第19話 好きと好き
「私、あんたの歌が好き」
突然の告白。
息を吸って、吐く。
思考はすでにマヒしている。
目の前に突き付けられた現実が、空虚なものに感じられる。
俺の過ごした現実ってのは、もっと厳格で、変わり映えの無い平凡な日常を淡々と描くものだったはずだ。
二人の間に広がる静寂を、波の音が引き裂いていく。不規則に、規則的に響く音が、重苦しい沈黙をギリギリのところで支えている。
何か、返さなければ。
「ありがとう」でも、このさい「そうか」の一言だけでもいい。
俺が何かを答えなければ。
そう思うのだが、言葉は思考に追いつかない。
どう返せばいいかがわからない。
「頭ではさ」
口を開いたのは彩絵だった。
「あんたがあの歌を歌ったって思うと、なんでこんな奴がとか、認めたくないとか、考えるんだけどさ」
言葉の一つ選べない俺と違い、彩絵は訥々と、だけど着実に、言葉を選んで紡いでいく。
「でも、どうしても、嫌いになれないの」
その一言で、雑音の一切が消えた気がした。
広がるのは透明な世界。
その言葉だけが、色をもってとどまり続けている。
「あんたなんて、嫌いなはずだった。だけど、一度気づいちゃったら、何が嫌いだったのか、わかんなくなって、何に腹を立てていたのかわかんなくって!」
彩絵の言葉は少しづつ勢いづいていく。
語調が強くなり、責めるようなものになる。
だけど、どうしてか。
どこに怒りの矛先を向けたらいいのかわからなくったような、真っ暗闇で独りぼっちの子供のような、青い感情が垣間見える気がした。
「あんたのせいだ」
自責するように、呪詛を吐くように、彩絵が言う。
「……ごめん」
「……謝んな、バカ」
「じゃあ、ありがとう」
「勘違いしないでよ、バカ」
「じゃあどうしろって言うんだよ」
距離感が、わからない。
どんな風に彩絵と接してきたんだっけ。
ああ、そうか。
彩絵はここ数日、こういう悩みを抱えてきたのか。
「……責任、取りなさいよ」
「それは困る」
「困んな、バカ」
……ふぅ。
もう一つ呼吸をすると、潮の香りが満ち満ちた。
寄せては返していく波のように、思考のしびれが引いていく。
「……俺も、シロハさんのイラストが、好きだ」
思い返す。
あれはもう、ひと月以上前のこと。
進級直後のことだった。
「知ってる」
「空っぽなようでいて、力強くて、穏やかなようでいて、荒々しさを秘めていて。ああ、人って立体的な生き物なんだなって思わせる筆遣いに、惚れたんだ」
「……それは、初めて聞いた」
「誰にも言ったことがないからな」
俺は基本的に、感想を口にはしない。
宝物のように鍵をかけて、胸の内に秘めて置くタイプだ。
だけど、今だけは、形にするべきだと思った。
「シロハさんからさ、"There is Justice or Justice"のラフ絵が届いた時、しびれたよ。ああ、この人は本物だって感じた。シロハさんとなら、今までにない高みに登れるって思った」
「それは、私も同じかも」
「そっか」
「うん」
俺は腰かけていた堤防に立ち上がると、とんと彩絵の横に降り立った。
海に背を向けた今、吹き抜けるは息吹の追い風。
「だから、さ」
脳内に、いろいろな楽曲が流れている。
リソースの全部を捧げてリリックをなぞって、言葉を探して、やめた。
それは俺の言葉じゃない。
これは俺の言葉で形にするべきだ。
「これからも、力を貸してほしい。天敵の幼馴染としてじゃない。同じ高みを目指す戦友として」
手を差し伸べる俺に対し。
彩絵は両の手を胸の前で重ねた。
「私、藤白彩絵なんだよ?」
「だからなんだ?」
「これまでいがみ合ってきた女なんだよ?」
「だから、それがどうしたって言っている」
分かんねえ奴だな。
「俺はお前の絵に惚れて、お前は俺の歌が好きなんだろ。それ以上の理屈が必要か?」
ようやく、彩絵と目が合った。
俺はただ、頷いた。
彩絵もまた、頷いた。
「投げ出したら、承知しないんだから」
「そっちこそ、逃げ出すなよ」
「当然」
それから俺たちは、互いにこぶしを握ると、こつりとぶつけ合ったんだ。
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