第33話 すべての始まり

 幼い頃に両親を亡くした僕は、親戚の知り合いが経営している寮に入れられた。

 でも三日目から退屈な毎日が嫌になり、毎晩抜け出しを図っていた。いつもは無駄に勘のいい寮長に先回りされて連れ戻されていたが、その晩は運よく抜け出すことができた―――はずだった。


 夜中にみんなが寝静まったのを確認してから、寮長によって透明の電気柵が張り巡らされた塀を、僕は感電しないようにと本体バッテリーを壊したのち、なんとか登り切ることに成功した。


 その塀を超えた先に偶然、一人の少年が立っていた。


 予想外の出来事だった。

 彼と出会ったことで、僕の脱走計画が狂ってしまったのだった。


 僕と同い年くらいに見えるその少年は、年齢に似合わない落ち着きと、どこか達観した綺麗な藤色の瞳を持っていた。塀を乗り越えたばかりの僕を動物園にいるラクダを見るような、少し意外そうな目で見つめた。僕も誰かに見られることは想定していなかったので対応に困り、僕たちの間に無言の数秒間が過ぎた。


「……見なかったことにするよ」と先に声を発したのは彼だった。背中を向けて、そのままスタスタと歩く。 

「待て待て。絶対嘘でしょ。この後、親とか警察に云いつける気でしょ」

「嘘じゃないって。君が若くして道を踏み外そうと、僕にはまるで関係ない」

「え、ちょっと待って、それは誤解だ。僕は健全にただ逃亡を図ろうとしただけだよ」

「それを健全とは云わないと思うけど……」と僕の笑顔を無視して彼は溜息交じりに云った。


「いずれにせよ、君の逃亡劇を誰にも明かす気はないから、これで」

 そう云って歩き去ろうとする少年の腕を、僕は慌てて掴んだ。

 すると突然、少年が凍り付いたようにぴたりと動きを止めた。

「ほ、ほら取引をしよう。僕はこの後ピザ屋にでも行って修行してくるから、その見返りとして君にチーズたっぷりのを沢山、」

「どうして泣いているの」と振り向いた彼が僕の話を遮って云った。

「え?」

「何か……悲しいことでもあった?」


 僕の胸をドスンと大砲が貫いた―――気がした。それほど衝撃的だった。

 誰にも疑われたことのなかった僕の平静さを偽りだと見抜いたのは、ただ一人だけ。それが出会ったばかりの同い年くらいの少年だった。


「何を……わけわからないこと云って……」

 泣いている?そんなはずはない。至ってドライアイだし、そもそも涙なんてどう流していいか忘れてしまったから、泣いているはずがない。でも少年は確信した様子だった。

 初めての事態をどう対処していいか分からず、僕は混乱していた。

「君が悲しんでいることは僕には分かる。……分かりたくないけど、分かってしまうんだ」

 彼は微かに震える声でそう云った。そして僕を見て、悲し気に微笑んだ。

 その時、気付いた。

 ―――彼も僕と同様に、能力ちからの持ち主だということに。

 そう思うと安心したのか、なぜか笑ってしまった。

「……なんで笑ってるの」

「いいじゃん、人の表現は自由だろ」

「そうだけどさ……」



「イ……オイ起きろや!」

「っ!」

 はっとした緘人の鼻の先には、見覚えのある顔が覗き込んでいた。紫水晶のリングを首にかけたルゥドの幹部の一人―――豹瑠。

「ったく、呼び出しといて昼寝してんじゃねェ!」

 ―――そうか、またあの夢か―――

 緘人は身を起こして牙を剥く豹瑠に向き直る。

「……寝起きに君の顔見るとか、寝覚め史上最悪なんだけど」

「アァ⁉」 

 殴りかかる豹瑠の拳をかわしながら、腕を伸ばす。

「これだよ」

 緘人は衣服の切れ端を投げた。赤茶色の血痕が生々しく残る布に、豹瑠は顔をしかめる。

「ったく、この前の爆弾といい今回の薬といい……人を探知犬扱いすんな!」

 切れ端を受け取った豹瑠は緘人を睨んだ。

「何云ってんの、君には犬みたいな狡猾こうかつさも愛くるしさも皆無だよ。トカゲの尻尾の方がまだ可愛い」

「ンだと手前ェ‼」

「あ~しんじゃう~」

 豹瑠は緘人の首元を持ち上げ、牙をむき出して威嚇する。しかし緘人はおどけた様子で壊れた操人形マリオネットのようにぶら下がったままケラケラと笑う。

「おぬしら、またやっとるのか」

 二人のもとに気配無く階段上に姿を現したのは、黒鳥を肩に乗せたマコトだった。「此処ここはこの後わしが使用する予定じゃ。とっとと用事を済ませろ」

「ほら、君がつべこべ云うから時間が押してるじゃないか。早く嗅ぎ給えよ」

 緘人は豹瑠の手からいつのまにか抜け出し、ひらひらと手を振りながら云った。

「殺す……」

「上手くできたら、ご褒美に試してみてもいいよ。ま、無理だろうけど」

「それは見ものじゃな。早くせい豹瑠、つつくぞ」

「くそっ……わァーったよ、ったくどいつもこいつも」不服そうに文句を云いながら豹瑠は衣服を手に持ち、鼻に近づけた。

 目を閉じ、思考も止め、全神経を嗅覚に充てる。

 布のまとった空気を鼻孔に吸い込み、あらゆる情報を読み取る。豹瑠の嗅覚からは視覚することのできない細かな粒子でさえも、逃れることはできない。


 やがて目を開き、豹瑠は口元を歪めた。

「……ああ間違えねェ。あの会場にいたやつと同じ匂いだ」

「場所は特定できる?」と緘人は訊く。

「微かだが、灰と煙の匂い……海の匂いも混ざってやがる……近くだぜ」

「あー、確か港湾近くで原因不明の爆発事故がこの前あったっけ」

 すると緘人は豹瑠の首元の輪から零れるリボンを引っ張った。「よし、散歩に行こう!」

「ちょっ、待て、引っ張るなァ‼」


 猛獣使いと猛獣のように歩き去る幹部二人を、マコトは白い目で見送った。

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