#15 この気持ちの名前を
「はぁ……」
熱々の湯船に
帰って来てからずっと、頭を洗っている時も、身体を洗っている時も、今でさえ。
何かと直ぐにため息が出る。
湯船から上がるもわもわした湯気に似た、どこか温かい感じを含んだため息。
「あのとき……」
私はそう呟くと、口まで湯に浸かって、なんとなくに空気を吐き出す。湯船からはぶくぶくと音を立てて水の泡が浮かんで来た。
……………………
「なんだぁ? 姉ちゃん」
「俺らこのコに用があんだけど?」
男二人組は私を掴んでいた手を離し、真那の方へと威圧しながら近付いて行く。
私は反射的に真那へと手を伸ばした。
「ぁ……」
今の状況を思い出した私は、急いで真那にここから離れるように言おうと口を開こうとするが、心の底では真那が来てくれたことに救われていた。安心していた。
よって望んでいない言葉は口から出ない。
私は自分の弱さに唇を噛み、宙を切った手を強く、ただ強く握った。
真那に迷惑を掛けた。
真那に嫌な思いをさせた。
私は真那に何もしてあげていない。
真那は私を救ってくれた。
私は真那の、一体何を
もう、決壊した涙は止まらない。
「あれ、この女可愛いくね?」
「マジだ、なぁ、ちょっとあっちの彼女と一緒に良いトコ行かない?」
真那の容姿にすぐさま魅了された二人組は、私だけで無く真那にも詰め寄った。
急に詰め寄られた真那は、たじろぎ、その目は困った表情で私を捉えた。
「っ……」
私の所為だ。わたしのせいだ。
私がわざわざ自分のプライドなんて守ろうとするからこんなことになるのだ。
自分のプライドなんて、あっても無いようなモノなのに。
私は躾けられた飼い犬の如く、今もその場から一歩も動けないでいた。
じわじわと自己嫌悪で涙が出てくるのと同時に、真那と二人組の言い合いか何かか、滲んだ視界で地面を見つめる私の耳に、男女の
真那は私の為に戦ってくれているのだろうか。そんなのいい、私のことは見捨てて良いから、早く逃げて……。
もう、私なんかに……
「かまわないで……」
私が強く
「……ッ!」
それと同時に「バシンッ」と何かを強く叩く、渇いた音が響いた。
真那が殴られたんだ。
私を助ける為に戦って、殴られた。
その美しい顔に傷を付けた。
「ははっ……」
いくら二人組を非難しても、結局私も同じだ。あの二人組と同じ。
自分の為に、プライドの為に、真那を利用し、傷つけようとした。
ならば罪は同じだ。
「けど、それならッ……」
真那が一度殴られたなら、私は二度真那に殴られよう。
真那が一度暴言を吐かれたなら、私がそれから守る盾となろう。
真那に嫌な思いをさせないことを、私のせめてもの罪滅ぼしとしよう。
たとえ真那が気にしていなくとも、やってしまった事実は消すことは出来ないのだから。
私は決心した。覚悟を決めた。
半ば勢いで決めたが、仕方ない。
弱い心は去った。涙も溢れて来ない。
手も動く。足にもチカラが入る。
「くッ……!!」
私は身体にチカラを入れて、膝に手を置いて、ぐいっと勢い良く立ち上がる。
男二人組は恐いけど、それでも私は現役アイドルだ。今まで
勝つことは出来ないかも知れないけど、真那一人を逃す時間くらいは稼げるはず。
それでボロボロになったっていい。
アイドル活動に支障をきたしたって構わない。
これは、私の為だ。
私がちゃんとしたアイドルでいる為に、私がちゃんとした一人の人間で在る為に。
そう、あの真那のように。
「真那ッ! いま行ッ……!?」
私は何処からか湧き上がる全能感に支配され、今こそ物語の主人公になれた気がした。
真那を助けるヒーローに、己の弱さに打ち勝つヒーローに。
────でもこの時はまさか、あんなことになるとは思ってもいなかった。
決意を胸に勢い良く立ち上がる瞬間、ヒーローのように不屈に立ち上がる瞬間。
私の側に影が近付くのに気付かなかった。
「ふぎゃっ」
「えっ」
顔を上げ、勢い良く立ち上がった瞬間、私の顔に真那の手がめり込んだ。
真那は既に二人組を蹴散らしていたのだ。
たった一人で、私という助けを求める人の為に。
私なんかより、よっぽど物理的に強かった。
私が、なんか壮大なコトを考えている間に、真那は着実と手を進めていた。
さっきの「バシンッ」という音は、言っても分からない男の人たちを諫める為の鉄拳だったのだ。
それで難なく終わったから、いざ大泣きする私に近付き、手を差し出そうとして、そこで私が急に立ち上がったという訳だ。
急過ぎて避けられなかった、まだ開いてすらいない、真那のすべすべで柔らかい拳に、手加減なく思い切り顔を強打する私。
顔面の真ん中にめり込んだお陰か、鼻の感覚が消失し、倒れながら鼻血を噴いた。
「だ、大丈夫!?」
「………」
ブリッジするように倒れ、ぐたっとした私を、急いで近寄ってきて抱き支えてくれる真那。
ふわっと良い匂いがして、焦る真那の表情が可愛くて、私は、そのままゆっくりと目を閉じた。
「
優しく肩を揺らして呼び掛けてくれる真那に、こんなに心配してくれるなら、このまま死んじゃっても良いかなぁ、なんて考えながら、私は意識を飛ばした。
と、まぁ、そんな感じで色々ありまして、後から聞いた話、
真那さんは住民の人に聞いたりしながら一心不乱に私の家を探し、私の鞄に入っていた鍵で家の中に入って、私の部屋まで運び、それは丁寧に看病してくれたらしい。
意識を取り戻した私にホッと息を吐くと、どこか痛いところは無いか、気分は悪くないか、とか色々と質問してきて、その全てにちゃんと答えると真那は満足したのか、私の頭を撫でて、一言残して帰って行った。
その一言というのも、
「宇佐さんのこと殴っちゃってごめんね」
という私への謝罪であった。
あの人は一体どこまで良い人なんだ。
普通は謝らないだろう。自分に嫌がらせしてきた人が勝手に自分について来て、勝手に面倒ごとを起こしたと思ったら、勝手に差し出した手にぶつかって倒れるなんて。
私がただの迷惑な人じゃないか。
なのにあの人ときたら、許してくれて、助けてくれて、運んで来てくれて、看病してくれて、謝ってもくれる。聖人か、いや女神か。
あれっ、なんか急に涙が。
私がふらっと立ち上がってリビングに出ると、食卓に並んだ美味しそうな食事。
そして綺麗な字の一言メモ。
「時間が余ったので晩御飯作って置きました。どうかまた元気に学校に来て下さいね」
それを見て私は、
「くぅああああ……」
と変な奇声を上げて床にパタリと倒れた。
……………………
とまぁ、そんなこんなで今はお風呂の中に居る訳ですが。
なんだろう、この胸のドキドキは。
あの時のことを思い出すと、自然と身体が熱くなってしまう。
顔だって熱を帯びて、紅くなる。
本当にどうしちゃったんだろう。
今までこんなこと一度も無かったのに。
もしかして、なにか変な病気に掛かっちゃったとか……?
私は訳が分からず、ただ窓の外のボヤけた暗い空を見上げていた。
「はぁ……」
もう何度目になるのか分からない、熱の
そして、そっと、真那の拳をめり込ませた鼻辺りに触れる。
今も少し、たまにヒリッとして痛いそれ。
しかし、あの時のことを思い出すと身体がブルッと震え、お腹の下辺りがうずき、呼吸が少し荒くなる。
「もう一回殴られたら分かるかな……?」
私の独り言はお風呂場に響き、自分以外の人に聞こえることなく消えていく。
「はぁ……」
私は、私のこの感情の名前を、今はまだ知らないでいる。
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