苦行



「くっ……! 聞いてはいたが予想以上の苦しさだな、これは……!!」


 それから数時間後、午前8時。

 始発で会場の最寄り駅にやって来た人々が既に出来上がっていた開場待ちの列を目にして絶望し、その最後尾に続々と加わっていく中、比較的前方の位置にいる界人は、夏コミフェスの洗礼を受けている真っ最中であった。


 その洗礼の名は暑さ……夏という季節における、人類にとっての最大の敵である。

 

 過密した人口が待機場の熱気を増させ、そこに集う人々の体感温度をぐんぐんと上昇させていく。

 ただでさえ厳しい夏の日差しを浴びて暑さに呻いているというのに、1000を軽く超えるであろう人々が限られたスペースに続々と集まっているのだ、待機場の気温は留まることを知らずに上がり続けている。


 界人が列に並び始めて、この時点で既に3時間が経過している状況。

 厳しい夏の暑さに体力を消耗し、いくら拭っても噴き出す汗がべたつきと共に不快感を感じさせ、精神的な苦しみを味わわせている。


 この暑さこそが、夏コミフェスが初心者にお勧めされない最大の要因であり、事前準備をしっかりと行っておけと参加者たちが口を酸っぱくして言い続ける最大の要因だ。

 水分補給や体温調整用のグッズを用意せずに夏のコミフェス会場に来ると、それはもう酷い1日を送ることになるであろうし、下手をすれば倒れてしまう危険性だってある。


 そういった面では、しっかりと事前に情報収集を行って準備を整えていた界人は、実に優秀なオタクといえるだろう。


 前日は早めに眠りに就き、十分に体力を充実させた状態で当日を迎える。

 流す汗を拭うタオルや汗を搔かないようにするための制汗スプレー、水分及び塩分補給用のスポーツドリンクやラムネ、熱くなった体を冷ます冷却グッズなどを用意し、万全の態勢で会場入りした界人は、そのお陰か暑さに負けるような状態には陥ってはいなかった。


 だがしかし、逆にいえば警察官として健康な肉体を維持し、ここまで準備した界人ですら暑さに呻くような状態に陥っているといえば、夏コミフェスの恐ろしさが理解出来るだろう。

 聞いていた以上の暑さに加え、周囲の人々が流した汗がそのまま悪臭となって漂う地獄のような待機場の中で、界人は一生懸命に開場を待ち続けていた。


(この程度の熱さに、日々炎に巻かれている枢の傍に在る者であるこの俺が負けるはずがない! 臭いだって濃厚クソマロに比べればなんてことはないさ!)


 とまあ、暑さのせいではなく元からヤバい思考をしている彼は、推しへの愛でこの夏の気温と悪臭に耐えつつ、周囲の状況を見回している。

 十分な休養を取った上で会場にやって来た自分ですらそこそこに厳しい状態なのだ。昨夜から眠りもせず、自分以上の時間をこの待機場で過ごしている徹夜組の体力の消耗はかなりのものだろうなと、そんな考えを界人が頭に浮かべたその瞬間、列の前の方で騒ぐ物音が聞こえてきた。


「おい、こっちだ! 担架か車椅子を頼む!」


「また人が倒れたみたいだ! 救護室に運んでやってくれ!」


 スタッフと思わしき数名の男性たちの声を耳にした界人は、この暑さによって熱中症になった者が現れたという報告に顔を顰める。

 そんな彼の横をぐったりとした状態の男性を乗せた車椅子を押すスタッフが駆け抜けていき、暫くすると前方のざわめきも落ち着いていった様子であった。


(スタッフさん、手際が良かったな。あれだけ手慣れてるということは、暑さで倒れる人たちが大勢いるってことか……)


 迅速なスタッフの対応に感心した界人であったが、それが即ち彼らが手慣れてしまうほどに熱中症になる人間がいるということを意味していることに気が付くと、何とも言えない渋い表情を浮かべる。

 人間、体長が悪くなることは誰にだってあるし、仕方がないことだとは思うが……深夜から寝ずにこの場に待機し続け、自ら体力を消耗した状態になってからこの苦行といって差し支えない待ち時間を過ごした上で倒れてしまう徹夜組の行動には、あまり同情出来ないと思ってしまってもいた。


 こういった問題が起きる可能性が十分にあるからこそ、やはりコミフェス運営が定めたルールを遵守する必要があるのだなと、界人が実際に目の当たりにした事例から規則の重要さを噛み締めていると――

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