藤子迅司良『荒野譚』評
海も山も平野も熊本の自然は豊かで、「優しさ」を感じさせる。しかし簡単に厳しさは現れ、そこに捕われている「私」という存在を浮かび上がらせる。夏は暑く、冬は寒い。阿蘇山や金峰山が、視界を遮る。季節の厳しさはその土地について、そしてその土地に生きている私についての実感を呼び起こす。
家族のこと、病気のことなどと向き合う時に、自らが存在している土地は作者にとって常に重要なのである。単純に受け入れるわけでも、立ち向かうわけでもない。藤子迅司良の『荒野譚』という詩集において、感情は抑えられ、過去の出来事に対して語りかけるような作品が多い。
生家からは北に
わが家からは西に
仕事場からは遠く南に
連なる金峰の山々
とうとうこの風景の懐から
逃げ果たせなかった
(「金峰連山」)
金峰山の他にも、阿蘇や三角の山々、そして海の向こうには島原も見える。どれだけ熊本の平野が緑を蓄えていようとも、一人で立ち尽くすときには私も「風景の懐」に取り囲まれて逃げられないのだと感じる。そのような土地を「荒野」と呼ぶのは、一つの発見であると感じた。
よく
北へ向かう道の夢を見る
こころのどこかにそれが
潜んでいるからだ
人にはきっと
それぞれの地形がある
(「地形」)
実際には地形は一つだが、私が感じる地形は、他人のものとは違う。普段見えている地形の向こう側は、想像しているものに過ぎない。熊本から北へ向かえば、佐賀や福岡にたどり着く。それは知識としてはわかっている。しかしそれは「私の地形」ではないのだ。
いつでも抜け出せるようでいて私を縛るもの。苦しめる時もあれば美しさも与えてくれるもの。そんな「土地」を常に感じることで、私の歴史も輪郭がはっきりとする。作者の土地に対する愛情は、時に冷たさを感じさせるほどに鋭い。あとがきには「ぼくは確実にこの地の土になる」と書かれていた。確かにそのような覚悟が、作品からも感じられるのである。
私は外から来たものとして、熊本は豊かで、荒野とは感じない。しかしそれは、いつでも抜け出せるという実感から来るものかもしれない。土地にとどまり、そこに居続けるという覚悟を持った時、その土地は荒野のように感じられるのかもしれない。荒野にも豊かさがあり、人生がある。荒野だからこそ見えてくる、というべきか。土地の見え方が変わり、人生の見え方も変わる一冊である。
引用 藤子迅司良『荒野譚』(2013)土曜美術社出版販売
(注)『詩と思想』2014年6月号掲載のものに加筆
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