながら言う。


「それに、根本的な問題は解決していませんからね。あの2人組がくるめいスペシャルセットを買えなかったとしても、彼らが雇ったアルバイトたちはしれっと購入しているでしょうし、彼ら以外の転売ヤーだっています。この勝利も、ただの自己満足に過ぎないんですよ」


「だとしても、この2つが転売ヤーじゃなくて枢と芽衣ちゃんを本気で愛している人の手に渡ったことは間違いなく喜ぶべきことですよ! 自己満足、いいじゃないですか。今は推しのグッズが手に入ったことを満足して、それを喜びましょう」


「……そうですね。あなたの言う通りです。今はこの喜びを噛み締めるとしましょうか」


 そう、界人の言葉に表情を和らげた少女は、ほんの少しだけ声に温もりを込めながらそう呟いた。

 自分の言葉で彼女の気持ちが上向きになったことを喜びながら、界人はこう続ける。


「もしよければ、少し話しませんか? こうしてリアルで【CRE8】を推す人というか、くるめい好きの同志に出会ったのは初めてなんで、良さについて語り合いたいというか……道案内のお礼にはならないかもしれませんが、飲み物くらいなら奢れますんで」


「とても魅力的なお誘いですが……申し訳ありません。実はこの後、急ぎの用事が入ってるんです。すぐにでも現場に向かわなければならないので、そのお誘いはお受け出来ません」


「そう、ですか……仕方がないですよね。じゃあ、ここで。またどこかでお会い出来たら、その時こそくるめいの良さについて語り合いましょう!」


「はい。その日を楽しみにしています」


 ぺこりと頭を下げ、会場を後にすべく足早に歩き始めた少女は、数歩歩いたところでなにかを思い出したように立ち止まると、界人の方へと振り向く。

 そして、彼の目を見つめながら、こんなことを言った。


「あ、そうだ。もし私のしたことに恩義を感じているのなら、1つお願いがあります。おそらくですが、コミフェス初日が終了した辺りから、フリマサイトでくるめいスペシャルセットをはじめとした商品の転売が始まるでしょう。もしあなたがSNSをやっているのなら、転売されている商品を買わないよう、注意喚起をしてくださると助かります」


「ああ、そんなことですか! 任せてください! 実は俺、SNSではそこそこ知名度があるんです! きっとお役に立ってみせますよ!」


「ふふっ、そうですか。私も有名度であればそこそこあるので、お互いに転売ヤー対策の大きな力になれそうですね。では、今度こそ失礼します」


 高額転売される商品を買わないよう、SNSで【CRE8】の箱推しファンたちに注意してくれという少女の頼みに対して、力強く胸を叩きながら了解の意を示す界人。

 なにを隠そう、Pマン名義のアカウントを持つ彼は蛇道枢ファンの中では注目される存在であり、フォロワーの数も一般人にしてはそこそこの数を誇っており、彼女の願いを叶える一助にはなるはずだ。


 自身の申し出を快諾してくれた界人の言葉に安心した様に微笑んだ少女は、改めて彼に別れを告げるとコミフェス会場を後にする。

 そして、道すがらに拾ったタクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げてから、息苦しさが限界だとばかりに顔を隠していたマスクを外し、深呼吸を行った。


「ふぅ……ミッション・コンプリート。くるめいスペシャルセット、ゲットだぜ……!!」


 プライバシーが守られる密室空間となったタクシーの車内で、ようやく正体を現した謎の少女こと黄瀬祈里は、無理をしてでも購入した戦利品を眺めながら満足気にそう呟く。

 そして、自分と同じように枢と芽衣を推すファンの出会いという、形のない収穫を思い返した彼女は、小さく微笑みを浮かべて今日という日に味わった喜びをかみしめるのであった。

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